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オキサイドwith

作者: シン

「初めまして――」


 何度目の初めましてだろうか。

 何人目の「彼」だろうか。


 彼は何度でも甦る。私の手で甦る。

 そして、その度に彼は言うのだ。


「ああ、初めまして。ところで、何か着るものはないかな?」


 培養液から生まれたことなど気にも留めないで、何でもない風に。だから私はその度に、同じ服を渡すのだ。


「ええ、これがあなたの服です」


 綺麗な水色のシャツと、真っ白なズボンを。これが、私が知るなかで一番彼らしい組み合わせだから。

 服の袖に腕を通した彼に私は言う。


「さて、ミスター・ゴコク。あなたに頼みがあります。この世界を、救ってください」


 ゴコクは頭を掻いた。日本人らしい細いタレ目、尖ったアゴ、そして、情けない表情。捨てられた犬みたいな姿でゴコクは答えた。


「参ったなぁ。やっぱり生きている」

「どういうことですか?」

「気にしないで。こっちのことだ」


 私はカーテンを開いた。居住空間と一体化したラボから見える景色は――何もなかった。青い空、無限に続くゴツゴツの赤茶けた大地。ただ、それだけ。


「わぁ、綺麗だなあ」


 無邪気な声をあげる彼に私は眉をひそめた。


「そのうち飽きるわ。だって、この研究所の外は、その景色しかないのだから」

「この研究所にいるのは貴女だけ?」

「ええ」


 二〇畳一間のこの建物、それだけがこの錆色の大地に残された唯一の人工物だ。

 私は液体窒素で満たされたタンクを叩いた。


「他の人類なら、ここにいるわ」

「なるほど」


 ゴコクは目を丸くした。


「貴女が最後の生き残り、ってことか」

「ええ、みな暗褐色の液体になって溶けていったわ。一掬いの細胞だけ残してね」

「寂しくはないのかい?」

「わからない。もうわからなくなってしまったわ」


 私は立ち上がり、机の上の端末を手に取った。


「あなたもこの現象を知っているはずよ。二〇三〇年のまま、時を止めたあなたなら覚えているはず。その当時に始まったこの現象を」

「オキサイド、か」


 オキサイド。和訳すれば「酸化した物」。

 酸化はオキサイドが発生するまでも、生活に根差した身近な現象だった。呼吸だって酸化の一つだし、燃焼も酸化の一つだ。錆びもそう。当たり前にあることで、使い方次第で便利に扱える現象だった。

 だったのだ。


 ところが、二〇三〇年を境に、酸化は暴走した。

 本来ならたくさんのエネルギーが必要なはずの酸化が、何もなくても起こるようになった。

 鉄はみるみるうちに錆に包まれて崩れ落ちた。人は肌から酸化されて二酸化炭素になり、血液は酸化鉄になり、骨は酸化カルシウムになって、ドロドロに溶けていった。


 諦める者、足掻く者、未来へと託す者。

 世界中で多くの道が模索され、そして、私一人とこの研究所だけが生き残った。しかし、所詮私はクローンの専門家。オキサイドについての研究は遅々として進まない。

 そこで呼び出したのが、ゴコクだ。五年前、二〇三〇年当時、世界最高の頭脳を持つと言われた化学者。

 安全な空気が確保された、この研究所に辿り着くことは叶わず、遺伝子だけ残して溶けた一人。


「今までの研究データは全て端末に入ってる。読み終えたら、早速研究に取りかかってほしい」

「りょーかいっと」


 ゴコクは生み出され、研究をさせられることに疑問を抱かない。彼に再現される記憶がいつのものかはわからないが、嫌な思いはしないのだろうか。何もない世界に、研究のためだけに、まるで工業製品のように生み出される。私なら、嫌だ。


 一日目はデータを読み返すだけで終わる。最初にゴコクを呼び出したときは一時間で終わった作業に、一二倍の時間がかかるようになっている。全て、ゴコクが積み上げた成果だ。私に出来ることは、ゴコクのバイタルチェックをすることだけ。

 寄生虫みたいだ。


 二日目。

 ゴコクは細い脚を組んで、窓の外を眺めていた。無造作に投げ出された手の先には、薄く血が滲んでいる。もう、体の崩壊は始まっている。

 人工の命である彼の寿命は、長くない。


「外の酸素は、もう薄くなってるはずだよなぁ」

「そうね、オキサイドで使われてしまったから。でも、人を溶かすくらいの濃度はあるわ。だいたい八%くらいかしら」

「生物が生きていくことも難しい、実にいやらしい濃度だね。まぁ、変化は起きているようだけど」


 生き物が生きていくためには酸素がいる。しかし、その酸素は生き物を確実に殺す。哀れな水牛に群がるピラニアのように、瞬時に食い荒らす。そしてそのせいで酸素濃度が低くなる。救いのない連鎖だ。


「解決することは出来ないの?」

「まぁ、出来る限りのことはするよ」


 ゴコクはそれきり黙ってしまった。話しかけることがためらわれるほど集中して、なにかを考えていた。見慣れたその表情に、なぜか私は安心感を得るのだった。

 夜、二段ベッドの上の階から彼が話しかけてきた。


「貴女は」

「ん?」

「貴女には夢はあるのかい?」

「二〇三〇年のあの日失われたものを、全て取り戻すことよ」

「そっか」


 そっか、で終わり。興味の無さそうな声色に少し腹が立って、私は問い返した。


「あなたこそ夢はあるの?」

「そうだね……しいていうなら、貴女の夢が叶うことかな」


 不意打ちだった。

 私も黙り混む。そんな……寂しそうな声で言わないで欲しい。


 三日目。

 ゴコクはまた、結論に辿り着いた。


「酸素の組成に、明確な変化が起きている。強酸化酸素と弱酸化酸素の二種類の酸素があることがわかった。弱酸化酸素、つまり、昔みたいな酸素が混ざり始めている」


 私は黙って聞いていた。


「条件を調べたところ、水中の有機物を酸化したときに、元の酸素に戻るみたいなんだ。このとき、酸化カルシウムが触媒になる。現在の酸素濃度八%のうち、元の酸素の割合は八〇%。酸素濃度は薄いけど、もとの世界に戻るにはあとちょっとだ」

「でも、その有機物も、酸化カルシウムも残っていないわ」


 彼は爪のはがれた人差し指を自分に向けた。


「ここに、あるじゃないか」


 私は首を振る。


「できない、それに量が足りないわ」

「いいや、十分だよ。植物の遺伝子も残っているんだろう? 僕を苗床にして、培養ではない命を育むんだ。この研究所の中の空気だって、そうやって作られたんだろう?」

「いつから気づいていたの?」

「昨日、端末のデータを読んでいたら気づいた。本当に、この研究所を企画した人は嫌な性格をしているよ」


 オキサイドがじわじわと進む世界にあって、閉鎖環境で人が死んだときに、その環境の中で正常な酸素が観測されることを発見した化学者がいたらしい。

 彼はさらに、酸化カルシウムは触媒となるが、別の反応経路により消費されることを発見。

 そして、小さな研究所を設立。そこに一縷の望みをかけた生物学者を集め、閉鎖した。研究データを残し、そして、たった一つのマニュアルを伝えて。


「生き残った者は、まずゴコクを作ること。作ったゴコクが死ぬときは、決して止めないこと」


 崩れ行く体に怯えながらも、集まった学者たちは己の知恵を、もっとも若くてもっとも酸化が遅かった私に授けた。

 彼らは酸素を作り替え、そして、液体になった。生き残った私はマニュアルに従い、ひたすらゴコクを作り出した。


「本当に、それしか選択肢はないの?」

「いや、今はこれだけ、ってだけだよ。いつか、安定してたくさんの酸素を用意できるようになったら、化石燃料と水、石灰を焼いた酸化カルシウムで大規模に反応を起こしてくれ。それから、ランソウ類から始まり、地球の歴史を辿るように植物を増やしていくんだ」


 彼は窓のない側の壁に視線をやった。


「酸化カルシウムの触媒性が消費される反応系がわかった。四酸化三鉄と、強酸化酸素がカルシウムと格子化するんだ。血抜きをすれば、今回の僕の骨はいくらでも使い回せるようになるはずだ。植物を育て、その体を分解し、環境を整えてまた植物を育てられる」


 自分が死ぬとは思っていないような、軽い口調。さらに、同じ調子で戦慄するような事実を突いた。


「今までの僕のクローンとは違ってね」


 私は床にへたり込んだ。


「どうして、平然としていられるの。どうして、そんな風に言えるの?」

「僕自身が決めたことだから。それに、貴女は僕の死から目を逸らさずにデータを残してくれた。僕の命は無駄にならなかった」


 ゴコクは服を脱ぐ。


「貴女には酷な作業を頼むことになる。けど、見送るのはこれで最後だ。今までありがとう」


 ゴコクはやると決めたら止まらない。そんな彼だからこそ、平然と自分を実験台にしてこれまでのデータをとってきた。

 彼を作ること、彼を見送ること。彼が彼の役割を果たすなら、私も私の役割を果たさなければならないだろう。


「一つだけ、訊いてもいいかしら?」

「どうぞ」

「もう一度、二〇三〇年が来たとき、あなたはそこにいたい?」

「もちろん。あ、でも貴女一人がお婆ちゃんだったら寂しいから、僕はお爺さんの姿で作ってよ」

「意味がわからないよ……」


 彼は手を広げて笑った。

 私も釣られて笑ってしまった。


「それじゃあ、次会うのは二〇三〇年だ。またね」

「またね」


 本当に、この研究所を企画した人は嫌な性格をしている。私に辛い役割を押し付けて、それでいて自分は笑顔でもっと辛い役割を背負うのだ。引き留められないじゃない。

 たった一人の天才は、その身をもって世界を救うのだろう。参ったなぁ、なんてガラスケースの中でぼやきながら。


 それじゃあ、またね。

 私は必ず、あなたを、あなたが救った世界に送り届けるから。

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