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珈琲と紅茶の日  作者: ちわみろく
8/8

綿菓子の日

読んでくださってありがとうございました。

 翌日の朝、お昼まで寝過ごした由良は彼女が寝ている間にセイラと静流が外出していたことも知らなかった。

 お土産にチョコレートブラウニーを持って帰ってきてくれたところを見ると、二人は例の、セイラのお師匠さんの所へ行っていたらしい、と見当を付ける。

 薬の副作用は殆どないが、稀に翌日頭痛を起こす場合があると静流に言われていた。ありがたいことに、少しもその兆候は無い。たっぷり寝たせいか、爽やかな目覚めだった。

 心療内科医であるセイラの叔父に何を話したのかは全く覚えていない。意識のあるうちには、当たり障りの無い会話をしただけだったような気がする。

 ・・・セイラも静流さんから聞いてしまったのかな。

 秀との間にあったことを、恐らく全て話してしまったのだろうと思う。自分でもわかってはいたのだ。暴走の原因がそこにあることを。

 ・・・ただ、認めるのが怖かったんだよね。でもって、知られたら嫌われるかもしれないって思ってた。

 しかし、セイラは暴走した自分を救うために取るものもとりあえず飛んで来てくれた。必死で自分のためにあの冷たい海を泳いで助けてくれたのだ。

 ・・・君の事が必要だ。どうして僕じゃ駄目なのさ・・・!僕が君を好きなだけじゃ、君の生きる理由にならないの!?

 その言葉は確かに胸に響いた。

 傍にいて尽くしてくれるセイラが、本当に自分を好きでいてくれることが痛いほどに伝わった。

 ・・・優しい人だから、私を放っておけないだけなのかと思ってたのに。

 あの凍るような寒さの中で、セイラの唇だけが熱かった。口の中から体温を注ぎ入れてもらったように、そこから自意識が目覚めたのだ。温かくて、優しくて、・・・そして、息が出来ないほど強烈だった。

 セイラが本当に自分に愛情をかけてくれていることが実感できると、嬉しい気持ちと共に罪悪感も湧き上がる。秀との関係を彼は知っていたし、それを黙って見ていてくれた。傷ついていたのだと本人も言っていたのに、何も言わず、微笑んで受け入れてくれたのだ。

 だから、今、嬉しいと思ってしまう自分が、許せない。

 秀を独りで死なせておいて、自分だけがあの優しい人に愛されて幸福になろうとするなんて、許せなかった。

 その一方で、そうまで自分を思ってくれるセイラに答えないのも罪深い気がする。

 どうしていいのかわからにないのは、あの時も今も同じだった。

 秀に好きだと言われて答えられなかったあの時。あの時は、今とはまったく違う理由でどうしていいのかわからなかったのだけれど。

 好きか嫌いかを問われれば間違いなく好きなほうだ。それも、あの時と同じ。

「どうしてなのかな・・・。」

こんなわだかまりが無かったら、何の抵抗もなく彼の元へとびこんでいくだろう。自分を彼女にしたいと言ってくれた少年に二つ返事で承諾したように、即決しているはずだ。こんな願っても無い条件の相手が他にいるだろうか、いや、いない。優しくて料理が上手でしかも見た事がない程に綺麗で、そして気さくだ。ピアノが上手い事も判明した。彼のような人が自分などを好きになってくれるなんてこんな幸運が他にあるわけがない。そして、そんな幸運を無条件に手にしていいはずも無い。彼を傷つけておいて。

「お茶にしようか。ブラウニーを運んでもらったよ。」

 軽いノックの音で、三時を知らせてくれる。一つ扉の向こうで叔父と話をしていた彼は、何一つ変わらず優しく接してくれている。

「はーい。」

 明るい声で返事をして、その扉を通って行く。

 あの隠れ家で暮らしていたときも、彼は滅多なことでは彼女の私室に入ってきたりはしなかった。いつも、紳士らしく振舞っていたのは、彼がこの国で育ったからなのか。

「体調はどうだ?異常は無いかい?」

既に紅茶を口にしている静流が陽気に笑って問いかけた。

「まったくありません。」

由良も如才なく答える。

差し出された紅茶とブラウニーの乗った白い皿を受け取り、由良も椅子に腰を下ろした。

「あのね、由良ちゃん。一つ提案なんだが・・・暫くこの国で暮らしてみてはどうだろうか。」

「私が、イギリスで、ですか・・・?」

「君がこの国に着てから格段に良くなってるのは間違いないわけだし、俺も何かあったら診てやれる。」

「でも私英語出来ないし、働くことも出来ないんですよ。」

「だからさ、提案なわけ。・・・これからセイラはロンドンに戻って日本にいたときみたいに喫茶店を営業する。人を雇うのではなく、今度は本当に彼が営業するんだ。店を君が手伝ってあげるって言うのはどうだろう。」

初耳だった。セイラは帰国して再び店を経営するつもりだったのか。だから、料理の師匠のところへ通っていたのだろうか。

「英語、出来ないのに、ですか。」

「午前中は学校に通って語学を勉強しなさい。で、午後は店を手伝ってあげな。学んだことが即実践できるこの上ない環境だ。」

「で、でも・・・。」

「住む場所が決まるまで俺のうちにいるといいよ。ウチは賑やかだぜ、何せ5人もガキがいるんだからな。」

 考え込むように、手元のカップと皿を眺める。まだどちらにも手をつけていない。

「まだ、今の時点では日本に帰らないほうがいい。医師としての指示だ。」

 この国に住む。

 セイラのもう一つの故郷であり、緑の多いこの美しい国に。言葉が通じない、この国に。

 由良は助けを求めるようにセイラの方を見た。自分だけで結論を出すなんてことは出来そうに無い。静流と由良の会話の間、彼はずっと沈黙を守っていた。

「君が決めていいと思うよ?・・・僕としては、残って欲しいけどね。」

 セイラはあくまで決断は本人に委ねる。良くも悪くも、最終的に決めるのは本人なのだ。

 不安はある。イギリスに来てからまだ一週間と経っていない。どんな国なのかもそれほど理解したわけじゃないし、ジェイクのような性質の悪い人間だっていることもわかった。美しいだけの場所でないことはわかっている。何より言葉がわからないことは大きかった。

 だが、日本にいたところで、結局由良はほとんどセイラとしか会話していない日々だったのだ。彼のいない日本へ一人で帰ったところで、話相手も少ない。

「わかりました。・・・よろしくお願いします。英語苦手だけど、勉強します。」

 ほーっと、大きく溜め息をつく。それから椅子の背もたれに体重をかけた。静流は冷静そうに話していたけれど、実際は緊張していたらしい。

「よかったなぁ、セイラ。貴重な労働力が手に入って。」

「うん、助かる。早く話せるように、僕も協力して教えるよ。」

 ベッドの上に腰掛けたセイラは、冷めてしまった自分の紅茶に口をつけた。

「食べてもいい・・・?」

 手にしたブラウニーの皿を膝に乗せ、由良は二人の顔色を窺うように尋ねる。


 一泊しただけで静流はまたロンドンへ帰ってしまった。

「やっぱりお医者さんは忙しいんだね・・・。刀麻さんもいつも忙しそうだったし。」

「静流は子供のお守りだと思うけどね。彼のうち、五つ子なんだよ。シャーリー一人で面倒見るの、凄く大変なんだ。」

「そうなんだぁ。五つ子でハーフの子供達か、きっと天使みたいに可愛いんだろうな。」

くすっと笑ったセイラが付け足す。

「見た目は天使だけど、世話をする身には小悪魔さ。元気一杯で腕白らしい。」

「何歳なの?」

「4歳。シャーリーは自然妊娠できなかったんだ。排卵誘発剤のために五つ子になったんだって。きっと君もベビーシッターをやらされるよ。」

「セイラもシッターをやってたの?」

「僕は会った事がないから、ホロでしか見てないけど・・・男の子ばっかり5人もいれば、想像つくでしょう。」

「5人か・・・バスケットチーム出来るね。」

由良の提案に、セイラはまた笑った。

「夕食はどうしよう?今日はルームサービスでも取る?」

「そうだね・・・毎晩あそこで食べるのは、美味しいけどちょっと緊張しちゃってたからな。」

 ベッドの上においてあった端末から、すぐに彼が注文を取った。

「・・・ありがとう。」

 掠れる声が、まるで震えるように由良の方へ届く。

「え?何が?」

 礼を言われるようなことをした覚えのない彼女が、聞き返した。



 それから一ヶ月ほど経つと、由良は静流に一人で部屋を借りて住むことを許された。

「・・・イアンやジョイ達と離れるの寂しいから、ずっと静流さんの所にいたかったんだけどな。」

 職場であるセイラのカフェと、通っている語学学校から程近い小さな部屋フラットを用意してもらった由良は、少し不服そうにそう呟く。

「阿呆か。この国は個人主義の国だ。独り立ちしなさい。」

 引っ越すといっても荷物などろくにない由良は、日本を出たときのスーツケース一つだけを持って新しい部屋の鍵を握る。

 小さなワンルームとはいっても、家具から設備から一通り揃っている。路地から入ってすぐの二階にあるその部屋は、赤い煉瓦の壁だった。立ち並ぶ住宅のなかでも、その色は目立つ。備え付けのベッドに調理器具、ユニットバスや洗面所を一つ一つ点検して回る。クローゼットに、スーツケースを突っ込むと、由良はすぐにシングルベッドに横になった。

 ・・・これで、本当の一人になっちゃった。

 静流の家は賑やかだった。五つ子の男子が館狭しとそこら中をいつも駆け回っていて、休まる暇もない。

 四歳児なので彼らの英語もカタコトだし、由良もカタコトだったので、通じ合っているような気がしたものだ。そのおかげで、わずかな間に、簡単な日常会話くらいはどうにか理解できるようになっていた。

 五つ子の中でもお気に入りだったのはもっとも腕白で暴れん坊のイアンと、一番大人しかったジョイ。他に、トーマス、リチャード、アンディと男の子ばかり。サワタリ夫妻が診療で忙しく余り構ってやれなかったせいか、彼らは相手をしてくれる由良にとても懐いた。セイラが迎えに来るたびに、由良をどこかへ隠そうとするほどである。

「セイラ、嫌い。ユラを連れてっちゃうから。」

アンディが泣きそうな顔でセイラを見上げる。四歳児に嫌われて少なからずショックな彼は、それ以来必ず手土産を持ってくるようになった。

そんなことがあったくらいに、由良は子供達に好かれ、静流の家で楽しく過ごしていたのだ。引っ越すと聞けばわあわあ泣き出すことが予想されたので、何も言わずに出てきてしまった。きっと今頃は由良がいないことに気がついて、騒いでいるだろう。

 セイラはロンドン市内の学生街でこじんまりとしたカフェを営業する。元々あったその店は彼の母親のもので、一階を店舗に、二階を住居にしている。今となっては職場となった彼の店に初めて入った日、由良は驚いた。日本にあった彼の喫茶店と内装も店構えも殆ど一緒だったからだ。

「そう。日本の方は、ここを見本に作ったんだ。だからそっくりでしょ。」

どことなくレトロな内装は彼か、彼の母親の趣味なのか。由良はそれが嫌いではない。なんとなく落ち着く気がするからだ。

 開店した日から少しずつ客は増えて、さらに一ヶ月もたてば経営も軌道に乗るだろう。由良も接客に慣れてきた。仕事で使うだけに英語の習得は早い。午前中に通う語学学校でも近頃はようやく話が通じるレベルになり、仲のいい友達と呼べるクラスメートが出来た。

 心配していた暴走もあれから一度も無く、徘徊も、悪夢にうなされることもすっかり無くなってしまった。毎日の忙しさに紛れ、自分が実は患者であることさえ忘れそうになる。

 イギリスに来てから、初めて一人であることを実感してベッドに蹲った彼女は突然跳ね起きた。フラットの玄関口のブザーが鳴ったのだ。

 確認もせずに鍵を開けてドアをあける。

 そこには白やピンクの花を手にした金髪の青年が立っていた。

「セイラ。もう、遊びに来てくれたの?まだ何もしてないんだよ。鍵を受け取っただけで・・・。」

それでも彼が来てくれたことが嬉しくて、由良の表情が明るくなる。彼が手にしている花束に気がついた。それに、今日のセイラはいつもよりとても甘い匂いがする。

「お引越しのお祝いもしなくちゃ、と思ってね。ホラ、これはお祝いのプレゼントだよ。」

「お店の方はいいの・・・?」

「今日は臨時休業。君の大事な日なんだからね。受け取ってくれる?」

「ありがとう。お花貰ったのなんて、初めて・・・って、アレ!?」

 何も無い、殺風景な部屋だけれどもとりあえず客人を通すことにする。

 いつものように白シャツに濃いブルーのジーンズ姿のセイラは、花束を手渡すと、彼女の新居を見回した。

「小さいけど、悪くないね。・・・設備もしっかりしてるし。」

「ね、セイラ、このお花、ひょっとして・・・」

「そう。コットンキャンディ。可愛いでしょう。食いしん坊の君にピッタリだと思って買ってきたの。」

 綿菓子を食紅で染めたものをブーケ風にラッピングしてある。それだけですっかり騙されそうになったが、思わぬプレゼントに由良は笑った。

「うん、凄く嬉しい。見た目もいいし、美味しいし、凄く得した気分。」

「今日は、デートに誘いに来たんだ。」

花束を持っていない方の手を、セイラが持ち上げた。その手の甲を自分の唇に近づけて軽くキスをする。

 王子様然としたその動作に、由良は真っ赤になった。

「デート、ですか?」

「やっと静流からお許しが出たんだ。・・・君が独立したってことは、もう口説いてもいいってことだからね。」

「え・・・。」

 にっこりと笑って、彼は由良の顔を見つめる。凝視されて、照れた由良は一度視線をはずすが、再び彼の青い目を見上げた。

「僕とお付き合いしてください。・・・ずっと君が好きだったんだ。僕の恋人になって。」

 そう告げると、花束から一つピンクの花を摘んで由良の口に入れる。

 突然の口説き文句に驚いて半開きになっていた口に綿菓子を放り込まれた彼女は、砂糖の甘さを噛みしめる。そうしていると、本当に幸せそうだ。

 口の中の砂糖が溶けても、由良は返事に困っているようで何も言えずにいた。

 由良の中にまだ残る罪悪感が、そうさせているのだ。

「いいんだ、わかってる。返事はすぐじゃなくてもいい・・・。ただ今日は、これだけは許して欲しいな。」

彼女が返事を躊躇う理由が理解できるセイラは、答えられない由良を責めたりしない。

 ただ、優しく、甘いキスをするだけ。

 ひょっとしたら、また逆上して暴れるかもしれない。彼女が暴れだしたら手がつけられないことを知っているセイラは、そういう意味では緊張感を持っている。

 ・・・殴られようが、蹴られようが、かまわない。

 花束を抱いたままの由良をそっと抱き寄せて静かに、ゆっくりと唇を重ねた。

 一瞬だけ、由良がびくりと痙攣する。

 でも、それだけで。

 見開いていた目がゆっくりと閉じられ、セイラに握られていた手のひらが力を失う。キスをしている間、一度も彼女は抵抗することもなく。

「・・・甘い、ね。」

コットンキャンディの甘さの残る彼女の小さな唇を、心行くまで堪能したセイラが、掠れた声で呟いた。

由良は力が抜けたようにセイラの胸にもたれかかった。放心したようなぼんやり顔だ。

「デートしてくれる?」

 彼の白い手が由良の髪を優しく撫でる。

 覚えのある、その感触。

 暫くその心地よさに酔っていた由良は、やがてぼそぼそと頷いた。

「いいよ。デートくらい、出来るよ・・・多分。」

 まだ、迷いは消えていないけれど。

 セイラのキスは余りにも甘くて、溶けそうで。

 こんなキスをまたして欲しいと、思い始めていた。

紆余曲折のあと、どうにか二人はまとまりそうな。

そんな雰囲気で終わりたいと思います。


読んでくださってありがとうございました。

感想をいただけたら嬉しいです。

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