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天使を垣間見る

「ちょ、ちょっ……」

 言葉にならない声を上げ、僕は慌てて立ち上がった。

 さすがに周囲の反応も気になり、あたりを見回す。

 店の中では、僕たちのことを誰も気に止めてない様子だ。

 都会人の無関心というのも、場合によってはありがたい。


 まだたっぷり残っているコーヒーをこぼさないように注意しながらカウンターへ戻し、彼女の後を追う。

 他の客が無関心を装っているとはいえ、とりあえず背筋だけは伸ばして、ゆっくり歩く。


 表に出てみると、彼女は駅への階段をズンズン登っていくところだった。

 振り返りもしない。

 この不機嫌さの原因は何か。 

 原因はたぶん、僕が早く着き過ぎたことだ。

 どういうポリシーか知らないが、彼女のほうが待っている側にしておかなければならなかったらしい。

 待つのと待たせるのとでは、待つほうが貸しを作れる。

 そこら辺に理由があるのだろう。

 本当にそういうものなのか、まったく確信などなかったけど、そういう感じで折り合いをつけた。

 そうでもしなければ、理性が悲鳴を上げる。


 僕は小走りで彼女に追い縋った。

 映画ではよく見られるシーンだ。

 焦点人物の腑抜けっぽさを現すのに使われることが多い。

 我ながらなかなかの駄目男っぷりだった。


 後から考えてみると、この場面は彼女の親に目撃されていた可能性が高い。

 彼女が短い時間で現れたのも、父親か母親に車で送ってもらったからだろう。

 カーゴ・リリィは実家暮らしで、親子の関係はまだ濃密だった。

 これまでの話を聞いているだけで、それが窺えた。

 独身中年でありながら金持ちでもない娘の彼氏を、ひと目確認しておこうとしても不思議じゃない。


 僕のほうはこのとき、そんなことまで頭が回らなかった。

 焦っていた。

 足早に階段を登る。

 彼女の背中にはすぐ追いついたものの、何と言葉をかけるべきか、まったく思いつかない。

 誕生日デートだというのに、僕たちは縦に並んで歩くことになった。

 口も利かない。

 約束を果たすということが、必ずしも快いとは限らない。

 感情的には、すべてを放り出して帰ってしまいたかった。

 しかし、薬で強化された理性がそれを押し止める。

 まさか、一日中この調子じゃあるまい、と。

 起き抜けの不機嫌も、目が冴えるに従って抜けるだろう。

 とりあえず、約束を果たすところまではやってみよう。


 僕たちは無言の縦列のまま、人の行き交う改札口に着いた。

 必要に迫られて、僕はやっと口が利ける。

「切符を買わないと」

「スイカとか持ってないの?」

 彼女は応えたものの、突き放したような言い方だ。

 こちらに顔を向けることもなく、スイカを使ってホームへ降りてゆく。

 それを尻目に、僕は券売機のほうへ行く。

 まだ切符一枚買うのさえ、随分とまごつく有り様だ。

 電車には慣れていない。

 いちいち駅名と料金をしっかり確認し、小銭をまさぐり、押すべきボタンを探す。

 切符を手にするまで二分はかかった。

 電車が来ていたら置いていかれてしまうかもしれないと思い、急いで改札口を抜ける。


 ホームへ降りる階段の上に立ったとき、眼下に彼女の姿があった。

 僕の姿を認めると眉を下げ、安心したような微笑みを浮かべる。

 このときばかりは天使が戻ってきた。

 切符を買うのに時間がかかった為、僕が消えてしまったとでも思っていたのかもしれない。

 横綱の睨みは消えていた。


 しかしそれは、一秒あるかどうかの安らぎだった。

 彼女はすぐにむくれた顔へ戻り、さっさと電車に乗り込んでしまった。

 嫌な予感がする。

 もしかしたら今の場面が、今日のデートにおけるクライマックスだったのではないだろうか。

 そうとも限らない。まだ良くなる可能性を追ってみてもいいだろう。


 階段を降り、僕も電車に乗り込んだ。中はまだ空いていた。自由に座れる。

 彼女と並んで腰を下ろし、一言訊いてみた。

「これからこの電車、混むの?」

「さあ」

 彼女は短く、ぶつりと言った。

 それだけで口も開かず、バッグの中からノートとペンを取り出す。

 ノートを開き、絵を描き始めた。

 ゲームに出てきそうなキャラクターの全身像だ。


 絵を描き続ける彼女の横顔を眺めていて、僕はふと、「繋がっているな」と気付いた。

 僕たち二人の絆が、というわけじゃない。

 彼女の眉毛が、だ。

 彼女の眉間にはうっすらと毛が生えていて、両の眉毛を繋げていた。

 次に会うときは、フェイストリマーをプレゼントしよう。

 確か、近所の電器店ではかなり安かったのを見た覚えがある。

 などと、そういうことを沈思黙考した。


 彼女は黙々と絵を描き続ける。

 会話はなかった。

 僕のほうは、十年にも及ぶ医者通いに於ける、診療待ち時間のおかげで、ぼうっと過ごすことに慣れてしまっていた。

 無聊な時間の過ごし方を知っている。

 やるせない時間が流れていく。

 果たして、恋愛とはこういうものだったろうか。


 数十分後、目的の池袋に着くころには電車の中もだいぶ混み合っていたが、まだ満員という程ではなかった。

 彼女が立つのに合わせて自分も立ち、電車から降りる。

 ホームに人が溢れた。

 いつも自家用車を使い、インディビデュアルな空間を占有して移動している身としては、まったく気圧される。

 彼女は慣れた様子で、人の波間を縫って進む。

 しきりに髪を気にしていた。

 真横に跳ねた前髪を、手櫛で撫でつけようとしている。

 最寄り駅から離れ、人が多くなってくると、さすがに意識するらしい。

 こちらはきちんと身なりを整えているから、暢気なものだった。


 ただ一つ、思惑があった。

 彼女に何か物を食べてもらいたい。

 起き抜けでやってきたのだろうから、何も口にしてないはずだ。

 腹の心地が良くなれば、少しは愉快な気分になるかもしれなかった。

 大昔に、誰かがそんなことを教えてくれたような気がする。


 そこで、一歩前を行く彼女の肩越しに提案してみた。

「ちょっとどこかで休憩しないか?」

「どんなとこで?」

 彼女はぶっきらぼうに答え、改札を抜ける。僕も続いた。

「喫茶店みたいなのがいいかな?」

「じゃあこっち」

 行くあてがあるようなので、彼女を半歩前にして隣に並んで歩く。

 ちょっと進んだ後、彼女は急に立ち止まり、方向を変えた。

「いや、あっちだっけ」と、呟く。

 それから、ふらふらと彼女が迷走しだした。

 ちょっと進んでは呟いて方向を変え、立ち止まっては進路を変える。

 頼りになれないのは悪いけど、彼女も池袋には不案内のようだった。


 東京は選択肢が多すぎる。

 家から近くても、行き慣れてない場所は幾らでもあるのだろう。

 仕事のやり取りさえネットで済ますという質の彼女は、わざわざ新しい刺激を求めて無闇にうろついたりしないはずだ。

 東京に住んでいながら、近場の繁華街のことも詳しくないというのは、田舎者の僕からすれば少しもったいないような気がする。

 とはいえ、僕も都内に生まれ育っていたなら、彼女同様の出不精になっていただろう。

 なにせ四十年も住み暮らした、もっと狭い成田のことでさえ精通しているとは言えないくらいだ。


 僕とカーゴ・リリィはやはり、芯のところで似通っている部分があった。

 感情的に開けっぴろげな彼女と、冷静にいようとする僕の間には。

 彼女はナチュラルで、僕の悪い感情は薬の膜の下だ。

 でも、同じものがどこかにある。

 それはやはり狂気だったのかもしれない。


 しばらく彷徨った後、僕たちはとうとう案内板を頼った。

 それを見ると、彼女は得心がいった様子でエレベーターを探し当て、僕たちはそれに乗った。

 彼女がボタンを押し、エレベーターが上昇する。

 数秒で扉が開くと、そこは飲食店が連なるフロアだった。

 彼女が躊躇なく歩を進める。

 ここまではずいぶん迷ったが、ここから先は、少なくとも一度は来たことのある場所らしい。


 連れて行かれたのは、和洋折衷の甘味処といった雰囲気の喫茶店だった。

 なるほど、甘いものは良い。

 残念ながら禁煙だ。

 どのみち、このフロアに喫煙できる店など有りそうも無かったので、僕は素直に従う。

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