第六話 田中君と相沢さんのとある休日の前の日
「田中先輩、今日飲みに行きません? 折角明日、休みですし」
僕の斜め前に座る入行三年目の後輩、春日君の言葉に僕は少しだけ首を捻りながら返答する。
「ええっと……なんで?」
いや、別に春日君と飲みに行くのがイヤなワケじゃないんだけどね? 急に誘われたからちょっとびっくりしただけだよ?
「おい、春日! 急に何言ってるんだよ! 済みません、田中先輩。実は今日、ちょっと若手で飲みに行こうかって話をしてまして。ほら、一年目の渡辺とか春日とか俺とかで」
「へー。小山君、ちゃんと先輩してるんだね?」
「まあ……ちょっと渡辺、行き詰ってるって言うか。今あいつ、預金の後方事務してるでしょ? 周りは女性ばっかりですし……厳しいんですって」
「あー……なるほど。指導担当は相沢さんだし、そりゃ相当詰められてるんじゃない?」
「まあ……そう、ですかね?」
相沢さんは預金の窓口を担当しているが……まあ、厳しいからね。そりゃ、こってり絞られてるかも。
「そういう訳でちょっと行こうかなって。息抜きっすね」
「なるほど。でも、それって僕が行っても良いの?」
「来てくださるならぜひ、ってカンジなんですけど……良いんですか?」
「誘ってくれたら嬉しいよ?」
「いや……その、やっぱり後輩との飲み会って」
「ああ、奢りになるからってこと?」
「……うっす」
「それは別に構わないよ。っていうか小山君だって全奢りのつもりだったんでしょ?」
「田中先輩だって全奢りするつもりでしょ? 俺、田中先輩と飲みに行って財布出した事ないですもん」
「僕だって先輩と飲みに行くときは財布出したことないよ?」
「それ、誘いづらくなりません?」
「……まあ」
特に僕の一個上の先輩は顕著だったしね。『俺だってずっと奢って貰ってたしな! お前も後輩出来たら奢ってやれ!』って良く言われてた。ウチの職場は結構体育会系だけど、これは結構いい伝統だと個人的には思ってる。厳しい分、飲み会では優しいのだ。
「有難いし助かるし……それに、楽しいんですけど……やっぱ、気を使います。今日は払わせて下さいよ?」
「んー……でも、この辺は僕のポリシーみたいな所もあるし。払わせてよ?」
「……はー。だからイヤだったんですけど……きっと聞かないんでしょ?」
「うん」
「……分かりました。それじゃ、済みません。ゴチになります」
「はいはい。何時から?」
「七時からっす」
「それじゃ、それまでに仕事、終わらせておかないとね~」
今日の予定を確認し、僕は自分の仕事を片付けるためにパソコンに向かった。
◇◆◇
「……ううう……厳しいんですよ~」
「ホレ! そんなに落ち込むなよ、渡辺! 飲め飲め!」
既に宴もたけなわ、大分酔っぱらった渡辺君が涙目でビールを呷る。
「……同期は皆、融資係とか外交係なんですよ~。なんだか俺だけ取り残されたみたいで……飲み会しても、融資の話をするから話合わないですし……なんか、置いて行かれてる気がして……それに、周りは女の人ばっかりだし!」
「あー……まあ、それは確かに思う所があるかもね~」
ジョブローテーションというシステムがある。銀行業務は預金、為替、出納、融資、資産運用など多岐に渡るので、それぞれを少しずつ学んでいこうというシステムだ。
システムなのだが、多くの男性行員は概ね融資係か、融資の外交係に最終的には落ち着く事が多い。まあ、伝統的にそうなっているからなのだが、中々融資係に行かせてもらえないと不安になる事は往々にしてあるのだ。
「ウチのジョブローテーションは預金から融資、融資から外交係が多いからな。若手も田中先輩、俺、春日と上も詰まってるし、中々渡辺まで回ってこないか」
「そうなんすっよ……誰か、転勤してもらえないです? 特に春日先輩とか!」
「おい! なんで俺なんだよ!」
「だって……田中先輩と小山先輩がいない融資係とか不安なんですもん。その点、春日先輩なら居なくても良いかな~って」
「おま……それ、思っても言っちゃダメなヤツ!」
「でも、春日先輩も思いません?」
「まあな。田中先輩は事務完璧だし、小山先輩はお客様担当ピカ一だもんな。むしろ小山先輩、外交の方が良いんじゃないですか?」
「俺はまだまだ内勤勉強だよ。丁度一個上に教科書があるんだし」
「……君たち、ほめ過ぎじゃない?」
「んな事ないっすよ! あの次長が稟議書見ずに支店長にスルーパスするの田中先輩のだけっすよ? 凄いですって!」
そう言って持ち上げてくれる春日君。嬉しいけど、ちょっと照れ臭い。
「ほら! やっぱり此処は僕の為に春日先輩が……」
「俺だってイヤだっての! つうかな? お前、何が不満なんだよ! お前の指導担当、相沢先輩だろ? すげー美人じゃん、あの人!」
おっと。此処で相沢さんの話題?
「いや、美人なのは認めますけど……厳しいですし。ミスしても怒鳴ったりはしないですけど、淡々と怒られる感じが」
「まあ、クール系だもんな、相沢先輩」
「小山先輩も分かります? 美人にあんなに淡々と諭される様に怒られるの、すげー嫌なんですよ……」
「なに贅沢言ってんだよ! あんな美人に淡々と怒られるなんてご褒美以外の何物でもないだろうが!」
「……春日先輩。性癖、暴露し過ぎでしょ」
「良いじゃん! あ、そうだ! なんか失敗したら今度泣いて見ろよ! そしたら、よしよしって慰めてくれるかも知れないぞ? 基本、面倒見は良い人だし」
「まあ……」
「どうするよ、渡辺? 相沢先輩のあの豊満なバストで抱きしめられたら!」
……うん?
「な、なに言ってるんですか!」
「お前こそ何言ってるんだよ! だって相沢さんのバストだぞ? あの胸、すげーじゃん! もう凶器だよ、凶器! お前だって気にならないわけじゃないだろ?」
……。
「……ま、まあ。つい、ちらっと見てしまう事は」
………。
「だろ! 小山先輩はどう思います?」
「セクハラだぞ、それ」
「いいじゃないですか、男だけですし!」
「……見ない努力するのは大変だ、とは思う」
「でしょ!」
…………。
「良いですよね~、あの胸。俺もあんな胸に顔、埋めてみてー!」
……………。
「ね! 田中先輩もそう思いません?」
春日君の言葉に、にっこりと笑って、僕はジョッキに残ったビールを一気に飲み干して。
「――――セクハラ、だよ?」
そのジョッキをテーブルの上にドンっと置く。テーブルの上の料理が少しだけ、跳ねた。
「……まあ、気持ちは分からないでもないけどね? ダメだよ、セクハラは」
「「「…………」」」
「あれ? どうしたの、皆?」
「あ……い、いや……その……な、なんか済みません」
「なにが?」
「な、なにがって……」
「さ、飲もうよ? ビール飲む人~」
僕の声に、皆が恐々と手を挙げた。あれ? どうしたの、皆?
◇◆◇
「あ、お帰り」
「……なんで居るの?」
「き、来ちゃダメだった?」
「いや、別に良いけど」
「ほら、明日休みでしょ? 田中、予定はないって言ってたから……ちょっとお掃除でもしようかなって」
「いつもすまないね~」
「それは言わないお約束よ」
そう言ってエプロンをしたままおかしそうに笑い、掃除を再開する相沢さん。なんだかその姿が新妻感があってぐっとくる。
「それじゃ――って、た、田中!? ちょ、ちょっと! なんで抱き着いて来るのよ!」
堪らなくなり、僕は相沢さんを後ろから抱きしめる。最初は抵抗していた相沢さんだが、徐々に諦めた様に体の力を抜く。
「……もう。なに? 甘えたいの?」
「……そうかも」
「……え?」
「ダメ?」
「だ、ダメじゃないけど……びっくりした。田中、そんな事普段は言わないから」
「酔ってるのかな?」
そう言って、僕は相沢さんを抱く力を緩めてこちらに体を向かせる。エプロンの下からでも主張するその胸に視線が行って。
『良いですよね~、あの胸。俺もあんな胸に顔、埋めてみてー!』
「……ああ」
「どうしたの?」
「ん……なんだって思って」
「なんだ?」
「いや……嫉妬してたのかって」
「嫉妬?」
腕の中でコクンと首を傾げる相沢さん。そんな相沢さんの愛らしい姿に、僕は思わずその胸に顔を埋めた。
「ちょ、た、田中!」
「……あげないよ?」
「あ、あげない? なにをよ! っていうか、そろそろ胸から――」
「綾子は、僕のだ」
「――はな……ちょ、え、は? た、田中! い、今、私のこ――」
「……眠くなっちゃった」
「って、寝るな! お願い! もう一回! もう一回!」
「ううん……揺すらないでよ、相沢さん。気持ち悪くなる……」
「ご、ごめ――じゃなくて! 田中!」
「おやすみ~」
「田中っ!!」
相沢さんの何処か必死な声を聞きながら――その胸の気持ちいい感触を楽しんで、僕は意識を手放した。