運がない男
「ヘックション!」
人が行き交う商店街で、一人の青年が大きなクシャミをした。風邪気味なのか、さきほどから鼻水がひどいようである。
季節はもうすぐ冬であった。町中の木々は枯れ、商店街のあちらこちらにも落ちたイチョウの葉が風に吹かれて転がっている。
クシャミをした青年は、自分の上着のポケットに手を突っ込んでみるが、ポケットティッシュは見当たらなかった。自宅を出るときには確かにポケットティッシュを用意してきたはずだが、さきほどから鼻水が止まらないせいでどうやらもう使いきってしまったようである。
青年はその場に立ち止まり、後ろを振り向いた。ポケットティッシュを今から買いに行こうかと悩んだようだったが、今この状態で同じ道を引き返すというのは億劫だと考えたらしい。そのとき青年の手には、大きな荷物が抱えられていたのである。ついさきほど商店街で購入した安売りの掛け布団を手に持っていたのだ。これは青年の実姉から頼まれた買い物であった。
青年は毎日筋トレを欠かさないたくましい男であったが、男勝りな姉の前ではただの物分かりのよい弟だった。数時間前から頭痛がして鼻声になりはじめていた青年であったが、姉はそんな弟に対してこう言ったのである。
「今から商店街に行って、大きめの掛け布団買ってきて。今日は安売りなんだってさ。あたしは部屋でテレビ見てるから、あんた代わりに買いに行ってきて」
そのとき姉の身体は健全であったが、テレビのついた部屋から外へ一歩も出る気配はなかった。台所にあったコップで水と風邪薬を飲んでいた青年は、姉に気づいてもらえるよう多少大袈裟に咳をしてみせたが、その効果はゼロであった。姉は弟の顔を一瞥すると鬼の親戚のような表情で「行ってこい」と言うので、青年は急いで上着の袖に腕を通し、商店街へ使いに来ていたというわけである。
ポケットティッシュを買うことを諦めた青年は、鼻を思い切りすすって商店街を歩き出していた。両手で荷物を抱えているため歩きにくそうである。さきほど風邪薬を飲んできたはずだが、その効果がまだ現れないのか、青年の身体に効き目がなかったのか、鼻水は止まらないようである。
ふと気を抜くと、危うく青年の鼻から鼻水が姿を見せそうになる。こういうとき都合よく、道端でポケットティッシュを配っている人がいればよいのであるが、青年が周りを見渡しても商店街にいるのは買い物客ばかりである。そう都合のよいことはなかなか起きないようである。
青年はティッシュを手に入れる考えをやめ、一秒でも早く自宅へ帰ることに集中した。わざわざ今ティッシュを手に入れなくても、自宅に着いてしまえば、ストックしておいたティッシュの箱が山のようにあることを思い出したようだ。家に着けば、姉に購入した掛け布団をさっさと渡し、鼻をかむことができるのである。一回でも十回でも、何百回だって鼻をかむことができるのである。
鼻水が垂れそうになるのを堪えながら青年が家へ向かっている途中、どこかから聞き覚えのある音が聞こえてきた。
青年もそれに気づき、歩くスピードが遅くなる。前方を見ると、商店街の一角の小さなスペースで福引きをやっていた。さきほど聞こえてきた音は、そこに来た客がよい景品を引き当てたときに鳴らす当たり鐘だったようだ。
青年は横目でその様子を見ながら、目の前を通りすぎようとした。だが、あるものを見つけて立ち止まる。
立ち止まった青年の目に映っていたのは、商店街の福引きを知らせるポスターであった。どこかの商店の壁に貼ってあったそのポスターを見た青年は、「あっ」と小さく声を漏らした。そのポスターに書かれてあったのは、福引きの景品紹介であった。
しかし青年が見ていたのは『一等』や『特賞』の豪華景品の方ではなかった。青年がなにやら嬉しそうな顔で見つめていたのは、『参加賞』の方である。そう、その商店街の福引きの参加賞の品は、青年が今一番欲しいと思っていた『ポケットティッシュ』だったのだ。
鼻をすすった青年は決めたようである。ちょうどさっき、福引券を一枚もらっていたのだ。姉に頼まれた買い物で会計のときに店員からもらったのである。これで福引きに参加し、『参加賞』のポケットティッシュを手に入れることができれば、家へ着く前に、今にも垂れてきそうな気配の鼻を思い切りかむことができるのである。
青年の足は、福引きをやっている方へと向いていた。もしかすると『参加賞』以外の景品が当たるかもしれなかったが、そんな心配を青年はしていなかった。
青年は、自分の運の弱さを自覚していた。はじめて福引きをしたのは小学生の頃であったが、それから現在に至るまでの間に、一度だっていい結果を残せたことはなかったのである。一等はもちろん、四等や五等ですら一度も当てたことがないのである。抽選器から出てきた玉の色はハズレばかりで、今までにもらったことがあるのは『参加賞』としてのティッシュのみであった。
青年は両手で抱えていた荷物をいったん地面に置くと、鼻をすすって福引券を係員に渡していた。
「はぁ~い、じゃあ一回どうぞ~」
福引券を受けとった係員の中年男は、寒そうに身体を震わせている青年に抽選器を回すよう促した。
青年は勢いよく抽選器を回した。抽選器の中でガラガラと玉の転がる小気味よい音が聞こえてくる。これで欲しかったティッシュが手に入るぞ……。安心したのか、青年の鼻はムズムズと動きはじめていた。またクシャミが出そうだ。
「おぉっ!? おめでとうございまーす! 特賞のテレビが当たりましたぁー! お兄さん、すごいねー」
当たり鐘を鳴らした中年男が、青年の顔を見て喜んでいた。目の前にいる人物が特賞を引き当てるほどの強運の持ち主だと思ったのであろう。
商店街に響き渡る当たり鐘の音を聞きながら、青年は苦笑いをしていた。こんなことは生まれて初めてだったようである。今までの人生で何回か福引きをやったことがあるが、一度も豪華景品を引き当てたことがないのである。一等はもちろん、四等や五等もである。ハズレで何もないか、参加賞のティッシュしかもらったことがない青年は、今日、いきなり特賞を引き当ててしまい何も言葉が出てこなかったようだ。
それも景品はテレビだった。テレビ観賞が趣味で、今も部屋でテレビを見ているであろう姉の顔が、そのとき青年の頭の中に浮かんでいた。このことを知らせたらきっと姉は、歓喜するに違いないであろう。
そんな想像をしながらも、青年は浮かない顔をしていた。もちろんそれはテレビが当たったことが嫌だったわけじゃない。普段であれば素直に喜べていたのだろうが、今は全然嬉しくなかったのである。なぜなら、そのとき青年の両方の鼻の穴から、鼻水が滝のように勢いよく垂れてきたからである。
自分の顔を見られないように腕で隠しながら、青年は目の前の中年男から視線を逸らした。さきほど回した抽選器のすぐ横に置かれてあった、参加賞のポケットティッシュの山積みを横目で見ながら、「ありがとうございます……」と小声で返事をしていた。
ーーやっぱり俺には運がない。心の中でそう確信した、青年の一日であった。