表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/10

ウェイステッド・ウォーキング・デーティング

 僕たちは、無言の静寂の中で食べる物を決めた。

 彼女にも決めたか聞くと、「うん」と短く答えた。

 店員さんを呼び、それぞれの注文をする。

 僕はハンバーグとライス、彼女はチキンステーキとパン。

 さらにドリンクバーを二人分頼もうとすると、彼女は「水だけでいい」と断ってきた。

 僕の分はドリンクバーを頼む。


 店員さんが行ってしまうと、彼女はペンとノートを取り出し、絵を描き始めた。

 こうなってしまうと、何を話しかけても生返事しか帰ってこない。

 仕方ないので絵を描いているのを見守りながらドリンクバーを楽しんでいると、料理が運ばれてくる。

 会食で同席していながら、そのくらいの時間を無言で過ごしていた。

 料理が来ても、彼女は絵を描くのをやめない。

 僕は遠慮なく食事を始めた。

 店に入るまでのいい雰囲気はどこへやら。

 今朝と同様に、早く帰ってしまいたくなっていた。


 疲れていたし、用事はもう済んだ。

 半分程も食べると、彼女も料理に手を付け始めた。

 パンにバターを塗り、歯を剥きだして齧りつく。

 一度バターを塗ってしまえば、右手はまたペンを取る。

 彼女は食べながらも絵を描き続けた。

 病気とまでは言えない、カジュアルなクレイジーさが再び垣間見えた。

 狂気は常に苦しみと共にある。

 彼女もこの場において、何らかの苦しみを感じているのだろうか。

 その苦しみを紛らわす方法が、絵を描く事なのかもしれなかった。

 当時はそんな事まで思い至らず、僕はただ諦め、冷静な態度で対応していただけだ。


 僕は彼女よりずいぶん早く食べ終わってしまう。

 会話もせずに食べるだけなんだから、当然そうなるだろう。

 すると、彼女がノートをこっちに寄越した。

 見ていろ、という事らしい。

 絵を見ながら、一応コメントを付けていく。

 素人だから、どうにも上手い事は言えない。

 それを聞きながら、彼女は返事もせずにチキンを大雑把に切り、歯を剥きだして山賊のように食っていた。

 その食べ方の荒さが、どこかわざとらしい。

 不貞腐れた子供のような行儀の悪さだった。

 後でわかったことだが、この不貞腐れた態度は、彼女が一抹の寂しさを感じていたところから来ていたらしい。

 この食事が終わったらお別れだと、さすがに気付いていたはずだ。

 もしかしたら、わざわざ地元に戻って食事しようというのも、少しでも長く僕を連れ回したいという思惑があっての事かもしれない。


 今ならそれが感じ取れただろう。

 しかし、当時の僕にはまだ、それを感じる感情が抜け落ちていたように思う。

 彼女に振り回され、外面はともかく、内心は余裕が無かった。

 疲れていた。

 食べ終わり、水を飲み干すと、彼女はむくれた顔で言った。

「これからどうするの?」

「うん、帰るよ」

 僕は素直に願望を口にした。

 彼女がラブホテル等に案内するはずもなし、そうなるとこの地で僕が行けるような場所は限られている。

 彼女の家だ。

 こういう合理的な判断は、当時も効いていた。

 一人暮らしなら喜んで行った所だが、今日は両親とも揃っているらしかった。

 彼女は初めて対面する前から、僕を親に会わせたがっていた。

 僕は納得できずに断っていた。


 今日にしろ、まだ二回目のデートで四十男が親に会うのは敷居が高い。

 僕の返事を聞くと、彼女の動きは素早かった。

 さっと電話を取り出して通話し始める。

「もしもし、お父さん? もう帰るから迎えに来て。今ジョイフル。あー、そう、うん。早く来て」

 まるでケンカをしているようなその口調に驚いたものだった。

 だが、父親を呼び付けてしまっては、もうすぐに店を出るしかない。

「じゃ、出ようか」

 僕たちは席を立った。

 会計を済ませて外へ出る。これで今日のデートは終わりだ。


 一階への階段を降りていると、清々しい気分になる。

 思い残す事も特にない。開放感だけがあった。

 ふと気付くと、僕のほうが先に立って歩いていた。今日では初めてのことだ。

 一階に着くと背後から声をかけられる。

「ちょっと……」

 振り返ると、むくれ面を止め、はにかんでいる彼女の姿があった。

「あっさりしたヤツだなぁ、キミは。見かけによらずさー」と、もじもじした様子で細めた目を向けてきた。


 この急変に、僕は混乱した。

 何かを待ち受けている雰囲気がある。


 これは……、もしかするとキス……か。


 彼女の気分の乱高下にはついていけない。

 僕のほうは疲れきり、矜持を保つのが精一杯だった。

 キスなどできたものじゃない。


 僕は力なく、微笑みで返した。

「今日は楽しかったよ。勉強にもなったし。また今度、どこか行こうね」

 それだけ言うと、身体の向きを九十度変えて、歩道の上を歩き出す。

 それは逃走に近い行為だったように思う。

 まだ三時だったが、疲れ果てていた。

 しかし、彼女との距離が離れていくと思うと、徐々に気力が蘇っていくような気がした。

 とりあえず、この事を先生に話したい。

 今日の出来事を。

 女の子とデート出来たなんて言ったら、先生はどんな顔をするだろう。

 そのときの顔を見てみたい。

 今やもう、それは叶わない事だったが。


 物思いに耽って歩いていると、突然に尻を突き上げられた。

 強烈な衝撃だった。

「うおっ!」と思わぬ大声を出してしまう。

「ちょっとは女の気持ちを考えろ!」

 そう叫び残して彼女が走り去っていく。

 笑っていた。

 僕の尻は、彼女のPS3で殴打されたのだった。


 この時、彼女がどれくらいの本気さで怒っていたかは定かじゃない。

 でもちょっと青春の匂いがして、比較的いい思い出だ。

 僕は彼女を追って行ったりしなかった。

 今日はここまででいい。

 僕は彼女の姿が小さくなるまで見送り、再び駅へ歩き出した。

 最後の出来事に少し気分を良くしたまま、家に帰りついたのだった。


 すぐに次の機会がありそうだと思っていた。

 しかし、次はなかった。

 この日から一週間も経ったある日の事だった。

 ツイッター上で普通にやり取りしていた時、急に宣言されたのだった。

「少し距離を置きたい」と。

 ツイッターのアカウントはブロックされ、彼女の発言は窺い知れなくなった。

 携帯電話も着信拒否がなされ、電話もメールも出来ない。

 事実上の交際終了だった。

 唐突な意趣返しに少しは悲しい思いもしたものの、こう綺麗サッパリに去ってくれると、安堵した部分も大きかった。

 彼女の家の電話番号は教えてくれなかったので、関係は真に断絶した。

 今では死んでいるか生きているかさえもわからない。

 彼女との関係はそれで終わり。


 もう一人、僕の人生にとって重要な人、主治医の川辺先生との関係も終わっていた。

 先生は、もう一年も前にアルツハイマーを発症して、引退していたのだった。

 クリニックは跡を継ぐ者もなく、廃院になっている。

 最後の診療日に、先生はにこやかに言ってくれた。

「いつでも遊びにおいで」と。


 だが、まだ御邪魔した事はない。

 仕事を続けられなくなったとはいえ、仕事を辞めたらさらに症状が進むだろう。

 僕の事はもう、覚えていらっしゃらないかもしれない。

 重要な転機を与えてくれた人を、二人失ってしまった。

 しかし、人生の新たな局面が始まっている。

 精神病は僕の人生に大きなダメージを与えた。

 失ったものは多い。


 でも、結局の所、それは一過性のものだ。

 薬と治療によって理性を与えられ、突発的でカジュアルなクレイジーさとも無縁に過ごしている。

 人と世間話をし、友達を作り、女の子と付き合う事もできた。

 失ったものを惜しみ続ける程、暇な人生を送ってはいけない。

 もしかしたら取り戻せる時も来るかもしれない。

 臨終の際、脳波が停止した後も、人は意識を保ち続けている可能性があるという。

 その時間がどれほど続くものか、測る方法がないのでわからない。

 蘇生しなければ、最終的にはそのまま死を迎える。

 悔しがるのはその間だけでいい。

 それとも、その際でさえ前を見据えて、新たな旅路へと胸を膨らませるか。


 このデートの日の印象は、僕にとって長い間、一つの言葉で表されていた。

 無駄なデート歩き。


 その言葉がなんとなくおもしろかったので、ネットで英語に訳してみたことがある。

 出てきた言葉は「ウェイステッド・ウォーキング・デーティング」


 僕は今になってわかってきた。

 人生に無駄な事など何一つない、と。

               〈了〉


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ