とある親父の修行事情
翌朝、早朝から宿屋――さすがに、すぐには住居の準備は出来ないとのことだったので、今日だけはゴードンと共に宿屋に泊まることになった ――を出ると、俺は早速就職先に決まった酒場『ジルとハンナ』に向かった。
元々初めは『ジルの店』と言う名だったらしいが、結婚してすぐ旦那さんが変えたそうだ。どのみち安直だなとは思ったのだが、オーナー様に対して失礼すぎるのでもちろん口にも顔にも出しはしない。
俺に必要なのは職場であって、かっちょいい名前の洒落た酒場では無い。
酒場『ジルとハンナ』は元々、朝食と昼食もとれ、メインは夜の酒場という形態だったらしいのだが、今は夜のみしか営業していない。理由は推して知るべしであろう。
出来ればすぐにでも以前の形態に戻したいのだが、覚えることが多すぎてそれどころでは無い。まずは夜の営業を軌道に乗せ、それから徐々に戻していくしか無かった。
朝早く来た理由は、ハンナと共に街の市場に出かけ、仕入れの仕方を覚えるためである。
酒場は、宿屋の斜め向かいに有り、歩くと言うほどの距離では無い。お隣さんと言ってもいいぐらいの距離にある。
俺は早めに来るよう心がけていたので、ハンナの姿はまだ無かった。予定通りである。
(初日から遅れたりしたらやる気を疑われるからな・・・・・・)
俺が朝早くに来たのは、社会人の鉄則を守ると同時に、事前に酒場の周囲の状況をよく知っておきたい、と言う理由もあった。
俺は通りを見渡し、酒場を見ながら周辺を歩き回る。簡単な地理のチェックだ。
昨日は、馬車で真っ直ぐ店に来たので、この道がこの街のメインストリートであろう事は予測がついていた。
周辺には、二件の宿屋が営まれており、この街の市場へも近いらしい。旅人も必ずこの道を通るので、その需要を見込むことが出来るはずだった。
その事を確認し、俺は確信を得るに至る。ハッキリ言って「この上ない好立地の好物件である」と。
これで、本来儲からないわけが無いのだが、ジルが亡くなってからは日に日に客足が落ちているらしい。
現在、何とかやって行けているのは、酒を楽しみたい常連客の半ば意地と根性、そしてハンナへの思いやりがあるからだろう。
また、もう一つ驚くべき好条件があることを昨日知った。
この街には、この『ジルとハンナ』しか酒場がない。というのである。
まさかとは思ったが、これにはちゃんとした理由があるらしい。
なんでも、メセルブルグの街の歴史は浅く、三十年ほど前、この地方の領主だった当時のメセルブルグ伯爵が、領地の中心部に位置する場所に居を移すと共に整備した街である。
初代のメセルブルグ伯爵は、巧みな領地経営をした人で今でも沢山の領民に感謝されている名君であったらしいのだが、その証左に、非常に多くのアイデアを持ち、それを実行した人でもあった。
その一つが、新たに街割りした領地で最初に商売を始めた商人達に、ある選択をさせた事だった。
街で店を開くには、当然領主に対して税金を払う必要があるのだが、この世界に累進課税とか税引後利益の何パーセントなんてものは無い。全部一律である。
その業種等によっても若干金額は異なるらしいが、その金額は概ね銀貨三十枚程度となる。
メセルブルグの街は、当時としてもそれなりの規模で計画されていたが、将来的に計算しても同じ種類のお店は三店舗も有れば、飽和状態になると予想されていた。これだと最大の税収は銀貨九十枚となる。しかも、競争が起こるので、お店の経営状態はギリギリとなり、滞納者が出たり、最悪破産する場合もあるから安定しない恐れもあった。
そこで、メセルブルグ伯爵は商人達へ独占的商業権を与える代わりに銀貨百枚の税収を要求すると通知した。つまり、税金の額を銀貨三十枚として競争する事を選ぶか、税金の額を銀貨百枚として、その商売を独占するか選ばせたのである。
商売において、独占する事の旨味は大きい。競争相手がいなければ、値段の設定を自由にすることが出来るからだ。しかし、それ故に商品価格が跳ね上がり高止まりする危険もある。
しかし、メセルブルグ伯爵にとってはそうなったとしても問題は無かった。市場を独占した商人からは安定した収入を得る事ができるし、破産すること無く通常より高額な税金を望める。もし、この独占した商人が暴利を貪っても、直接的に恨まれるのは暴利を貪った商人である。度が過ぎるなら、住民の訴えを元に是正を促せば足りる。
そう発想して実行したのだ。この制度で一番得をするのは、間違いなくメセルブルグ伯爵だっただろう。――しかし、結局のところ独占権を取得した商人は少なかった。独占したとしても税金銀貨百枚を払いきれる自信がある者が少なかったと言うことである。
ジルは数少ない独占権を得た商人で、酒場『ジルとハンナ』はこの街で唯一許された酒場と言うことになった。
なお、独占権を得た商人達が、暴利を貪ることは意外なことに無かったらしい。メセルブルグは狭すぎて、住民の殆どが顔見知りに近い規模である。そんな街で暴利を貪ったりしたらどうなるか、火を見るより明らかだったからだ。――たちまち村八分になり、生活が立ちゆかなくなる事は子供でも解るだろう。
以上の話を昨夜の宴会で周囲から聞き出した俺は、正直笑いが止まらなかった。自分の就職先が、超が付くほどの優良物件である事を確信したからである。
今の経営を立て直すことが出来れば、安定した収入が確実に見込めると計算できる。売価を元に簡単に計算してみたのだが、銀貨百枚は決して安くは無いが競合相手がいないことのメリットとしては安すぎた。
ジルとハンナはかなり良心的な値段設定でやっていたようであるが、納得できる付加価値を付けてやれば多少値上げしても顧客は付いてくるだろう。
(暴利を貪るような気は全くないが、税金を払い、儲けを出しつつ生活を安定させるぐらいなら問題無さそうだ)
そう結論づけている。
そのためにも、なるべく早期に、酒場の運営に必要な業務の習得をする必要がある。そう考えていた。
(まずは業務の早期習得、それから新規メニューの開発なんかをやった上で、新規顧客の開拓だな。小さな街だから、悪評も広がるのは早いがその逆もまたしかり。この世界に無い類いの料理を出せば、好奇心から一度は試してみたくなるのは人間心理として当然だ。後はリピーターさえ確保できれば問題無い。メニューは材料次第だな、市場を見て決めるとするか)
そう考えながら、周囲の散策から戻ると、丁度店からハンナが出てきた。
「おはようございます。ハンナさん、今日からよろしくお願いします」
俺が丁寧に挨拶すると、俺の顔をじっと見ながらいった。
「おはよう。それから、ハンナさんはよしとくれ、ハンナでいいよ。今日から一緒に働くんだからね」
俺は年上の、しかも店のオーナーを呼び捨てにするのはちょっと抵抗感があったのだが、本人がこう言うからには従う方がいいかと思い直した。
「わかりました、ハンナ」
俺はそう答え、ハンナは満足そうに頷くと先に立って歩き出した。
メセルブルグの街の形状は、中央に巨大な円形の広場を作り、そこに東西南北へと広い道を繋いである。そのため、どこからでも東西もしくは南北のメインストリートに出れば、迷うことも無く中心部に至ることが出来て、非常にアクセスしやすい。この町を設計したメセルブルグ伯爵は非常に計画性と効率性を重んじる性格だったらしく、随所に無駄の無い発想の痕跡を見ることが出来る。
中央広場の周囲はこの街で最も人の集まる一等地となっており、円形広場を囲むように様々な商店が軒を連ねている。そして、その広場から南に繋がる通路は、他の三方からの通路より道幅を広く取ってあり、その通路の両脇に様々な露店が建ち並ぶ市場となっている。
メセルブルグの街で買い物をしたければ、中央広場に出て商店を覗くか、そのまま南の市場に行けば良く、それだけで大半の店を回れるようになっていた。
酒場『ジルとハンナ』は中央広場から見て東の通路に有り、俺とハンナはそこから中央広場に足を進める。早朝にもかかわらず、中央広場は市場に向かう人の姿が見られ、そこそこの賑わいを見せている。
中央広場は、メインのストリートを繋いだ交差点も兼ねているわけだが、中央には巨大な園地が有り、通路はぐるりとその園地を取り囲むようにして東西南北の各メインストリートと繋がっている。もしこれで、通行方向が一方に制限されているなら、話に聞いた事のある環状交差点と同じ構造だなと思い、ハンナに聞いてみる。
「この通路って、変わっていますね。もしかして通行は右曲がり限定ですか?」
「そうみたいねえ、なんかオットーさんが話してたわ」
ハンナはどうでも良いことのように気軽に話すが、俺は感心していた。
(偶然思いついたんだろうか? 交差点で信号が無いと不便だけど、ある程度の交通量までならこの形式が一番スムーズに交通を捌けるらしいんだよな。しかも馬車が直線で速度を出しすぎるような事故も防げるし、案外人が集まる広場周辺の速度規制対策なのかもしれないな。どちらにせよ個人で発想したなら凄いことだ)
この街の設計者であるメセルブルグ伯爵に対し、感心しきりの俺に、ハンナが中央にある園地を指さして教えてくれる。
「あそこは演台になっていて、収穫祭の時は色んな催しがされるんだよ。後一ヶ月ちょっとなんだけど、それはもう賑やかなのよ」
どうやらこの広場には、街の集会場の役割まで持たせているらしい。
(一体、一石何丁を狙っているんだか、呆れるほど効率を追求しているな。今の御領主様にも見習って欲しいものだ・・・・・・。あれ? そういえば今の御領主様って、グレーテル王妃の父上で、メセルブルグ「男爵」だったよな? 爵位も合わないけど、ヤンの話では王妃は地方貴族の娘だったはずだ。と言うことは元は準男爵家か騎士爵家の娘だよな。そうなると、今の地位は娘が王宮に入ったことの褒美として陞爵したってことだろうか。その上で、このメセルブルグの地を賜ったのかな。そうだとすると、元のメセルブルグ伯爵家はどうなったんだろう。後で調べてみるか)
俺は、自分が住むことになった街の歴史に興味を覚え、その辺りを調べることに決める。――この辺りはどうしても歴史物好きの血が騒いでしまうのだろう。
俺はその後も、気になったことをハンナに訪ねながら一緒に市場の中を歩いて行く。
市場は朝の六時位から大体お昼過ぎまで開いていて、商品が無くなった店から閉まっていく感じだ。
この町の千人近い胃袋を支えているだけ有って、それなりに豊富な食材が並べられている。
メセルブルグは山間の街なので海産物は無く、ごく希に旅の商人が乾物を持ち込む程度だそうだ。――日本人にとって魚は身近な食料の一つだが、魚は鮮度の足が速く加工しない限り日持ちしない食品である。残念に思うが、これは港町にでも住まない限りどうしようも無い問題である。
(まああれは、元の世界でも日本人だけが異常なくらい執念を燃やして維持しているシステムらしいからな。刺身の文化があるからだろうけど。まあ、魚が無ければ肉を食えば良い。と言うことにしよう)
ハンナが買い込むあれやこれや――主に野菜である――を、荷物持ちよろしく持ちながら付いて歩き、ハンナが紹介してくれる相手には丁寧な挨拶をし、店の場所を覚えていった。
(思ったより充実してそうだな、無いものも多いけど。特に香辛料は唐辛子、ナツメグ、カルダモンにオールスパイスは解ったけど、ターメリックやスターアニスは見なかったな。と言うことは定番のあれは無理か、まあニンニクはあったし、他にも色々出来そうではある。この市場に無いだけで、他を探せばあるかもしれないし、諦めるのは早いか。まあ、中世欧州のブラックペッパーの価値を考えると、とても酒場で出せる値段にならない恐れもある。臨機応変に有る物で対応するのが基本だな。しかし、俺のラノベ知識だとこの辺りは苦労なく揃うはずなんだが、まさにチートだな。羨ましすぎるが、無い物ねだりは思考停止を招くだけか)
そう思考をまとめる。俺は度々こうして自分の思考に埋没してしまうので、時々リアルへの反応が鈍くなる事がある。ふと気がつくと、ハンナの姿を見失ってしまった。
急いで辺りを見渡し、見つからずに途方に暮れかける。だが、そんな俺をハンナの方が見つけてくれた。
「どうしたんだい急に立ち止まって、気になるものでも有ったのかい?」
「いえ、すいません。自分の得意料理の材料が揃うか探していたんですが、見当たらなかったので他に作れるものが無いか考えていました」
俺は素直に謝り、訳を話した。
「そうかい、それなら仕方が無いね。これから肉屋とパン屋に寄るからね、しっかり付いてきておくれ」
ハンナはそう言って、先に進んでいく。俺も今度こそ遅れないように後に続く。
ハンナが向かったのは、市場のある南の大通りから路地を一本入ったお店で、肉の販売をしているお店だ。
市場にも他に幾つか肉屋はあったが、どこも血抜きを済ませただけの原型を留めたままだったり、生きたまま売られていたりだったので、俺は捌けと言われたらどうしようか真剣に悩んだのだが、必要なら習得するしかないと覚悟もしていた。半端な気持ちではこの世界では生きていけないだろうとの思いもある。
だが、この肉屋はちゃんと精肉までしてくれるらしいので、実際のところ胸をなで下ろした。
肉屋は基本的に塩付け肉や干し肉等の加工した肉を中心に扱うが、猟師や農家の持ち込んだ獲物や家畜もあり、そう言った品は直接買いに来ないと、何の肉が売られているのか解らないということだった。
(つまり、メニューを決めて訪ねたら材料が無かったという羽目になりかねないわけだ。これは注意が必要だ)
俺は注意点を心に刻み、ハンナが豚の塩付け肉と兎肉三羽を買ったので、それを荷物として預かる。既に両手一杯という感じだったが、そのままパン屋に向かう。
「いつも一人でこんな量を?」
俺が不思議に思って訪ねると、
「そんなことあるわけ無いさ、今日はあんたがいて多めに買えるから特別だよ」
なるほど、すっかり荷物持ちとして認識されていた。きっと、ジルもこうして荷物持ちをしていたんだろう、彼女の姿には迷いも悪気も見られなかった。
そのまま二人でパン屋へ向かう。パン屋はこの街に三軒有るそうで、ハンナが向かったのはそのうちの一軒で東の通りにある――つまりご近所さんである――パン屋だった。
「いらっしゃいませ。ああ、ハンナさん、今からお届けに上がろうと思っていたところで」
俺とハンナが店に入ると、奥から三十歳ぐらいの大人しそうな男性が出てきて、ハンナの姿を見ると慌てたような素振りを見せる。どうやらこの店の主人のようだ。
この男性、やけに恰幅が良いい。一見すると、エールの樽が歩いているような気になってくる。しかも、額が禿げ上がっており、頭頂部にまで達している。
そして、接客対応のためにここへ出てきただけで、フウフウと息を切らせていた。
「おはよう、ザムエルさん。配達はまだゆっくりで良いよ。実は人を雇うことになったんでねぇ。挨拶させようと寄ったんだよ。うちの店で今度から働いて貰う、ウートだ」
「はじめまして、ザムエルさん。今度からハンナさんの店で働かせて貰います。ウート・ヴォージオンです。ウートと呼んで下さい。以後、よろしくお願いします」
ハンナの紹介に続き、俺は進み出て頭を下げ、挨拶を行う。
「これはご丁寧なご挨拶痛み入ります。ここでパン屋を営んでいるザムエル・ドーレといいます。ハンナさんにはいつもお世話になっていまして。お店へパンも納めさせていただいているんですよ」
ザムエルは、それ以上は辛いのか、少しだけ体を折り曲げ、それ以上に首を限界まで曲げて挨拶する。不思議と気持ちは十分通じているので、特段腹は立たない。これは醸し出す人柄だろう。
忙しそうでも有り挨拶も済ませたので「それでは」と店を出ようとしたときに、店の奥から十歳くらいの女の子がヒョコっと言う感じで体を半分だけ見せるように顔を出した。
動く物につられるように焦点を当てると、同じような動きをしながら、五歳くらいの女の子がまた顔を出した。擬音にすると「ヒョコ! ヒョコ?」な感じでかわいらしい。
俺たちの視線を追うようにして、ザムエルも二人に気がついた。
「これ、アガーテ、ローミそんなところから見ていないで、ご挨拶するんだ。」
ザムエルが父親らしく、二人に声を掛ける。
(父親らしく?)
すると、年上の女の子がじっとこっちを見てから、父親の方に目線を移し、その後、パット身を翻して逃げ出した。妹の方は、その姉の動きについて行けず、一瞬オロオロとしたあと、姉の後を追った。
「すいません、ご挨拶も満足にしないで」
ザムエルは頭を下げる。
(えっと、ということはつまり?)
俺は混乱している!
いや、俺の勘違いかもしれない。確認してみなければ。
「いえいえ、構いません。可愛いお子さんですね」
答えは間髪入れずに帰ってきた。
「ええ、まあ。生意気盛りですがね。女の子は本当に可愛いもんですよ」
俺はその返事を、最後まで聞いていなかった。そう、ショックで!
(ザムエルさん、ごめんなさい。勝手に思ってたよ、俺と同類だとか。違いましたね、全然違いましたね。人生の勝利者に対する無礼、平に平にご容赦をおおおおお!)
心で吹き荒れる大きな嵐を微塵も感じさせずに辞去の挨拶を済ませると、俺はハンナに続いて店を出た。
どんなに絶望に苛まれても、人生の時間は止まってはくれないので、俺はトボトボとハンナの後に付いていきながら脳内説明大会を開催して紛らわすことにした。テーマは男の三大定義についてだ。
男の三大定義とは、つまるところ美形、イケメン、男前の定義である。
俺の中では、この三つの定義は明確に区分されている。
まず、美形であるが、これは、単なる顔が良いだけの中身の無い優男という意味で使われている。『色男、金と力は無かりけり』なイメージである。――ただし、頭に超絶がつくあのお方はもう別次元の存在であるので、これには当てはまらない事をお断りしておく。
次に、イケメンであるが、顔だけ見ると美形よりは落ちるが、女の扱いが上手くチャラチャラした今時の若者風のイメージである。親父的にはなんとなくジェネレーションギャップを感じたり、オヤジ狩りされそうなので、近寄りたくない感じである。
そして最後に男前であるが、これには顔より中身重視の意味で使われる。女性がキャーキャー言うタイプより、男から見てコイツ格好いいな。と思うタイプだと思って貰えばわかりやすいだろうか。
簡単に言うと、美形は生まれ持って来るもの、イケメンは性格的なもの、男前は努力して成るもの。である。
以上、脳内説明大会を終了する。
――つまりは、ザムエルさんは男前だったんだなということである。
(元の世界では、あんまり気にしていなかったのに、この世界だとやけに気になるな。やはり、財産や社会的地位を失ったことで焦りが出てきているのかもしれんな。ただでさえ低かった可能性が限りなくゼロになったわけだし)
そう結論づける。結局のところ自分でそれらを取り返すしか、道は無いのだろう。
(つまりは酒場の経営を立て直し、お金持ちになれば良いのだ! 俺にはこの超優良物件に就職できたアドバンテージがあるじゃないか!)
ポジティブモードに思考を切り替え、さっそく仕事に取りかかることにする。
ちなみに、脳内説明大会を開催中にとっくに酒場にたどり着付き、厨房に入って荷物まで下ろしている。――それだけショックの回復に時間がかかっているって事だ。
ハンナについて、まず「いろはのい」である火の付け方を習う。ちなみに、ハンナは「そこからかい!?」と呆れていた。どうもすいません、ガスレンジとかしか使ったこと無いんです・・・・・・。
しかも、燃料は薪である。「炭じゃ無いんですね」と聞いてみたら「炭ってなんだい?」と返ってきた。炭は無いらしい。
上手く説明する自信がなかったので、適当にごまかした。いつか自分で作って見せるしか無い。
(自分の中にある知識を説明するのに相手と共通する知識が無いと、ここまで苦労するものなんだな。まあ、だからこそ元の世界では義務教育で全員に教え込んでるわけか)
俺は、ハンナに気づかれないように嘆息する。
(でも、教育の重要さを実感するのはそれを必要としたときなのに、それを体感させないで無理矢理詰め込むから効率が上がらないんだよなあ。俺も学校行ってるときは全然解らなかったよ、社会に出ると嫌でも思い知るけど・・・・・・。まあ、元の世界の教育も人間がやるべき創造性を必要とする事と、コンピューターにやらせれば済むことに分けて集約していかないと、知識ばかりがどんどん増えて、ついて行けない人間がどんどん出てきそうだよな。汎用性か専門性か、どちらがより人間にとっては幸せなのか解らないが、親の職業だから押しつけるんじゃ無く、学校教育のカリキュラムの中で早期に選ばせるようにすれば職業選択の自由は確保できるし、習熟度も上がって良いのにな。あと、何か問題が起こる度に、マニュアルだとか規則だとか作って解決した気になってるけど、所詮あれは責任者の責任逃れのための理由書でしか無くて、増えたマニュアルや規則に人が対応できなければ問題は解決しないのにな。その辺りをフォローするためのIT技術だろうに、時間と金がかかるのが解ってるから誰も取りかかろうとしないんだよ。挙げ句の果てにはIT技術なんて役に立たないとか言い始める奴までいるし、使い方を知らない奴に道具を与えるとこういう答えが返ってくるんだろうな。まあ、必要なのは全員の意識改革なんだろう)
そんなことを考えながら、教わったとおり火を付けていく。
台所の調理具はオーブンのような形状を期待したが、残念ながら石で組み箱の様に囲んだ形状で、底に薪を組み、その下に枯れ枝、さらにそこに枯れ草を積んで、下から順々に火を大きくしていく。
一旦、大きな薪に火が付いてしまえば、後は薪を足していけば良くなるが、やはり結構な煙が発生する。排煙装置も無く、煙が出ていく先は小さな窓だけなので、慣れないと目にしみたりする。
(とりあえずは、慣れれば何とかなる。資金に余裕が出来たらオーブンとかコンロとか作ってやる!)
現状に対する不満は、改善への原動力にする。そう決めて、起こした火でお湯を湧かす。
今日の目標は、この店の定番料理であるジルの十八番『兎と野菜のスープ』の調理法を習得する事である。
常連客によれば、「素朴な味わいだが滋味にあふれ、毎日食べても飽きさせない味」なのだそうだ。
それを聞いたハンナが「そんなに食べたいなら私が作るよ」と言い出したのだが、常連客の皆様はそれを必死で思い止まらせる。
「イヤイヤ、これは俺たちがコイツに出す試験なんだ、ハンナが手伝ったら意味が無い」
そう言ってフォローした。さすがはハンナのコントロール法を解ってらっしゃる。グッジョブです!
お湯を沸かしながら、野菜の皮をむき始める。ピラーなんて便利な物が有るわけが無く、ナイフを不器用に操りながら必死に皮を剥く。
人参と蕪菁、玉葱にキャベツと、それぞれ皮を剥いたり適当な大きさに切ったりして、それを籠に入れていく。
そして、肉屋で買った兎肉を塩――岩塩を砕いた目の粗い塩だ――でもんで下味を付ける。
沸騰した鍋を脇にどけて、もう一つの鍋を火に掛け、暖まったところでオリーブオイル――食用油を探していたら簡単に見つかった――を入れてから兎肉を炒める。軽く焦げ色が付くぐらいで野菜を入れて混ぜ、沸騰させたお湯を加えていく。
後はじっくり煮込んで灰汁を取り、最後に塩加減を調整する。兎の肉にもすり込んでいるのでほんの少量加える程度にした。
初めてなので、少し薄い気がしたが、客が年寄りばかりなのでその方が良いだろう。後は感想次第で微調整だな。途中まではカレーの作り方と似たような感じなので、難しくは無い気がした。しかし、
「なんか物足りないねぇ・・・・・・」
ハンナが味見をしてからそう言い出した。正直嫌な予感しかしない。
「ちょっと、待ってておくれ」
そういうと、裏の方の出口から出ていく。
今朝確認したところでは、酒場の裏には倉庫のような建物と家庭菜園、それに井戸なんかがあり、どうやらハンナは家庭菜園に行ったのでは無いかと思われる。あの、ケミカリーな究極の料理の発生源はその家庭菜園らしい・・・・・・。
俺は解決策を考えるが、良い案が浮かばない。そうこうするうちに、ハンナが戻ってくる。
「裏の畑で取れた薬草だよ、体にとっても良いんだ」
ハンナの目は嬉しげに輝いている。手に持った籠には、様々な薬草? が溢れんばかりに入っている。
(どうやって断るか・・・・・・、難易度高すぎだろ!)
一瞬諦めて、常連客に食わせるかとも思うが、死人が出たら路頭に迷いそうだと思い却下する。もうここは、当たって砕けるしか無い・・・・・・。
「せっかくなんですが、これを使ってしまうと常連さん達には直ぐに見破られてしまうでしょう。全てハンナさんが作ったとまで言われるかもしれません。やはり多少美味しくなくても、自分で正解を見つけなきゃダメなんです」
俺は、覚悟を滲ませ、ハンナに訴えかける。
「そうかい・・・・・・。それもそうだねぇ。せっかくだからこれは乾燥させて薬草茶を作るかね」
ハンナはそう言って、裏の方に消えた。天日干しにでもするのだろう。
(よし! グッジョブ俺! じいさん達の命と、俺の未来――就職先――を見事守ったぞ!!!)
俺は、大きく何度もガッツポーズを決める。
俺はその日最大の危機を乗り越えると、完成したスープを火から下ろし、蓋をして保管する。後は、営業時間前に火に掛けて、温め直すだけである。
(とりあえず、準備はオーケーもう昼だな。朝飯も食べてないんだよなあ。ハンナは平気かな?)
俺は台所を見渡し、食材を探す。有ったのは夕べの残りらしい黒パンとさっき買ってきた豚肉の塩付け、キャベツの残りか。
俺は適当な賄いを作ることにし、先ず残ったキャベツを不器用ながら千切りのように細かく刻む。――百切りのようになった。
豚肉の塩付けをなるべく薄く切り、フライパンが無かったので、浅めの鍋に火を通して、オリーブオイルをたらす。油が暖まったところで薄く切った豚肉を落とし、カリカリになるまで火を入れる。さらに黒パンを切り、こちらも残った油で片面を焼いておく。
黒パンをもう一枚切り、キャベツをのせ、オリーブオイルとビネガーを混ぜ合わせた即席のドレッシング――卵があったらマヨネーズにした――をかけ、その上に焼いた豚肉と黒パンをのせて挟む。
あり合わせ流、ハムサンドの完成である。――ハンナの分と併せて二つ作る。
良い感じに出来た気がしたので、俺は、ハンナさんを呼んで、遅い昼食を取ることにした。
「ハンナさん、お昼にしませんか?」
ハンナは薬草を並べていた手を止める。薬草を乾燥させるための台もちゃんとあるところを見ると、元々そのための薬草のような気がする。多分、味より体に良いことの方が優先なだけなんだろう。まあ、本当に体に良いのかは謎であるが。
「今から作るのかい?」
「いいえ、もう作っちゃいました」
「そうかい。じゃあ、いただくよ」
ハンナは井戸桶に汲んであった水で手を洗い、厨房に戻ってくる。
「何を作ったんだい?」
「ハムサンドです」
「なんだいそれ?」
「説明するより食べてみて下さい」
俺はそう苦笑いして、ハンナに即席ハムサンドを勧めてみる。
ハンナは興味深げに眺め回していたが、恐る恐る食べ始める。俺も味見していないからドキドキなんだけど、想定に近い味なら問題無いはず。そう思い自分の分に手を伸ばそうとしたとき、酒場にゴードンが入ってきた。
「なんか良い臭いするなあ、俺の分は無い?」
ゴードンは、俺の手元を見ながら言ってくる。
「これは俺の分だぞ」
しかし考えてみると、ゴードンは俺の代わりに兵舎に一人で事情聴取に向かってくれたし、これまでにも散々世話になった親友だ。無碍には出来ない。
俺は諦めて、自分の分を新たに作る事に決め、手に持った皿をカウンター越しに待つゴードンに手渡した。
ゴードンは嬉しそうに受け取ると、「さすが『親友』ありがとよ」と軽い調子で礼を言った。本当に気分の良い奴だ。
俺が自分の分を作るため、まずはキャベツに手を伸ばそうとする。
「なんだこれ?」
ゴードンの驚きに満ちた声が、俺の動きを止める。なんか、まずったのだろうか? そういえばハンナも静かだな。
「美味しくなかったか?」
俺の不安気な声に、ゴードンは慌てたように首を振る。
「いや、うまいよ。めちゃくちゃうまい。とにかく、食べたこと無い味だったから驚いただけだ。」
まったく、驚かせやがる。
「何て言うか、色んな味と食感が、一片に楽しめるんだな。それが不思議とバラバラな感じがしない。後で、作り方教えてくれないか? 嫁にも作って貰おう」
「今から作るから見てろ」
俺はそう言って、ゴードンが厨房に入るのを待ってから作り始める。同じ手順を繰り返し、さっきより手早くハムサンドもどきを完成させる。そして、完成するやいなや自分で食べ始める。それは、ほぼ想像通りの味だった。少しビネガーが強く感じたが、後は想定内。豚肉炒める前にニンニク炒めて味を付けると尚うまいかも。ガーリックトーストみたいな味にする感じだ。バターが無いけど、肉の脂が加わるからそれほど気にならないかな。
そのときハンナが、変なことを言い出す。
「ウート、あんたもしかして王宮の料理人か何かだったのかい?」
俺は驚く、何でそんな話になるんだ???
「いえいえ、料理は素人ですよ。ハンナさんも見てたでしょう? 俺の手際」
「だってねえ、私たちはこんなに凝った料理は殆ど作らないし、聞いたことが無いんだよ。それぞれはよく知ってる材料だし味なんだけど、こんな食べ方思いも付かなかったよ・・・・・・」
ハンナは相当感心したらしい、これも今日のメニューに出したらどうかと言い出した。
「フライパンが無いので、数を作るのは難しいかもしれません」
俺は見当たらない調理器具のことをついでに聞いてみた。答えは「それはなんだい?」だった。仕方が無いので、これは詳しく説明する。正直、無いと煮込み料理しか作れない。というか、説明の途中で逆に説明されたのだが、これまで料理と言えば煮込み料理で、豚肉の塩付けも本来は明日のスープ用だったらしい。
ゴードンも、鍋が無いとき直接肉を焼くことはあるが、炒めたりするのはあんまり知らないとのことだった。オリーブオイルが有るのにおかしいじゃ無いと思ったが、そのまま料理に掛けたり、野菜に掛けたりして使っていたらしい。要は、エクストラ・ヴァージン・オリーブオイル的使用法なのだろう。他に食用油が無いので、代用で使ってしまったがもったいなかったかもしれない。
今のところ良く行われている調理法は「煮る」で、これ以外は「焼く」が若干存在し「炒める」や「揚げる」とか「蒸す」なんかも殆ど行われていないらしい。まあ、この世界の食事はパンにスープ、サラダ位なのが普通で、特にパンが固いのでスープは必須と言って良いし、貴族の連中ならまだしも庶民はそんなものなのかもなあ。
色々やりたいことは多いが、調理器具や設備など足を引っ張る物も多い。先立つものも無いので、しばらくは我慢が必要なようだ。
我慢と言えば、ゴードンに色々聞いておかないとな。
「そういえば、ゴードン、兵舎の方は平気だったのか? あと、領主様の方とか行ったんだよな?」
ゴードンは途端に渋面を作る。あんまり楽しいことは無かったらしい。
「ああ、兵舎の方は問題無かった。あまりにもあっさり終わって、もっと真剣にやれと言いたくなるくらいにな」
あんな目に遭ったのだ、ゴードンが怒るのも無理は無い。
「御領主様の方は、謝りに行ったがけんもほろろ取り付く島も無くてな、出入禁止だとよ、まあ頼まれてももう二度とごめんだがな」
ゴードンはよほど腹に据えかねるのか、怒りで顔が紅潮している。元はと言えば、領主の領地経営手腕の欠如が原因だけにさらなる対応の悪さに、憤りを隠せないのだろう。
「これからどうするつもりだ?」
「もう、この街でやることは無いから早急に王都に戻って、立て直しの準備をしなくちゃならん。昨日、事情を知ったマルセロさんが気を利かせてくれてな、木工ギルドの王都への納品を前倒ししてくれたんだ。明日、それに同乗して帰るよ」
「そうか、なるべく早く立て直せることを祈ってるよ」
「ああ、お互いに頑張ろうぜ」
二人は、どちらからともなく立ち上がって、固く握手を交わした。
「そうそう、忘れるとこだった」
それを見て、ハンナが唐突に思い出したように言った。そして慌てて立ち上がる。
「ほら、ウートさんの住居の準備だよ。もう、歳だねぇ、今の今まですっかり忘れちまってたよ」
(まあ、俺も忘れてましたけどね)
「まだ、宿屋でも平気ですが」
俺は遠慮して言うが、ハンナは納得しなかった。
「なに言ってるんだい! そんなのもったいないじゃ無いか、こっちだよ、付いておいで」
そう言って裏口の方に歩き出した。
ハンナと俺達が向かったのは、俺が倉庫と思っていた建物だ。
平屋で、それほどの広さは無い様に見えた。
「ここは、お客さん用に建てたんものなんだけど、この年になると訪ねてくるお客さんもいなくてね。息子が嫁でも取れば建て直そうかと思っていたんだけどね、そのままになっているんだよ」
「息子さんがおられるんですか?」
俺は初耳だったので、驚いて聞き直した。
「話してなかったかい? 実は、一人息子がいるんだけど、家を飛び出しちまってねえ・・・・・・。酒場の主人なんて嫌だ冒険者に成るって聞かなくて、ジルも昔は冒険者をやってたから「気持ちは解る」なんて言い出して、結局出て行っちまったきりだ。何処をどうしているんだか」
強がってはいるが、その声は寂しそうだった。多分出て行くのにも反対したんだろう。しかし、聞き捨てならんな「酒場の主人が嫌だ」だとう。
正直に言って、子供が親の後を継ぐ必要は無い、所謂『職業選択の自由』というやつだ。だがしかし、自分が成りたくないからと言って、親の仕事をけなす権利もまた無い。この場合は「成りたい職業があるから後は継げない」と伝えるべきだろう。
(そんなことも解らない餓鬼は、帰ってきたらとっちめてやろう。親父さんの代わりにな)
俺はそう心に誓う。まあ、そんな機会があればだけど。それに、もう一つ懸念材料が出てきた。
(息子とやらが戻ってきたら、最悪職場を失うかもしれないな)
このリスクは大きい。だが、嘆くばかりでは人生何も始まらない。
(起こるかどうか解らない出来事に思い悩むよりも、それまでに資金と人脈を築き上げて、他の仕事でもやっていけるようにしておく!)
と気持ちを新たにすべきであった。――せめてその間ぐらいは戻ってこないで欲しいというのは当然あったが。
離れ――倉庫では無かったらしい――の作りは簡素で、入って直ぐが土間兼リビングになっており、右手に簡単な水洗い場と、部屋の中央には丸いテーブルに四脚の椅子が置かれている。
左手の壁に扉が二つ付いており、今は開け放たれていた。
ハンナに続いて二つの扉のうち、手前側の扉をくぐると、部屋の広さは八畳ぐらいの広さがある小部屋で、左手に窓が付いている。その下には寝具の敷かれていない簡素なベッドが有り、その奥には机と椅子が置かれている。その他には何も無い、殺風景な部屋だったが、たまの来客に対応するための部屋と言うことなので、これで十分なのだろう。
「ここを使ってちょうだい。寝具は後で届けるからね、それまでに少し空気を入れ換えて掃除をしようか」
ハンナはてきぱきと仕切り、どこから持ってきたのか掃除用具を出すと、俺とゴードンに指示を出し始めた。
何故かついでに奥の部屋まで手入れしているところを見ると、ゴードンもここに泊める気らしい、二人で文句も言わず指示に従って掃除をしていく。年長者に従うのはこの場合当然であったし、そもそも自分のためであるから二人とも否やは無かった。
掃除が終わり、ハンナから寝具を貰うとベッドメイクを教えて貰う。終わると、なんだかほっとする気分になる。自分の居場所が出来て、住所不定状態から脱却したためなのだろう。
(見たかニート共よ、俺は自力で住居と仕事を手に入れてやったぞぉ。これでこれで勝てる!)
何に? と聞かれても答えられない。あえて言うならニートの誘惑に屈しようとする自分自身と言えよう。
俺は自分自身の誇りを奮い立たせる自己暗示という儀式をして、気分を高揚させているだけなのである。
俺は、高揚した気分を胸に、ハンナ達と店へ向かう。そろそろ開店準備の時間だからだ。
(俺はやる、やってやる、この店を繁盛させ、ゆとりの生活を手に入れる。そうすれば次は娯楽が待っている。『魔法』をこの手にしてみせる!)
俺は、新たな決意を胸に、俺の新たな戦場へと向かう。小さな街の小さな酒場という男の戦場へ。
俺は覚悟を胸に、酒場の親父としての初日に臨むのだった。