ドトールで山場
暗澹たる気分で一度電話を切り、僕は意味も無く周囲を見回した。
意味も無く、だ。
誰かに「助けてくれ!」と縋ったところで、どうにかなるものでもなし。
この寒い駅頭で放ったらかしにされてしまったら、僕には行くあてが無かった。
東京見物をする気にもなれない。
僕はもともと旅行などを楽しめるクチではなく、あても無くぶらぶらすることが苦痛な質だった。
このままでは、何をするでもなく成田に直帰するしかない。それも困る。
仕方がないので、彼女に再び電話をかけた。
今度は何か反応があるまで粘るつもりだった。
その決意とは裏腹に、意外と早く彼女に繋がる。
ほっと安堵したものの、事は滑らかに進まなかった。
スピーカーからは、もごもごもにょもにょと呪詛めいた呟きが聞こえてくるばかり。
彼女なのは確かだが、何を言っているのかさっぱりわからない。
明らかに寝起き直後だ。
僕は一方的に言うしかなかった。
「おはよう。今、こっちに着いたから」
しばらく間が開いてから、彼女は答えた。今度は聞き取れる。
「……じゃあどっかで時間潰してて」
「この前のドトールで待ってるから。ゆっくりでいいよ」
「わかった……」
これで電話を切った。通じてしまえば簡単なものだ。
今日どこへ行って何をするかは、彼女も承知している。
池袋のビックカメラへ行って、PS3というテレビゲーム機を誕生日プレゼントとして買う。それがメインイベント。
あとはそこそこのお値段がする店で食事でもしよう。
僕の目論見はそんなところだった。
一安心して電話をコートのポケットにしまった。
店へ向かって歩き出そうとしたところで、しまったばかりの電話が鳴る。
彼女からだった。
まだ着信には慣れてない。
僕は慌てて、ぎこちなく通話ボタンを押した。
「もしもし……」
彼女は前置きもなく、唐突に切り出した。
「午後からじゃなかったの!」
先ほどまでとは打って変わって、シャキッとした怒りを含んだ非難の声だった。
そんなことを何故今更言われるのかわからないが、僕は弁明する。
「午前中には着くって言ったんだよ」
「だからって早すぎない?」
「十時には店が開くからいいかなと思って」
彼女は大きく溜息をついてから言った。
「わかった。待ってて」
電話はそれで終わった。
空は青く晴れ渡っていたが、心象的には暗雲がかかり始めた。
このような言ってもしょうがない文句を、わざわざ言わなければ済まない心理も理解できる。
しかし、普通なら表に出さない。
彼女の不機嫌の要因はなんなのか。自分の晴れの日だというのに。
こっちこそ溜息をつきながら、僕はドトールへ入っていった。
コーヒーとタバコが必要だ。
店内に漂う芳しい香りに幾分癒される。
僕は一番大きいサイズのブレンドを注文した。
たっぷり一時間は待つことになるだろうと予想してのことだった。
それでも構わない。
すぐに出てきた特大のカップを持って、奥の喫煙席を目指す。
座ってタバコが吸えてコーヒーも飲めるなら、一時間なんてどうってこともない。
それに、今なら電話でツイッターも出来る。
暇つぶしには持ってこいだ。
店はけっこう繁盛していて、二人掛けの小テーブルはすべて埋まっていた。
僕は七人掛けの大テーブルの端に座るしかなかった。
まずはタバコを一服すると、コーヒーの香りと相まって、楽天的な気分が蘇ってくる。
結局、彼女は寝起きでちょっとへそを曲げていただけなのだろう。
少しすれば、誕生日デートということでめかしこんだ、可愛いカーゴ・リリィが現れる。
僕は無邪気にそう思っていた。
タバコの後、コーヒーを啜り、電話を取り出す。
通話が目的じゃない。ツイッターをするためだ。
電話をネットに繋ぎ、不器用なボタン操作で、こう入力した。
「彼女の最寄り駅なう。化粧待ちなう」
ツイッター上で繋がっている創作仲間たちは、みんな今日のことを知っている。
創作仲間には主婦もいたし、無職者もいたし、職場から一日中ネットを覗いている者もいた。
まだ正月休みという者もいただろう。
平日といえども、こうツイートしておけば、誰かが暇潰しの相手をしてくれるはずだった。
誰かが返事してくれるのを待つ間、一旦ネット接続を切った。
この日、相手をしてくれた人はいたが、僕がそれに返事をするのは何時間も後になる。
僕が二口めを啜ろうとカップを持ち上げたとき、背後から声がかけられたのだった。
「ちょっと……」
怒りを押し殺したような、重量感のある女の声。
振り向けば、そこにカーゴ・リリィが立っていた。
僕の時間感覚が一瞬混乱する。
先ほど電話を切ってから、まだ十分経ったかどうかというところだ。
彼女の家がどこにあるのかはまだ知らないが、それにしても早すぎる。
だが、現実として彼女はそこに立っていた。
どのようにしてこれだけ早く着いたのかはわからなかったけど、彼女の姿は一つの真実を証明していた。
省けるものは省いてきた、と。
髪を梳くのも、化粧をするのも、誕生日の服を選ぶのも端折った。
顔を洗ったかさえ疑わしい。
僕に会うために急いだのだろうか。
彼女の纏う雰囲気は、そうではないと語っていた。
僕は理屈で考えようとした。
彼女は人を待たせることに苦痛を感じる質なのかもしれない。
僕のためというよりは、自分のエゴを優先させた結果なのだろう。
そんなふうに考えたものだったが、今にしてみると、感情の発露に理屈ばかりで考えても意味のないことだった。
彼女は機嫌を悪くし、省けるものは省いてきた。徹底的に。
数週間前の天使はどこに消えたのか。
髪は寝癖そのまま、頭から直角に飛び出し、むくんだ顔に化粧っけは無い。
黒いミリタリージャケットに茶色いコーデュロイのズボンを着け、大きく膨らんだズタ袋的なバッグを肩から下げている。
この前とほぼ同じ服装だ。いや、むしろ悪くなっている。
僕はもう「常識」というものの曖昧さを受け入れているつもりだった。
人というのは同じ国に住んでいてさえ、それぞれ異様だと。
それでも予想外の衝撃だった。
もう少し身なりを整えないと、僕なら外に出られない。
とはいえ、僕もいい歳だ。素直に驚き叫ぶこともない。
受けた衝撃からなんとか立ち直り、僕は努めて軽い調子で言ってみた。
「君も一杯どう?」
「一杯って……」
彼女は怒気含みの震え声を出し、一重の瞳で僕を睨みつける。
迫力があった。その恫喝が滲みだす眼差しには見覚えがある。
これは……朝青龍の眼だ!
あの大横綱の!
彼女は痩せている。
顔も細面だが、人相において太っているか痩せているかの印象は、鼻より下の肉付きで決まるという。
言い方を変えれば、彼女のように痩せていても横綱の眼を持てるということだった。
僕はつばを飲み込んだ。
鋭い眼光に物怖じしていると、彼女はいきなり踵を返した。
カウンターへ向かう。
不平がましい態度を取りながらも、素直に注文をしに行くのは可愛い。
僕は暢気にそんなこと考えていた。
彼女の姿を目で追いながら、ほっと一息をつく
再びコーヒーを啜ろうとカップを傾けた。
直後、驚きで指の力が抜け、カップを落としそうになる。
彼女はカウンターを素通りし、まっすぐ外へ出て行ったのだった。
躊躇が無い。