2センチの白百合
夢の中に居るみたいだった。
とても身体が軽く、ふわふわと浮くように弾んでいく。
きらきらと光る空気の隙間や、ゴムボートのような弾力で跳ね返してくる地面は、やっぱり空想の世界みたい。
わたしはアクアリウムの中を泳ぐ雪片のよう。
少し離れたところに、何処か見覚えのある小さな家があった。
薄い茶色の屋根で、少しぼろい水色の壁、こぢんまりとした庭に申し訳程度の遊具が置いてある。
塗装の剥げかけた骨組みから、作られてから幾ばくかの年月が進んでいることは伺えた。
それは二人分の小さなブランコのようだったが、片方はロープが真ん中から切れていて使えそうもなかった。
でも、残った一つはまだ平気そう。
ぴんと伸びたロープは弱弱しく風になびかれているけれど、今のわたしなら夢の中。
体重なんか無いみたいに軽くて、思い切り飛び上がったら大気圏外まで行けてしまいそうなほど、軽い。
もしかしたら、宇宙って近いのかもしれない。
『あれ、でもわたしって誰だろう』
あれ、いま喋ったはずなのに、声が出ない。
えっと、それに、わたしは誰だっけ。
思い出そうとしても、なんの取っ掛かりも見つからない。
まあいいや、行っちゃえ。
あの家にあるブランコで遊びたい、なんだか、とっても懐かしい気がするんだ。
小さく跳躍すると、車も家も、簡単に飛び越えられるほど高く飛んで、程なくして万有引力によって地面に戻される。
地面にぶつかってもそのまま深く沈み、大きく弾む、ふわっと飛ぶ。トランポリンみたいだ。
わたしはおなかを抱えて笑う。こんな可笑しな世界にいるのはわたしだけなんだと思ったら、面白くなってきた。
はやく、あの家に行って遊ぼう。
此処だったら何時間遊んでいても、誰にも見咎められることはないもの。
目的地をあの遠くに見える家に定める。
左足を地面について、反発する力に身を任せて飛び上がろうとした時だった。
「何処へ行こうと言うの?」
突然、声が聞こえた。
そしてわたしの腕は掴まれ、勢いを殺しきれずに身体は足先から宙へ飛ぶような恰好だった。
しかし腕はしっかりと掴まれ、わたしの身体は引き裂かれそうなほどの勢いで伸び、そして元に戻る。
今度は飛び上がらないように、ゆっくりと地面に足をつく。
依然、わたしの腕を掴んでいる誰かの顔を覗くと、再び声を発した。
「何処へ行こうとしていたの?」
わたしは家のある方に指をさして、
『あっちだよ、ブランコがあるでしょう? あれで遊ぶんだ』
そう言ったつもりだったけれど、やはり声は出ていなかった。
面白い世界だけど、ちょっと不便だなぁ。
わたしに声をかけてきた人の顔を見る、誰だろう。
わたしと同じで、人間なのはわかる、けれど誰だかわからない。
声が出ないから名前も訊けない、困ったね。
ただ、見たところわたしと同い年くらいの女の子で、薄い黒の髪を肩まで伸ばしている。
長い前髪を分けて紫色のピンで留めていた。彼女が装う純白のワンピースがちかちかと眩しい。
「いいのよ。戻りましょう、時間がないわ」
少女はそう言ってかぶりを振り、わたしの腕を放し、次に手を掴んだ。
「さあ、こっちよ」
引っ張られるかたちで少女に従う。
ぐいぐいとものすごい勢いで引っ張られている間、何度も声を掛けようと試行してみる。
『ねえ、行くってどこへ行くの? わたしは遊びたい、一緒に遊ぼうよ』
憑りつかれた様に、遊ぼう遊ぼうと繰り返すわたしを少女は一瞥し、
「もう大丈夫だからね」
短くそう言った。
消失点からこっち側に大きい建物が見えてきた、どうやら少女はそこへ向かっているようだった。
建物の2メートル手前まできた、視界に入るのは入口の左側にある大きな黒い石、そこにかくかくした文字が深く刻まれている。
『びょう……いん?』
「大丈夫、私が一緒に居るからね」
少女はこの時初めて微笑み、けれど、どこか侘しそうな色を表情に滲ませていた。
病院の中へ入ると、消毒液のにおいがした。
相も変わらず引きずられながら、通路の先へと進む。
途中、金属製の大きいドアが3枚並んでいる場所があって、ドアの上を見やると数字が並び、矢印が上に伸びていた。
これを使って上に行けるのではないだろうかと思い、今度はわたしから少女の手を引く。
何故だか今のわたしは喋れないから、身振り手振りを加えて意思表示してみる。
『ここ、から、うえ、いこう』
ぱくぱく口を開閉して、出ない声の代わりに少女へ意思伝達をする。
すると、先ほどまでの明朗な顔を引き下げ、急に難しい顔になる。
金属のドアから2メートル手前、それ以上近寄りたくないといった様子が窺えるほど、このドアを睥睨している。
これを使えば上まで行けるのに、頑なにその提案を拒否する少女は、歯を噛むように表情を歪めてから、階段へ走る。
ぽつりと少女は呟いた。
「こいつは嫌い」
走る、登る、繰り返し。
いつの間にか夢の中のような空間は消え去り、きちんと接地面の感触がある。
わたしの身体も重力に従っていて、院内に一人分の足音が響いた。
当たり前の世界。
これが当たり前の世界なんだ。
少女に連れられ、わたしはこの世界にきた。
とりもなおさず普通で平凡な世界。
足音が一人分だけつかつかと響く、そして残響。
回廊のような階段を何段くらい登っただろう、3/4の表示が見えて開けた空間に出る。
病室がいくつも並んでいる。
突当りを右折して、少し進んで次は左折、3つ先の病室に名札がついていた。
ここに誰か入院しているのかな。
名札の付いた病室の前で足が止まる。
引き戸は開け放たれ、その少し奥に白いカーテンが掛かっていた。
しげしげと中の様子を覗いてみるけれど、これといって不思議なところはなかった。
『ひとがいるのかな?』
わたしの言葉へ返答はなく、けれど少女はわたしと視線を交え、矢庭に白い歯を見せた。
耳を澄ませる、何か、ぴっぴっと電子音のようなものが聞こえる気がした。
このカーテンをめくったら、誰がいるんだろう。
気になって、わたしが病室に足を踏み入れると、少女はわたしの手を放した。
振り返る。
「行って」
少女はわたしの身体を力強く押し出して、一歩下がる。
よろめき倒れそうになって、そのままの勢いでカーテンの向こう側につんのめる。
丁度目の前にあったベッドに倒れ込み、そこで誰かが寝ていることに気付いた。
その人は、わたしをここまで連れてきた少女と、そっくりだった。
しめやかな寝息が規則的に聞こえる。
上半身を起こし、ドアの方へ視線を向ける。
引き戸を境界線に、世界にヒビが入る。
硝子が割れるような、怖い音がした。
ヒビは瞬く間に大きくなり、世界は断裂した。
わたしを病室に取り残して、少女は、向こうの世界から、わたしを見ている。
不安そうな、わたしを慮っているような、そういう暖かい眼差し。
『姉ちゃん!』
咄嗟に口をつく。
わたしは、少女を呼んだ。
『姉ちゃん! こっちにきて! そっちはダメだよ!』
呼んで、世界のふちから手を伸ばし、少女に手を差し伸べる。
身体を限界まで伸ばし、腕を伸ばし、必死に少女に近づこうと試みる。
けれど、わたしの声は届かない。
なんで、声が出ないんだ。
どうして、声も、手も届かない。
『お願いだよ姉ちゃん、この手を掴んで!』
声が届いたのかどうか、わたしには判らなかった。
ただ少女はわたしの手に触れ、
「始里香、またね」
依然、暖かい眼差しをもって、少女はわたしの手をそっと押し返す。
離れていく世界から姉を見る。
二つの離れ離れの世界は、やがて懐古的な情景のように、薄い光に包まれていた。
両目に光が射す。
ゆっくりと瞼を開ける、口元を覆うように被せてあるマスクから透明な緑色のチューブが何本も飛び出ていた。
規則的な呼吸音、わたしのものだった。あの世界で、あのベッドで寝ていたのは、わたしだ。
真っ白な天井が見える。
ぴっぴっという電子音は左隣に置いてある変てこな医療器具からだろう。
全身が痛い、恐る恐る右腕を上げる、包帯がぐるぐる巻いてあった。手を開き、閉じる、きちんと動いた。
マスクを外して、腕に刺さっている針をガーゼごと引き抜き、ベッドから這い出る。脚も、腕も、背中も痛む、けれどどうしても、どうしても行かなければならない。
ベッドから転げ落ち、身体を強く打った、痛みからしばし呻く。
けれどわたしは、這うことをやめない。
西側の窓へ、這う。
這いつくばって、窓のふちに手をかけ、身体を起こした。
斜陽に染まる見慣れた街並み、わたしと姉の、茶色い屋根の、ぼろくて薄い水色の壁、小さな家が見える。
見て、悟った。
姉はもう居ない。
この世界に、もう姉は居ない。
「……さよならくらい、言わせてよ。姉ちゃん」
言って、その場に崩れ落ち、泣いた。
「姉ちゃん、ありがとう」
今更声が出ても、とうに遅いと言うのに。
わたしは崩れ落ちた態勢のまま、咽び泣く。
わたしの涙は、止まることを知らない。
fin.