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ちえこ先生はしんだ

作者: 三井 葉

  頼みたる方の事は違ひて、思いよらぬ道ばかりはかなひぬ。


 何事も思い通りにはいかないと、昔から相場が決まっているのだ。

 日頃は四苦八苦して生徒を黙らせる教師も、今この瞬間ばかりは生徒が口を開くのを待ち構えていた。

 生徒の大半は教壇に黒いつむじを向けたり、呆けたように時計を眺めているだけだ。


 一方、一人の女子生徒が、教師の死角でゆっくりと手のひらを机から起こした。


  教室は押し黙ったままだ。


  彼女は真っ直ぐ腕を伸ばした。


  教師は掲げられた掌を見つけて、安堵の表情を浮か べ、女子生徒の顔を見て、僅かに驚きの色を示した。

  教室全体の意識が彼女に向いた。


「やってくれるか?」


 教師の声は、念を押していると言うよりも、本当に彼女の意思を確かめているようだった。


「はい」


 女子生徒が頷くと、教師は心をこめて「ありがとう」と言い、踵を返して黒板に向かった。教室からパラパラと拍手が起こり、次第に大きくなった。彼女は気圧されて小さく会釈した。

白字で『1600Mリレー』と書かれたすぐ横の、三つの名前を隔てて『浦野佳那』の文字が追記された。

 


 ♢



「佳那ちゃんのおかげで早く帰れるよ」


 終礼を終えて、慌ただしく生徒が教室を出て行くなかで、美郷が佳那に声をかけた。美郷は佳那が二ヶ月前にこの高校に転入してからの、最初の友人だった。

 彼女のポニーテールが、彼女の活発さを象徴しているようだった。


「うん、どういたしまして」


 佳那は鞄に教科書を押し込みながら空返事をした。


「走るの好きなの?」

「え?」


 佳那は美郷の質問に不意を付かれて手を止めた。走るのが好きなんて思ったこともなかったのだ。


「違うの?」


 言った直後、美郷はにやりと笑った。佳那は嫌な予感がした。


「それかリレーのメンバーに好きな人がいる、とか」


 美郷は佳那の僅かな表情の変化を見逃すまいとして、佳那を覗くように見つめた。


「違うって」


 佳那は眉一つ動かさずに返した。

 美郷は、そっか、と大人しく引き下がった。こういうやり取りは二人にとっては飽きたものだった。主に佳那が迫られる側だ。


「てっきり妻夫木くんかと思ったんだけど」


 美郷の呟きには一層うんざりさせられた。ちょっと視線が向くだけで、まともに話したこともない男子と噂になるなんて、とんだ理不尽だ。


「違うってば。もう行こう」


 佳那は制定鞄を肩に背負って、わざとスタスタ歩いた。美郷が後から着いてきて、


「結局なんで走るのよー」


 と不満そうにぼやいていた。



 ♢

 

 


 夕暮れの中にいると、いかにも青春の帰路という感じがして、自分が映画か何かの登場人物のように思えることがある。帰り道にその気分を味わえるのは帰宅部の特権だ。

 美郷はバレー部に所属しているが、佳那自身は帰宅部だった。二年生の今から部活に入ってもすぐに引退が来てしまうから、部活には入らないことにした。

 

 佳那は一人で、スクリーンの中を歩く感覚に浸っていた。最初は慣れなかったこの道も、無意識に歩みを進めるようになっていた。


 自分には空想癖みたいなものがあると思う。

 見慣れた景色の中で単調なことをしていると、気づかないうちに空想の波がやってきて、自分を飲み込んでしまう。

 ふとすると波は去って、呆然とした自分が取り残されているのだ。それは一人で帰路を進むこの瞬間も例外ではない。

 

 廊下を歩いていた。


 ちょうど帰路を歩くのと同じような歩調で。窓の外は漆黒が広がっている。

  夜の闇ではなくて、ブラックホールのような底なしの闇。

  向かいの壁には、テープで四隅を止められた白い紙の上に、丸くてカラフルなひらがなが、ビンクのウサギや水色の像と共に踊っていた。

  佳那はそれらを追い越しながら、誰もいない廊下を迷いもせず進んだ。慣れた道では無意識に足が動く。

  靴音だけが軽快に反響した。


  佳那の足は廊下の奥の教室で止まった。その教室だけが朗らかな子どもたちのざわめきを発していた。

  佳那は教室の前側の扉を開けた。


 授業が行われていた。

  二十人ほどの子ども達の、十人十色の表情を浴びながら、教壇では、中肉中背の、中年の女性が一人、ふくよかな頬をゆるませて何か説明していた。


 智絵子先生だ。


 智絵子先生はしきりに黒板を指し、体中で大事なことを伝えようとしていた。一生懸命で、真剣なんだということが伝わってくる。

  しかし子ども達は先生の説明を気にもとめない。

  特に酷いのは前列の方の女子だった。彼女は智絵子先生をちらちら見ながら、周囲の女子と小声で何か言い合ったかと思えば、皆でどっと笑うのだった。


 佳那は教室と廊下の境界線に立ち尽くし、ぼんやりとその情景を見つめることしか出来なかった。


 どれくらいそうしていただろうか。突然、教室の後ろに座っていた生徒が一人、ふっと溶けるように姿を消した。

  それが引き金となって、一人、また一人と消えていった。

  教室の喧騒はだんだん音量を下げていく。

  最終的には数人になった。先ほどの女子の集団だった。もうその頃には彼女らの話し声が静寂の中に目立つほどだった。静まった図書館で爆笑しているような見苦しさだ。

  悪口と、笑い声と、智絵子先生の穏やかな声だけが続く。

 そして、ついに生徒は二人だけになって、ついには主犯格の女子が消え、一人が取り残された。

  その女子は、もう自分の他には智絵子先生しか居ないのに、なお笑い続けていた。

  何がそんなにおかしいのか、たった一人で、糸のように目を細め、白い歯を見せつけて、笑っていた。

  甲高く耳障りな笑い声は、だんだん音量を上げていく。


 アハハッ、アハハハハハ!

 アハハハハハハ!


 佳那は血の気が引く思いがした。

  今すぐその場から逃げ出して、出来るだけ遠くに行きたいのに、足はその場に固定されて動かなかった。

 

  突然、鐘の音が鳴り響いた。


  その音は佳那の心臓まで振動させ、佳那の身は震えた。

  静寂が訪れた。

  最後の生徒が消えたのだ。智絵子先生だけが取り残された。

 智絵子先生は出席簿を抱えて佳那の方へゆっくり歩いてきた。佳那は身を竦ませて智恵子先生を見た。

  智恵子先生はまだ微笑みをたたえていたが、その瞳はちょうど窓の外の闇に似ていた。

 ずい、と智恵子先生の体が近づく。


 ぶつかる、と思った時、波は過ぎ去った。


 佳那は自宅の表札の前に居た。

 佳那はぎぃっと音を立てて郵便受けから夕刊を取り出して、玄関の扉を開けると、「ただいまぁ」と一声挙げて中に入っていった。



 ♢

 


 妻夫木祐平は兄が苦手だった。

  年の近い兄は今年受験を控えている。帰宅してリビングに入れば、ソファの上で寝転びながら英単語帳を眺めている兄が目に入った。相変わらず、真剣に勉強をしているのかしていないのか分からない。

  声をかけると嫌味を言われるに決まっているから、祐平は無言でエナメルバッグを部屋の隅に置くと、ユニフォームを取り出した。


「走るヤツいた?」


 気の抜けた声で兄が言った。こちらに足を向ける体勢だったから、兄の顔は伺えなかった。


 今日の終礼では、学校のどのクラスも選手決めをしたのだった。そして、兄が聞いているのはきっと『1600メートルリレー』の事に違いないのだ。それは体育祭委員である祐平にとって最も厄介な競技だった。

 今年から各学年に新種目を置くなんて考えたのは、どこの勝手な大人なのだろうか。体育祭委員では抽選が行われた。祐平は見事貧乏くじを引き当ててしまった。


 『会議の結果、二年生は1600メートルリレーをすることになりました』、とホームルームで発表したとき、誰かが発した「えーっ」という小さなつぶやきが、いつまでも耳にこびりついている。


 クラスメイトの陸上部二人は、半ば義務感に押されるように手を挙げてくれた。サッカー部の祐平自身も走ることにした。クラスにサッカー部は他にもいるが、自分は走る方がいいような気がした。そしてあと一人は、意外な人物が手を挙げた。


「いたよ」


 兄の「まじか」という呟きを背にして、祐平は汚れたユニフォームを手にリビングを出た。

  彼女はなぜ走るのだろう。ふとそんな疑問が脳裏をかすめた。

 

 ♢


  特訓はその次の日から始まった。


 秋の朝の涼しい空気が、通気性に優れた体操服を通して佳那の肌をさすった。まだ早朝とも言える時間だが、グラウンドでは青いユニフォームや白いランニングシャツが駆け回っていた。


 部活動で使われているところを除いて、佳那が使えるのはグラウンドのレーンの半分だった。本番ではグラウンドを一周することになるので、往復して練習するしかないようだった。


 部活でもないのに、一人だけ体操服を着て走り回るなんてちょっと恥ずかしい。しかし、佳那は自分が本気を出して努力すれば、皆の期待に応えられる自信があった。佳那は中学時代はテニス部として走り回っていたのだ。

  うまくいけば、意外と速く走れるかもしれない。みんなを少しびっくりさせられるかもしれない。


 佳那はレーンの出発点に立った。まっさらなスニーカーの靴ひもを縛り、『セット』の体勢をとる。


 よーい、

 どんっ。


 久々の走りは、涼しい風を全身で受け止めて、とても心地良かった。走るのが好きになりそうなくらい。一往復を終えた佳那はすかさず二走目にとりかかった。



 よーい、どんっ。

 


 よーい、どんっ。

 


 よーい、どんっ。

 


 やがて体操服に湿りを感じた。

  佳那は走っていなかった。立ち尽くしていた。

  足元には四角い体重計が落ちていた。


「あーっ、ちょっと増えちゃった」


 幼い声の方に目を向けると、丸い瞳がこちらを見つめていた。その視線の高さが自分と同じで、佳那は自分も幼いのだと自覚した。

  その子は健康診断表を手にしていた。薄暗い室内には薄汚れた機器が揃っていた。

  保健室だ。

  窓の外は相変わらず塗りつぶされたように黒い。


「ブタ子より軽いから大丈夫だよぉ」


 もうひとり、佳那の傍にいた女の子が笑いを堪えながら言った。智絵子先生の教室にいた、主犯格の女の子だ。

  二人は耐え切れないという風に吹き出した。静かな室内でその高い声はいやに通った。


「次、佳那ちゃんの番だよ」


 言われて、佳那の片足は自然と体重計の上に乗せられた。

  半円形のメーターの赤い針が、少し動いた。

 佳那の両足が乗ると、メーターは回転を始めた。


 二十キロ代まで一気に回転し、その後三十キロまで進んだ。そこで止まったと思われたメーターはさらに回転を続ける。

  二人の少女の気配はいつの間にか消えていた。佳那の目はメーターに貼り付いて動かなかった。


 四十、五十、ぐるぐる、ぐるぐる。止まらない。


 ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる……


 最早数字の判別ができないほどの速さでメーターは回り、体重計は歪な悲鳴を上げていた。

 佳那は弾かれたように体重計から飛び降りた。

  そこで丁度七往復目のゴールだった。



 ♢


 

「浦野ー」

  膝に手をついて肩で息をしていた佳那の方に、ブレザー姿の誰かが小走りで近づいてきた。

  妻夫木祐平だった。

  いつの間にかサッカー部の朝練は終わっていたのだった。

  佳那は腕で汗をぬぐいながら、思わぬ人物の登場に戸惑った。


「おはよう」


 とそれだけ返すことしか出来なかった。


「おはよ、リレーの練習してんの?」


 佳那は首を縦に振った。まだ息切れが収まらず、話しにくかった。


「手挙げてくれて、ありがとうな」


 祐平の素直な感謝の言葉に、佳那は今度はかぶりを振った。


「私がやりたくてやるだけだから」


「そっか」


「妻夫木くんこそ、偉いね。委員も選手もしてるし」


 佳那が褒めると、祐平は「いや」と口ごもって、気まずそうに目を逸した。


「不可抗力だから、偉くないよ」


 祐平は苦笑いして言った。


「ていうか、バトン渡しの練習もした方がよくない?」


 祐平の提案に、佳那は頷いた。


「うん、そうかも」


「じゃあさ、俺も明日から一緒に練習していい?」


 え、と今度は佳那が口ごもった。


「俺もリレー出るし」


「いや、悪いよ」


 佳那は焦って手をふりふり言った。

  押し問答が始まった。あまり善意を拒否するのも気が引けて、佳那が押し負けた。


「じゃ、明日からよろしく」


  祐平は頬を緩めて言った後、校舎の方へ駆けていった。

  その表情を見て、佳那は胸がきゅっと縮まった気がした。

  佳那はぼんやりとその後ろ姿を目で追ってから、自分がまだ体操着であることを思い出し、慌てて同じ方角へ走った。

 


 妻夫木くんは、本当に親身にバトン渡しの練習に付き合ってくれた。

  毎朝二人で練習しているところを見られたら、それこそ変な噂が立つかもしれないのに。

  佳那が他人の目よりも気にしたのは、祐平の顔色だった。

 しかし彼は面倒くさそうな素振りを見せなかった。

  むしろ、あともう一回だけ、と時間ギリギリまで練習を続けようとした。

  ストップウォッチを片手に走って、0.1秒でもどちらかのタイムが縮まると、嬉しそうにタイムを発表した。

 

  必死で、真剣だった。

  責任感に突き動かされているように見えた。

  真面目なんだ。

 そういうところが、何となく似ている。

 


 ♢



 本日は天候にも恵まれ、絶好の体育祭日和となりました。

  そんな定型句がまさにぴったりの空模様となった。

 照りつける日光が人々の肌を焼き、グラウンドが熱を照り返した。テントの中には所せましと来場者が腰を下ろし、日の下ではお揃いの体操着がせわしなく動き回っている。

 体育祭はクラス対抗で行われた。一年生から三年生まで全クラス対抗で行われ、全体の一位と入賞者が決定されるのだ。


 五十メートル走、百メートル走など競技系の種目の合間に、ダンス、組体操と渾身のパフォーマンスが目まぐるしく行われた。


 最終種目の『1600メートルリレー』の時間がやってくる頃には、みんな疲れ果てて活気を失っていたが、最後の気力を振り絞るように、テント下の生徒達は腰を起こして、その結末を目に焼き付けようとしていた。

  佳那達のクラスは、その時点で全クラス中、上から数えて四番目、学年では二位と好成績を収めていた。

  リレーがうまくいけば、学年優勝と全体入賞が手に入る。



 軽やかなミュージックと共に、選手全員が配置に着いた。


 五人の第一走者がレーンに立つと、会場はせり上がる熱を押し殺して静まり返った。


  とうとう開演を告げる銃声が響いた。

  爆発的な声援が会場を揺らす。

  普段は大人しい子も、この瞬間ばかりは声を枯らして声援を送る。そうせざるを得ないエネルギーが、会場を満たしていた。


  やがて、第三走者の佳那もレーンに立った。

  バクバクと波打つ心臓の音が大きすぎて、送られる声援が聞き取れないほどだった。

  ただ一つだけ、美郷の、佳那がんばれ、という甲高い声だけはしっかりと耳に届いた。


  大丈夫。誰よりも練習した。絶対できる。

 

  第二走者が走ってくるのが見えた。そこからはあっと言う間だった。


 バトンを受け取って、地を蹴った。うまく受け取れた。よかった。


  バトンがいつもより重い。周りの声がぼんやりして、聞こえない。視界は狭まり、真正面しか見えなくなった。


 負けられない。


 そう思うと自然に加速していた。後で苦しくなるなんてリスクは考えられなかった。

 

 速く、もっと速く。

 倒れたっていい。

 この体の限界まで。

 

 ぐんぐん景色を追い越していく。けれど追い越すのは色の無い景色ばかりだ。一直線の薄暗い廊下は、どこまでも続いている。

 高校生の佳那は、体操着のまま、無心で走っていた。いや、無心になろうとしていた。押し殺しているのは恐怖だった。

 後ろから、黒い言葉が追ってくる。無数の黒い言葉は、密集して、ブラックホールになって、佳那の後ろから景色を飲み込みながら追ってくる。

  目の前の廊下は先が見えないほど続いている。自分はどこかで力尽きて、言葉に飲み込まれてしまうのだろうか。


『先生はもう限界です』


 廊下のスピーカーから発せられた幼い声。ぽつりと呟く声だったが、音量が大きくて、頭の中に直接響くかのようだった。

  その声は、ほかでもない、智絵子先生の教室で笑っていた声と同じ。過去の佳那自身の声。


『先生は、たくさんがんばりました。でも、みんなは笑いました。先生は、つらくて、かなしい気持ちになりました』


 声が短調で心が篭っていないのは、朗読をしているからだ。

  佳那は顔をしかめた。

  耳を塞ぎたいけれど、それは出来ない。しっかり腕を振らなければ、速く走れない。


『だから、先生は、今日でみなさんとお別れをすることにしました。もう先生は学校に来ません。私は先生をやめます』


 聞きたくない。


 思わず足がもつれて、こけそうになる。

  なんとか持ち直して、足を動かす。

  ふくらはぎとふとももが痛い。足の裏の感覚が無い。もうだめだ。


『ちえこ先生は、しにました』


 智絵子先生が妻夫木智絵子になった日。佳那の机の中に白い封筒が入っていた。

  佳那にだけ宛てられた一通の『遺書』は、その日からずっと、佳那を呪い続けている。


 チカチカと白黒に点滅する世界の中で、佳那は精一杯腕を伸ばした。


 

「——妻夫木くん!」



 この学校に来て、出会ったその瞬間に誓った。

 どんな形でもいい。


 あなたの力になりたかった。


  ぱしっと音を立てて、バトンはアンカーの手に渡った。


「任せて!」


 祐平の勇ましい声を聴いて、疾風のように走り去る背中を見て、佳那の体は膝から崩れた。


「佳那、すごい、がんばったよ!」


 どこから入ったのか、美郷が駆け寄って抱きしめてくれた。彼女に引きずられるようにしてレーンから離れ、グラウンドにしゃがむ。


「佳那?」


 美郷の珍しく困惑した声が聞こえた。佳那の目下の土に、ポタポタと雫が落ちた。

  肩に美郷の暖かい手が乗った。

  もう止まらなかった。

  声を殺して佳那は泣いた。アンカーが帰ってくる前に泣き止みたいのに、いつまでも涙は溢れてきた。


 佳那は無心で走りながらも、自分が抜かされていることを自覚していた。焦れば焦るほどその差は開いていった。

 祐平に遅れをとらせてしまったという事実が突き刺さった。


 ピストルが鳴った。


 祐平がゴールテープを切る瞬間を、佳那は見ることが出来なかった。



 ♢

 

 

 熱の冷めたグラウンドには、からっぽのテントと、踏みにじられた石灰の線、そして全身に疲労を滲ませた生徒達が残された。


 片付けには生徒全員が動員された。みんなどこか鈍い足取りで、テントを畳んだり、入退場門を解体したり、自分で仕事を探しながら、地道に作業を続けていた。

 佳那は祐平に誘われて、ハチマキの洗濯にあたっていた。

  校舎裏の小さな手洗い場には、自分たち以外には誰も居なかった。ダンボール箱の中には底が見えないほど薄汚れたハチマキが詰め込まれていた。

  二人は黙々と一枚一枚泥を落として、終わったものは傍に敷いたブルーシートの上に並べていった。


  佳那の涙はとっくに止まっていたが、妻夫木くんに見られたかもしれないと思うと、穴に入りたくなった。


「浦野」


 呼ばれて、佳那は手を止めずにそちらを見た。


「走ってくれてありがとう」


 祐平が佳那に礼を言うのはこれが二回目だった。佳那は唇を噛んだ。


  ありがとう、なんて言われる立場ではない。彼は私が走った理由を知らない。それでは妻夫木くんを騙したままということになる。

 

  数秒の沈黙のあと、佳那は、あのね、と切り出した。

  佳那の神妙な様子に、祐平は手を止めて、蛇口をひねって水を止めた。佳那も手を止めた。


「私、小四の時、智絵子先生のクラスだった」


 急に自分の母親の名前が出て、祐平の目が見開いた。しかしすぐに元の様子で佳那の話に耳を傾けた。


 佳那はぽつりぽつりと語りだした。


 私達は智絵子先生にひどいことをしたの。けれど先生はいつも笑ってた。だから気づかなかった。一番悪いのは私じゃないと思ってた。苦しい人ほどよく笑うって、今なら分かる。


 遺書がね、入ってたの。机の中。先生が辞めた日に。


 それを読んで初めて、私達が何をしてたか分かった。私はあんなふうに先生を笑って、それが先生にとっては一番嫌だったのかな。だから私にだけ、あんな手紙書いたのかな。


 分かってるよ。こんなの、罪滅しにもならない。でも、出会った瞬間に、どうにか妻夫木くんの力になりたいって思ったの。自己満足って思うかもしれないけど……。


  佳那の声は震えていた。

  ずっと押さえ込んでいた言葉が、意思に従わずにぽろぽろ溢れた。

 

  本当に言いたいのはこんなことじゃない。ちゃんと、自分は悪いと思っていることを伝えなくちゃ。


「だからね、妻夫木くん」


「――ごめん」


  佳那は、不意に聞こえた弱々しい声が、祐平のものだと理解するのに時間がかかった。

  戸惑いの色を浮かべてその顔を見た。


 祐平の唇が震えていた。

  伏せられた目は不安そうに佳那を見ている。初めて見る表情に、佳那は息を飲んだ。

  祐平は、ゆっくりと口を開いた。彼の話は、佳那にかけられた『呪い』の正体を解き明かしていった。

 


 妻夫木祐平が通っていた小学校は、母の勤務する学校ではなかった。だから、母が授業をする姿は目にしたことがなかった。

 それでも、自分の親が『先生』であるということは、なんとなく誇りで、友人に自慢することもあった。


 しかしある日突然、母は食卓で呟いた。


 私ね、もう先生の仕事はやめて、別のお仕事がしてみたいの。


 憧れの母が先生をやめるなんて受け入れられなかった。なぜ、と問いたかったが、母は核心をはぐらかした。

 祐平は塾に通っていた。

  そこに一人、母の学校に通う友人が居たので、かまをかけてみた。

  すると、恐ろしい答えが返ってきた。


「おれ、クラス違うし、あんまわかんねぇけど。ちえこ先生って、みんなにブタ子って呼ばれてるらしいぜ」


 祐平は愕然とした。

  感じたこともない激しい感情が、胸の底から湧き上がった。


 犯人達に、罪の重さを思い知らせる為に考えたのが、『遺書』だった。

  祐平は、先の塾の友人に、日時を指定して、嫌がらせの主犯の机に手紙を入れるように頼んだ。


  罪悪感が無かったわけではない。

  母の言葉を捏造して、誰かを傷つけたという事実は、高校生の祐平の胸にわだかまりを作っていた。

  徐々にその存在感は薄れていったが、今この瞬間、その違和感はさらに大きくなって、祐平の胸を締め付けた。


 およそ七年の時を経て、祐平は自分の間違いに気づいた。祐平が書いた力作の『遺書』は、狙いを外れて、主犯ではなく観衆の一人に渡っていたのだ。


 

 佳那と祐平は、糸が切れたように沈黙した。

  蛇口からゆっくり落ちた水滴が、ぽたっと落ちた。もう片付けも終わりを迎えて、グラウンドに居た生徒の声が減っていった。


 佳那は、祐平になんと言葉をかけていいか迷った。


 妻夫木くんは悪くないよ?


 そんなの、当たり前のことだ。自分が偉そうに言えたものではない。


 智絵子先生の事を謝る?


  でもそれは、許されることをこちらから強制するみたいだ。許されたくて白状したんじゃない。


  佳那と祐平は、お互いに後ろめたさを抱えていた。長い間、馬鹿丁寧に育ててきた胸の中の異物を、どうしたら綺麗さっぱり無くせるのだろうか。

  佳那はせめて、祐平の違和感を取り除きたいと思った。

  けれどそれは、不可能なことだと分かっていた。

  例えどんなに時間が経ったとしても、自分達はこの厄介な感情を、どこかに仕舞って、大事に保管して、ふとしたきっかけで思い出さずにはいられないのだ。

 

「私、怖かったな」


 祐平が佳那の顔を見た。佳那は苦笑いして続けた。


「先生は私のこと恨んでるんだって、ずっと自分のこと責めてた。変な夢もいっぱい見た」


「俺も」


 祐平が硬い表情で口を開いた。


「いじめって、最低だと思う。マジで。教師だからって傷つけていいもんじゃないだろ」


 うん、と佳那は頷いた。祐平の表情は少し緩んだ。

 祐平と佳那は腰を上げて、片付けを始めた。教室に戻らなければ、終礼に遅れてしまう。

 


 ♢



「そういえばさ」


 西日が差すグラウンドの途中で、ダンボールを抱えて佳那の前を歩く祐平が言った。


「今日、母さん来てたんだ」


 佳那は驚きで息が止まりそうになった。


「俺の前に走ってた子が、真剣で、かっこよかったって言ってた」


 佳那はまた目頭が熱くなって、祐平の背中に隠れて無言で頷いた。


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― 新着の感想 ―
[良い点] ストーリー自体はシンプルですが、罪悪感に対する表現がしっかりしていて佳那はとても印象的でした。 [一言] 面白かった!
[良い点] 全体的に詩的な美しい表現で、すごく素敵だなと思いました。 また、暗いまま終わらずにちゃんと最後に主人公が救われる構成になっていて、短い文章の中でそれをこなす作者さんの構成力の高さに脱帽です…
[良い点] 『リレーに出るタイプではなさそう』な主人公が、高校生にとってとても難しい『体育祭で目立つ種目に自ら出ること』、そしてその練習をすることで、どれほど過去のものが重かったかが、高校生の頃を思い…
感想一覧
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