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幸せの彩り

 彼女も同じだった。

 今日は口を噤んでいるものの、よく自死について口にしていた。

 僕のような素人とは違い、無名とはいえ絵描きのプロをしているにも関わらず、そこに何かしらの絶望があった。

 しかし、愛用のノートを探して文房具の間をぐるぐると周り続けるような活力を与えたのは、創作への熱情だっただろう。

 同じものが、彼女と僕を生かし続けている。

 そもそも、それが最初に惹かれ合った理由だったのかもしれない。


 店員さんからノートの在処を聞いた彼女が、振り返りながら暢気に言った。

「よく黙って付いてくるもんだなぁ」

 なるほど。自分がおかしな事をしている自覚はあったらしい。

 黙って流れに身を任せるばかりではいけない。

 だが、好奇心が黙って見守ることを命じる場合もある。

 僕は疲れもあって、ただ無言で引き攣った微笑みを返した。


 このロフトという大型店舗にあって、彼女の興味はノート一冊のみだったらしい。

 ノートを贖っただけで、僕たちは下りのエスカレーターに乗っていた。

 上機嫌の様子で彼女が聞いてくる。

「どこか見ていく?」

 元々出不精で、大都会に憧れがあった訳でもない自分としては返答に困る。

 見るべき所がわからない。それより腹が減った。正直にそれを口にする。

「何か食べに行こう。ちょっといいもの食べてもいいよ」

 PS3を買っても数万円余る程度には持ってきていた。

 自分で言った通り、彼女とちょっといいものを食べておきたかったからだ。

 池袋辺りで食べられる、少し高価な食べ物になら興味が湧く。


 しかし、エスカレーターが一階に着くと同時に、彼女は言った。

「じゃあ、地元のジョイフル行くか」

「えっ、ジョイフルってファミレスの?」

「そう」

「うーん……」

 東京に来てまで、成田にもあるファミレスチェーンの料理を食べるのは気が向かなかった。

 それに彼女は地元まで戻ってから、そこにある店に行くという。

 それにも引っかかった。

 言ってしまえば僕は、食事の後、この池袋でデートを解散しようとさえ思っていたのだった。

 彼女の地元で食事したら、その後また戻って来なければならない。

 それも面倒だ。


 だが、ロフトの出口であるガラスドア越しに、行き交う人々の頭の数を見ると、俄に気が変わった。

 痩せた身体から連想できるように、彼女は食への感心が薄い。

 この池袋で行ってみたかった店などもない様子だ。

 行くあても定かならぬ状態で、この混雑の中を歩くのも辛い。


 僕は納得して彼女に賛成した。

「それでいいか。君がいいなら」

 そうして僕達は、人混みを縫って駅に戻り、例の如くもたもたと切符を買い、黄色い車体の電車に乗った。

 中は空いていたが、座れる席は一つしかなかったので、彼女が聞いてくる。

「座っていい?」

「ああ」

 彼女が座り、僕はその前に立つ。

 すると彼女が、僕の手からゲーム機の入った紙袋を引き取り、自分の足の間に置いた。

 なるほど。確かにずっと持っている必要はない。

 落ち着くと彼女はノートとペンを取り出して絵を描き始めた。

 電車が動き出す。


 ふと隣を見れば、そちらも男女のカップルだった。

 二人共、歳は三十前後か。

 女の方が男の右手を膝の上に持ってきて強く握り、目をつぶって身をもたせかけている。

 かなり仲睦まじい様子だった。

 できることなら、自らもこんなシーンの出演者になってみたい。

 こんなふうになれる日が、僕たちにも訪れるだろうか。かなり怪しい。


 視線を移して彼女を見下ろす。

 周囲の様子も気にせず、せっせとペンを走らせていた。

 カジュアルなクレイジーさは片鱗も見えない。

 絵を描くのが殊に好きな、普通の女の子だ。僕はそれを見守る。

 池袋の明治通りを歩いていた時からそうだったが、これではカップルというより、ほとんど保護者と被保護者の雰囲気だった。

 それでもいいだろう。

 僕はこの時、この日一番の充足感を味わっていた。

 ついぞ忘れていた、幸せの彩りと隣り合っている感じがする。

 まだ、その彩りの中にはいない。でも、近づいてはいる。

 僕の恋愛感情は、やはり機能しているのかもしれない。

 息を吹き返したばかりだとしても。


 僕たちは顔も窺えないネット上で知り合った。

 アメリカでは二〇〇五年以降に結婚したカップルの内、実にその三分の一がネットのサービスを通して知り合ったものだという。

 その上、ネットの外で知り合って結婚した場合に比べて、結婚後の充足度も高いという調査結果が出ている。

 この流れは日本でも広がっていくだろう。

 創作仲間の主婦の一人も、相手とはネット上で知り合ったとカミングアウトしていた。

 健康な子供が二人おり、生活には概ね満足しているらしい。

 僕たちも、その潮流に乗って行く事になるのだろうか。

 彼女は悪い人間じゃない。それは確かだ。


 だが、明暗の激しさが僕を大いに疲弊させた。

 ただでさえ人付き合いの少ない僕にとっては、刺激の強い相手だった。

 もっと多くの時間が要る。

 彼女の激しさに慣れる時間が。

 静かに満ち足りていた時間が過ぎた。

 電車は彼女の最寄り駅に着く。

 彼女は自分でゲーム機の紙袋を持って立ち上がった。

「ここからは自分で持ってくの?」と聞いてみれば、「うん」と答える。


 僕はここに来た時と同様の手ぶらに戻った。

 電車を降り、混雑した改札を抜けると、人の密度が一気に減った。

 二人揃って街路への階段を降りていく。

 今、僕たちは横に並んで歩いていた。朝とは違う。

 途中、彼女がリラックスした調子で言う。

「アタシ、ジョイフルのチキンステーキ好きでさー」

「鳥は飼うのも食うのも好きか……」

「まあねー。飼ってる鳥は餓え死にしても食べないけど」

 口数が増えてきた。いい傾向だった。


 階段を降りたところの歩道は広く、人は少ない。

 池袋とは比べ物にならない快適さだった。

 ほっとした心地で僕は言う。

「ああ、すっきりする! なんだったんだ、あの人混みは!」

「ウチの方はいつもこんなもんよ? 池袋が異常なの」

「あんな所、一人じゃ二度と行かないよ」

「ホントに人混み駄目なんだ? アタシも好きじゃないけど」

 僕たちは池袋の悪口を言いながら、くつくつと笑いあって歩を進めた。


 しばらくすると彼女は雑居ビルの入り口で立ち止まり、上を指さす。

「ここの二階」

 なるほど、看板が出ている。

 階段を上り、店の中に入ってみると、残念ながら全席禁煙だった。

 今の御時世、仕方ないだろう。ここでも喫煙を諦める。

 店内は外側から想像するのよりずっと広々としていて、明るかった。

 案内された小さなテーブルに、向かい合って座る。


 彼女の顔をふと見遣って、ぎょっとした。

 どういうわけか、今朝のように、再びむくれっ面になっている。

 俄に暗雲が垂れ込めてきた。

 ここまでの急変だと、もう原因がわからない。

 突き止めようとする気さえ失せる。

 内心で溜息をつきながら、メニューをめくった。

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