カーゴ・リリィ
僕はSFに分類されるような創作話を公開していた。
彼女は本業がイラストレーターということもあって、女に見えるような美男子のイラストとともに、BLストーリーをよく書いていた。
BLとは、ボーイズラブの略である。
ボーイズラブとは、見目麗しい美男子たちが同性の男たちを恋愛対象として、いちゃいちゃしたり、犯し犯されつする物語を総称していう。
大抵の場合、同類の女性に向けて、女性の作者が創作する。
このようなBLを好む女性たちは、「自分、女として腐ってる」との自嘲をこめて、自らのことを「腐女子」と呼ぶ。
彼女、ペンネームで呼ぶならば「カーゴ・リリィ」は、自他共に認める腐女子だった。
残念なことに、彼女と知り合った創作物投稿サイトは、ほどなくして閉鎖され、ネット上から消滅してしまった。
しかし、これが却って僕たちの距離を縮める。
僕とカーゴ・リリィ、そして他にも知り合いになったアマチュア創作家数人は、交流の場をツイッターに移して親睦を深めていた。
ツイッターというのも、ネット上のサービスだ。伝言板に書き込むような要領で、会話のやりとりができる。カジュアルさが人気のソーシャルネットワークサービスだった。
連日連夜、手すきの時間にツイッターで会話を続けるうち、僕とカーゴ・リリィはお互いを「どうやら気が合いそうな相手だ」と認め合っていた。
とはいえ、僕は内心、関係を進めることに怯えていた。
相手が僕よりだいぶ若いことは確実だったし、彼女が自称していた腐女子というものが、どんなものかもわからない。
しかし、確かめるのは今しか無かった。
僕が恋をできるのかを。
この感情が恋なのかを。
僕より若いといっても、彼女だって成人してから大分経つ。
僕たちは浮かれ調子半分、冷静な分析半分で協議し、意を決して「恋愛関係」を結ぶことになった。
彼女が主導権を握っていたが、それもかえって好都合だった。
こっちは恋愛の仕方を忘れている。
しかし、いつだって、ちょっと無理をしないと先へは進めない。
そんな訳で、一月七日午前九時半、僕は西武池袋線のある駅に降り立った。
陽射しは明るく頼もしかったけど、まだ空気は染み入るように寒い。
ちょっと身震いして、白い息を吐きながら街路へ続く階段を下る。
ここはカーゴ・リリィの最寄り駅だった。
僕は今日、彼女の誕生日を祝うためにやってきた。
僕の住処、空港と新勝寺でおなじみの成田からは、一時間以上かかる。
あとで聞いた話しだと、もっと速く着く方法もあったらしい。
だけど、僕は電車に乗り慣れていないのでわからなかった。
路線ものというのは、あまり好きになれない性分だった。
普段は自家用車で移動しているし、それも一時間以上かかる遠方には行く用事が無かった。
僕は、統合失調症が発症する前に運転免許を取得し、病気がひどかったときも、今も運転している。
あまり事情に明るくない人からすれば、統合失調症の人間が自動車を運転しているという話は、空恐ろしいものかもしれない。
統合失調症患者の死因第一位は交通事故、というデータもある。
だがこれは、ほとんどの場合、歩行者として死んでいるのだった。
加害側ではなく、被害を受ける側だ。
良くない医者に、古い薬ばかりをたっぷり与えられ、ぼうっとした頭で路上をふらふら歩いていて車にはねられるらしい。
僕に関して言えば、生来の慎重さも手伝って、免許取得からこれまで、無事故無違反だ。
幸運ばかりの話じゃない。
人々を死に誘っているのは別種のものだろう。
酒酔い運転に、電話をしながらの運転、素人の手によるブレーキの調整など大雑把な整備、粗暴な性格による危険な運転。
病気ではなく、もちろん治療の必要もない人々の、日常における狂気の沙汰。
あらゆる局面において、そういうカジュアルなクレイジーさのほうが致死的だ。
僕は本物の狂気を体験したおかげで、今でも自分の直観的感情を信じない。
まず理性に照らし合わせ、出来る限り合理的に考えてみようと務める。
それは却って、人の取り得るカジュアルなクレイジーさを遠ざけていた。
僕はそう信じているが、もしかしたら、単純に歳のせいかもしれなかった。
どちらにしろ、断言はできない。
人は何歳になろうとも、来る年齢についての体験は未経験だ。
だからこの日、僕がそれほど浮かれはしゃいだ気分ではなく、心の奥底に居心地の悪そうな青春の蠢きを感じる程度だったとしても、それが性格によるものか、年齢によるものかはいまだに判然としない。
実のところ、今日は二度目のデートだった。
前回は去年の十二月二十一日。僕は十年ぶりの電車に乗って、この駅までやってきた。
そして無事、リアルのカーゴ・リリィと初顔合わせを果たす。
ネットとリアルの境界線が崩れた瞬間だった。
現実のカーゴ・リリィはショートの黒髪で、黒いミリタリージャケットを着て、黒いジーンズという黒ずくめの痩せた女だった。
お洒落とは言えず、かといって見窄らしくもなく。
この黒ずくめファッションは、腐女子のあいだでは定番の一つらしい。
つり目がちのその面差しは、黒髪であることも手伝って若々しく、見ようによっては中学生くらいにも見えた。
実際には、今日で二十七歳になるわけだが。
化粧もしてないように見えたので、僕が褒めるつもりでそれを指摘すると、彼女はむくれた。
「失礼だなキミは。ばっちりメイクだよぉ」などと頬を膨らませる。
このような態度には、正直言って、新鮮な感動をさえ覚えたものだ。
それから僕がタバコを吸いたい旨を告げると、彼女は駅の階段を降りてすぐにあるドトール・コーヒーショップに案内してくれた。
そこでしゃべり続けた。主に彼女が。
彼女は自らが「徹夜テンション」と呼ぶ勢いに支配され、彼女の関心を話し続ける。
僕はコーヒーを飲み、タバコを吸いながら、にこやかに相槌を打っているだけだった。
それも苦じゃなかった。
僕にはこんなこと自体、懐かしく、そして甘さを感じるひとときだった。
少々躁病的なところがあるにしても、カーゴ・リリィは可愛い。
僕じゃなくても、年上に好かれるタイプだろう。
この一方的な会話は、彼女が疲れきるまで、三時間以上続いた。ドトールの店内で。
結局、その日はそれだけで別れた。
彼女は満足気だったし、僕も同様だ。
いくぶん椅子が固かった程度では、ドトールにも悪い印象を抱いてない。
なんといっても、タバコの吸える場所は限られている。
暇な時間にタバコを吸えないのは苦痛なくらいに、僕はニコチンに魅せられている。
今日も今日とて、彼女を待つ時間はこのドトールで過ごそうと思い、僕はその店の前で携帯電話を取り出した。
この携帯電話も、彼女と連絡を取り合うために、新しく契約したものだった。
それまで、ケータイを持っていないと人に言うとずいぶん驚かれたものだが、僕の人生には必要が無かった。
使う相手がいなかったのだ。彼女と付き合うことになる日まで。
なんとか覚えた必要最低限の機能を使い、覚束ない手つきで彼女へ電話をかける。
考えてみれば、街頭で電話をかけるのも初めてだった。
車の騒音が思いのほか大きいし、行き交う人々の気配もちょっと気になる。
耳に意識を集中して、やっと呼び出し音がかすかに聞こえた。
呼び出し音が鳴り続ける。鳴り続けるばかり。
彼女が出ない。
冷たいものが、脳裏に降りてくる。
もしかしたら彼女は気まぐれを起こして、すべてをすっぽかしたい気分になっているのではないだろうか。
こっちは片道一時間以上かけて来ているのに、すごすごとは帰れない。