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珈琲と紅茶の日  作者: ちわみろく
5/8

塩辛いキスの日

夢見ていたのはスイーツのように甘いキスでしたが。

 高級療養地の一角で、ホテルから連絡を受けたセイラは顔色をなくした。

『・・・ここからなら、エアバイクが一番速いわ。』

 客用のだだっ広い応接室。大きなテラスに白いカーテンが潮風になびく様が美しい。

 セイラをもてなしていたこの館の主人が、優しく告げる。

『海の方へ駆け出したって・・・、発信機は場所を動いていない。奪われたのか。』

左腕に装着していた小型端末に、発信機の場所が表示される。セイラには翻訳機は必要ないのだ。彼女の方の通信端末へいくら通信を送っても反応はない。

『海兵隊へ連絡しておきましょうか?』

『念のため、お願いします。単車はすぐに出せますか。僕は免許はないけど、動かすだけなら・・・』

応接室にいた執事が、軽く頭を下げる。

『ご案内いたします。どうぞ、セイラ様。』

『すまない。』

白髪の執事に促されて、セイラはその場を後にした。

 テーブルの上の紅茶をろくに飲んでもいない。彼のために用意されたブランデーケーキは、手をつけてさえいなかった。それらの片づけをメイドに命じてから、この館の主人は鷹揚にと笑う。

『セイラがあんなに慌てていくなんて。・・・よっぽどの事なのですね。』

 水色の制服を着たメイドが、同様に笑った。

『ロンドンの本部に連絡を。私の愛息子の一大事ですもの、そのくらいはしないとね。』

『セイラ様はそこまでは・・・お望みではないのでは。』

困ったように意見を伝えたメイドは、主人の人の悪そうな笑顔に嘆息する。

『騒ぎを大きくした方がいいのですよ。その方がセイラは困るでしょうしね。』

『まあ、ひどい方ですのね。』

『長年私達を放ったらかしていた報いですよ。せいぜい困らせてやりましょう。うふふふ。・・・それから、シズル・サワタリにも迎えを出して差し上げて。断れないぐらい、大仰にね。』

『かしこまりました。お館様。』


 砂に足を取られて、思うように走れない。邪魔としか思えなくなったスニーカーを脱ぎ捨てて、裸足になった。

 海が近付く。うねりを上げて寄せる波が繰り返し繰り返し海岸を浸食していく。

 由良の足は止まることなくそのまま海の中へ進んだ。冷たい水に、鳥肌が立つ。それでも、彼女は躊躇しなかった。

イギリスの南側にはメキシコ湾流という暖流があるため、冬でも比較的温かいのが特徴だが、それでも水泳に向く水温ではない。ウェットスーツさえ着ていない、ただの私服の彼女が海に入れば命はない。

 しかも、由良は泳げないのだ。

 スポーツ万能と言っていいほど運動能力に自信のある彼女だったが、泳ぐことは出来なかった。幼い頃から水泳をする機会に殆ど恵まれなかったせいである。水を恐れているわけではないが、泳げない。

 エアバイクに乗ってきたセイラが、空の上からホテルのプライベートビーチを確認して海岸沿いを探した。冬の海を散歩する人はいても、海に入ろうという人間はまずいない。いるとしたら、それは・・・

「いたっ!」

 彼女が上半身まで水に浸かっている姿を見つけた。

 こんな上空からでは定かではないが、恐らく正気ではないのだろう。でなければこの寒いのに、海になど入る気になれるはずがない。下手をすれば心臓麻痺を起こしてしまう。

 出来るだけ彼女の近くまで降りて単車を止めた。上手に静かに着陸させるほどの腕がないので、少々乱暴になってしまい、近くを歩く人を騒がせてしまった。

『すみません。お騒がせを。』

申し訳なさそうにそう言って、セイラは由良の姿を探す。まだ見えるはずだった。

 波間に漂うように見え隠れする彼女の姿は、もう少しで顔まで水が浸かりそうだ。セイラは上着だけを脱いで砂浜に投げ捨てた。彼女の後を追って走り出す。

 警察やホテルの警備の人間が彼女を探してくれているはずだが、恐らく見つけたのはセイラが一番早いはずだ。庭園で暴れる彼女の方を犯罪者と間違えていたのだろう。足の速い彼女をあっと言う間に見失ってしまったようだった。単車を乗り捨て、彼の上着が置いてあれば、その近くであることが彼らにもわかるはずだった。

 今は一刻も早く彼女を水から出さなければ、溺死、もしくは心臓麻痺で死んでしまう。

「由良ちゃん!待って、行かないで!それ以上進まないで、死んでしまうよ!」

声を限りに叫んでも、由良には聞こえていない。

 水の中を歩いていてはとても追いつけない。セイラは仕方なく泳ぎ始めた。水温の低さに全身が震える。それでも彼は無理矢理全身を動かした。彼女のまでの距離がひどく遠く思える。やっと追いついたときには、彼女の身長では背が立たなくなるような深さに達していた。

「由良ちゃん!由良ちゃん、しっかりして!戻るよ!」

「・・・いや。戻らない。」

「由良ちゃん・・・」

「もう、いない。誰もいない。秀さんはどこにもいない・・・たった一人で死なせてしまったから。私が、私が殺したんだ。私が彼を一人にしたから。あの時彼を拒んだから。だからあんなに怒って・・・私を見捨ててしまった。」

 少しでも浅瀬の方へと移動できるよう、精一杯彼女の身体を動かそうとする。海水で全身が濡れそぼった彼女はもう殆ど手足を動かしていないようだった。底に足がつかず、低温のために感覚が薄れているのだろう。

「私だけが生き残って、なんになるって言うの。誰も私の事なんか必要じゃない。・・・私だけが生きているなんておかしいよ。彼を死なせたのに、私だけが生きるなんて。」

「やめて!そんなこと言わないで。君の事が必要だ。どうして僕じゃ駄目なのさ・・・!僕が君を好きなだけじゃ、君の生きる理由にならないの!?」

「私には、貴方に好きになってもらう資格なんかない・・・。」

 なんてひどいことを言うのだろう。

 彼女が正気じゃないとわかっていなかったから、横っ面をひっぱたいてやりたいくらいだ。

 せっかくあんなに明るくなったのに。あんなに嬉しそうに、あんなに楽しそうにしていたのに。うなされることもなくなり、セイラが傍らにいる事にも慣れ、以前のように仲良く出来るようになったのに。

 こんなに暴走させてしまうなんて。治りかけていた彼女を、こんなふうにしてしまって。こんなことを言わせるようにして。

 悔しさと怒りでどうにかなりそうだった。

 昨日彼女からきいた不審人物の事を気にかけてはいたのだ。

 だから、調査を頼むこともあって、出かけてしまったのだけれど、それが仇になってしまうとは。

 武器を持たせれば滅多なことでは負けない彼女だけれど。暴走のきっかけとなるのは案外たやすいことだったのかもしれない。

「・・・あの人を死なせた私に、生きてる資格はない・・・。」

 うわごとのように呟く由良。

 その言葉も海水が口にはいるため、おぼつかなくなっている。口や顔の色が悪い。

 浅瀬へ移動しているつもりなのに、潮の流れのせいか沖の方へ流されている気がした。

「やめて。お願いだから、そんなひどいことを言わないで・・・!!」

 もうそれ以上、由良の言葉を聞けなかった。

 正気でないのがわかっていても、許せないことはあるのだ。

 多くのものを、愛する人を失ったのは彼女だけではない。セイラだってそうなのだ。

 最愛の姉。親友だと思っていた流河と秀。彼女と同じように失ったことは辛い。辛くて悲しいのだ。この上まだ誰かを失うというのか。ずっと好きだった由良までも。

 海水に浮き沈みしながら、思い余ったようにセイラが彼女の口を塞ぐ。

 ・・・こんな、こんなの・・・!!

 自分の唇を押し付けて、由良の口を塞いだ。冷たくて芯まで冷え切っているような彼女の肌。塩辛い舌。

 ・・・あれほど、甘い口付けを夢みていたのに。

 温かいセイラの舌が口の中をなぞった。冷え切っていた由良の身体にかすかに熱がともる。海水の上に浮上した瞬間に口を離すと、酷く咳き込んだ。わずかに彼女が顔を振って、目の前の、濡れそぼった金髪の青年を認める。

 何かを言おうと口を開いた瞬間に、セイラは再び由良の唇を塞いだ。もう何も言わせたくなかったのだ。

 冷え切って紫色になりかけていた由良の唇に血の色が登る。白くなっていた顔がわずかに紅潮する。それに気付かず、セイラは何度も口付けを繰り返した。

「・・・もう、もう、許して、セイラ・・・!本当に、息が出来ないよっ!」

 やっと口を離して空気中でそれだけを言った由良。

 そう言われて、ようやく彼女が正気に戻っていることに気がついた。そう言えば、いつのまにか由良の両手はセイラの肩につかまるように触れている。泳げない彼女はしがみつく以外に助かる方法がわからない。

「あ、ああ・・・よかった。よかった・・・!!」

 青い目を細くして、安堵したように笑う。

 思わず彼女を抱きしめる。正気に戻っている彼女は、素直にセイラにしがみついたまま照れくさそうに苦笑していた。

 ふっと、辺りがまぶしくなる。ライトか何かがあてられた様に、わずかに温かさも感じられる。

 セイラは周囲を見回した。由良に夢中で気がつかなったのだ。

 もうすぐにも手が届くというような近距離に救命用ボートが4台近付いてきていた。水兵の制服を着た乗組員がにやにやと笑いながらライフジャケットを投げつけてくる。

『ひゅーっ!!あっついねぇ!お二人さん!!』

『もっとやれよーっ!もっと見せ付けてぇ~っ!!』

 ヤジを言いつつ囃し立てる水兵たちのボートが一台、二人の傍へ寄ってきた。

 手を貸してもらいながら、ボートに乗せてもらう。

 なんて言っているのかはわからなくても、囃し立てられていることだけはわかる由良は、真っ赤になって両手で顔を隠した。そんな彼女に、若い水兵が大きなタオルケットを背中にかけてやる。

 セイラも照れくさそうに苦笑しながらボートの上からもう一度周囲の海を見渡した。ボートからはるか沖よりに、巨大な戦艦が浮かんでいるのが見え、思わず目を擦ってもう一度そちらを凝視する。それから、ボートの乗組員の肩の勲章を凝視し、制服のトレードマークを見る。

『・・・ま、さか、ロイヤル・ネイビー・・・?』

『イエス・サー』

 赤毛の兵士は、愛想よく敬礼して見せた。

『彼女は、海兵隊を呼ぶって・・・!』

『本部から要請がありました。セイラ様。ご無事で何より。』

 そっとタオルケットを肩からかけてくれた水兵の階級章は、セイラの知る限り、中佐クラス。

「・・・こんな、大げさな・・・なんて大げさなものを呼んでくれたんだ・・・。」

 困り顔のセイラを、由良はいぶかしそうにタオルの影から見つめていた。


 海軍の沿岸海兵隊に救われた二人はそのまま救急病院へ搬送される。意識ははっきりしているとは言え、この季節に海に飛込んだのだ。病院で精密検査を受けさせられ、療養のためその日は泊りでの滞在を義務付けられる。

 病院での扱いも丁重すぎるほどで、まるでVIP待遇。特別室に通される。柔らかな絨毯に立派な応接ソファ。キングサイズに見える大きなベッドが二つ並べられていた。セイラも由良も遠慮したくても出来ない。

 ・・・ただ一人の外国人を海難事故から救うために英国王立海軍を動かしたなんて・・・どう言い訳したら。

怖くて何一つ意見など出来なかった。

「セイラ、どうしたの?なんか、凄く、その顔色が優れないっていうか、なんて言うか。」

 温かくしてもらって着替えさせてもらい、ぬくぬくした贅沢な特別室で美味しい病院食を頂いている由良の、何も考えていないようなお気楽な表情が羨ましかった。

「いや、・・・なんでもないよ。」

 何も知らない彼女には、ことの重大さなど理解できない。無理に知らせるつもりもなかった。

「怒ってるの?・・・飛び出してしまったことを。言いつけを守れなくて、ごめんなさい。」

 食事のプレートを下げに来た看護士が部屋を出て行くと、由良がぽつりと謝った。

「君が暴走するようなことあったんだね。・・・何があったの。」

 窓の外を見るととっぷり日が暮れている。イギリスの冬の夜は長いのだ。日本よりもずっと早く日が暮れる。

 彼女が再び口を開こうとしたとき、特別室のドアが開いた。ノックもなしだ。

静流しずる・・・!!」

唐突に現れた白衣の男は、明らかにこの病院の医師ではない。栗色の髪に茶色の瞳、顔立ちは東洋系で、どこかで見たことがあるような気がした。

「6年ぶりだな、セイラ。会いたかったぜ!」

「僕もだよ。懐かしい・・・!」

 挨拶もなくセイラの肩をしっかりと抱いた。セイラも嬉しそうにしっかりと抱き返す。

「静流、ごめん、僕は、君に言わなくちゃいけないことが・・・。」

再会の喜びもそこそこに、セイラは表情を曇らせて白衣の男に頭を下げる。

「鈴奈のことは聞いている。・・・お前も辛かったな、セイラ。よく、がんばったじゃないか。すっかり一人前だな。」

「ごめんなさい、僕は姉を止められなかった。鈴奈ちゃんを・・・。」

「あれがお前の言う事なんざ聞くようなタマか。いいんだ、お前はよくやった。鈴奈は好きなように生きたんだから、お前が気にすることはない。よく戻って来てくれたな、待っていたぞ。」

 優しく諭すように医師は言いながら、自分よりも背の高い金髪の青年の肩を抱きしめてやる。何度も優しく背中を撫でた。

 二人の様子を見ていれば、由良にもどんな関係なのかはおおよそ検討がつく。この医師は、セイラと鈴奈姉弟の近い身内なのだろう。この国で、二人の帰りを待っていたのかもしれない。

 

現れた医師は、セイラの身内です。

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