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モーゼのごとく

 バッグをごそごそ探りながら、彼女が指さした。

「あっちだから」

 なるほど、人の海の向こうにビックカメラの看板が見える。

 どういう訳か、彼女はペンとノートを取り出して歩き始めた。僕も続く。


 僕はもちろん人混みなどは嫌いだし、ネット通販の充実している現在、わざわざ大都市に出かけてくる理由もなかった。

 この機会に大都市の雑踏というものをよく観察しておこうなどと思いつつ、お上りさんよろしく周囲をきょろきょろと見回しながら歩く。


 歩いていて、ちょっとした違和感を覚える。

 これだけ人が多いのに、まったく通行の妨げにならない。

 道路の設計がそれだけ優れているのだろうか、などと考えてみる。

 唐突に、彼女の歩く速度がガクンと落ちるのを感じた。

 何事かと見遣れば、彼女はなんとノートとペンで絵を描きながら歩いていた。

 絵の方に集中しているらしく、彼女はまともに歩くこともできず、足が悪い訳でもないのにびっこを引き始めたのだった。

 ここまでやるのには大いに呆れた。

 とはいえ、僕の抱いた感想はその程度のものだった。

 通りは歩きやすいし、特に問題は感じなかった。

 彼女の歩調に合わせて、見物しながらゆっくり歩く。


 どこに目を向けても人の頭があった。

 遠目から見ると、人々の肩は重なり合い、密集している。

 僕たちがこんなにゆったり歩けるのは、やっぱり不思議に思えた。


 そして、ハタと気づく。

 僕たちが快適に歩ける理由。


 それは、僕たちが避けられているからだった。

 道行く人々は都会人の洗練された動きで、巧妙に僕たちを避けていた。

 僕のような田舎者にはすぐ感づかれないような、自然な流れで。

 いや、この場にいる人々が全員、都会住まいとも限らない。

 地方から出てきている人も多いだろう。

 つまりはこういうことだ。

 びっこを引きながら藪睨みで絵を描き続ける彼女と、暢気な風体のその随伴者たる僕は、日本人なら誰もが避けるような有様と考えてもいいようだ。


 僕のしたことといえば、まず、彼女に感心してしまった。

 まったく非暴力的な所作でありながら、ここまで人を寄せつけない方法なんて、僕には思いつけなかっただろう。


 病気のお陰で、僕の人生の一部はかなり異様だった。

 閉めきった部屋の中で新聞を読んでいて、隣の家から「ページを捲る音がうるさい!」などと叱責される人はどれくらいいるだろうか。

 朝起きた瞬間に、「起きたぞ!」「よし、観察開始!」などと相談し始める、声だけしか存在しない男女のグループもいた。

 または就寝直前、閉めた雨戸がドンドンと勢いよく叩かれ、「出てこい! 出てこい!」と挑発されることもあった。

 怒りに燃えて戸を開けてみれば、誰もいない。

 僕は裸足のまま、逃げる足音を追って深夜の町を彷徨ったこともある。

 そのとき、偶然の通行人と出くわしていたら、と思うといまだに恐ろしい。

 これらはすべて、幻聴によってもたらされた、客観的には現実ではない事柄だ。

 しかし、僕の主観にとっては、確固とした現実でもあった。

 聴覚の変調だけで、人はここまで狂わされる。

 僕はそんな異様な世界の住人だったこともあるわけだ。

 それらが過去のこととは言え、僕は異様なものに慣れ過ぎていた。

 回復した今でも、偶に世界から置いていかれることがある。


 行き交う人々の生々しい反応を視覚で捉えたときになって初めて、僕たちがかなり異様なことに気づいたのだった。

 確かに不気味だったろう、僕たちは。

 冷静な随伴者たる僕は、薬で作られた理性で狂気を抑えている。

 投薬を生涯続けねばならないような病気だ。

 一方、この場の主役たる彼女は病気じゃない。

 治療も投薬も要らない正気の持ち主であるはずだ。

 そこにあるものはやはり、カジュアルなクレイジーさだったかもしれない。

 満ち溢れ、器から漏れ出している、マイルドな狂気だった。

 致死的な種類のものではないとはいえ、人々は畏れている。

 狂気そのものより、狂気に巻き込まれる可能性を。

 周囲の人々が僕たちを避けている。

 それに気付いたところで、僕がどうのこうのと口出しすることも無かった。

 彼女に対して、横からおかしなイチャモンが飛んできたりしないか、ちょっと気を配り始めたぐらいでしかない。

 正直な話、歩きやすかったからだ。

 合理的な考えで、僕は今の状態を保持したかった。


 僕もおかしな所は多々ある。

「狂人とは理性以外のすべてを失った者だ」そんな言葉を見た覚えもある。

 僕としては、苦しみがなければそれでよかった。


 人混みの中でありながら、僕たちは比較的ゆったりした空間を維持したまま、ビックカメラへ辿り着いた。

 彼女は顔を上げ、ペンとノートをしまう。

「こっちだから」

 そう言って、彼女は赤い階段を登っていく。僕も従った。

 ビックカメラに来るのも初めてだった。

 この場所はもちろん、他の店舗にも入ったことはない。

 成田にはなかったからだ。

 テレビやネットで度々目にする有名なビックカメラとは、一体どういう場所なのか。

 じゃっかん好奇心が疼く。


 階段を登り切って店内を見渡す。

 残念ながら、軽く失望した。

 当たり前だが、普通の家電量販店だった。

 狭苦しく、ギチギチに詰め込まれた商品の陳列に美しさがない。

 成田の電器店は広々としたスペースに余裕を持って商品を配置してあり、ある種の美があったものだ。

 がっかりしたというより、自分自身、齢四十を過ぎた身の上で、家電量販店に何を期待していたのか。


 そう自問したところで、肩透かしを食ったような思いは変わらない。

 さっさと買い物を済ませてしまいたかった。

 この階はホビーフロアらしい。

 見回すと、ゲーム関連製品の他に、大人向けと思しき高価な玩具も並んでいる。

 ほとんどは丁寧な造形のフィギュアだ。

 色彩豊かなそれらに目を奪われながら、目的のPS3を探していると、彼女の姿が消えていた。

 慌てて振り返ってみると、彼女はある一点で釘付けになっていた。

 そこまで引き返して、同じ物に目を向ける。


 少し高い場所に、三十センチはある大きなフィギュアが飾られていた。

 金色の鎧を着けた少年だ。

 彼女は近視の瞳でそれを熱心に見上げている。僕は聞いた。

「これは誰?」

「サジタリウスのセイヤ。アンタ、直撃世代でしょ?」

 確かに僕が子供の頃に流行っていた漫画の登場人物らしかったが、キャラクター名まではわからなかった。

 登場人物がほとんど男ばかりであるその作品は今、腐女子の間でブームが再燃しているという。

 このフィギュアもレトロ玩具ではなく、新製品だ。


 この作品の漫画版を子供の頃に読んでいた覚えがある。前半部分だけ。

 後半に入る頃には漫画離れしていた。

 彼女は漫画も全巻精読しているらしいが、アニメ版のほうをより愛していた。

 僕はその内容についてまったく知らない。

 そのうえ、僕の記憶はかなり曖昧になっている。

 せっかく世代を超えて共有できそうな話題を持ちながら、話はほとんど通じなかった。

 同じものを目にしながらも、見ている角度が違いすぎれば、やっぱり違うものになってしまう。


 彼女は食い入る様にフィギュアを見つめていた。

 この聖闘士星矢をモチーフにしたイラストもよく描いていたので、立体化したものの形をよく覚えておきたいのだろう。

 一緒にこれも買ってやろうかなどと考えたが、やはり止めておくことにした。

 七千八百円と値段もそこそこするし、次の機会の為にとっておいたほうがいいだろうと考えた。

 ちょうどいいデートの口実になる。

 そこで彼女の気が済むまで無言で付き合うことにした。

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