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プロローグ (2)

「ま、省みれば、少々大人気なかったかな」


 過去のやらかしを反省しつつ、しかし今のラヴェリータは至福の面持ちでいる。

 250ミリ缶にも満たぬガラスの容器。

 添い寝する恋人を撫で擦るかのように愛おしげに、手元だけは慎重に、容器の蓋を外す。


 ぱぁっと、ラヴェリータの表情が艶やかさを増した。

 さながら野の花の香りを楽しんでいるふうでもある。


「……ああ、この瞬間をどんなに待ち侘びたか」


 いっそ内なる声に従ってこのままラッパ飲みといきたいところだが、医療容器に直接口づけというのはさすがに行儀がよろしくない。情緒もないし、贈ってくれた彼にも失礼だ。


 酒棚から高そうなワイングラスを取り出し、中に液体を注ぎ入れる。

 微かなまろみを感じさせる鮮やかな色艶。切れ目のない深紅の滝は、シャンデリアの明かりに煌めいている


「……さて、では、いただこうか」


 両手の指を組み、その命の恵みに、恵みをもたらしてくれた記憶の中の少年に感謝を捧げる。

 半分程度入れられたグラスを持ち上げ、口づけ、そして指を傾ける。

 わずかに口に含み、舌を動かしてその全てを感じとり――そっと飲み干す。


「…………あぁ、……何という」


 溜め息ものの美味。言葉で形容することが暴挙に感じられるほどの。

 舌に残るのは豊潤な甘味と喧嘩しない程度の酸味。

 喉を伝う都度に、体中の細胞の一つ一つが目覚めるかのようだ。

 今の今まで抑えつけていた衝動が一瞬にして満足感に昇華され、体の隅々にまで力が漲っていく。


「……はぁ、……生きてて、よかった」


 不死者たる少女にそんな矛盾を口走らせてしまうくらいに、それは奇跡的な逸品だった。

 もしワインのように格付けするならばAAAであること疑いなしだとラヴェリータは心から思った。

 童であった彼も今や15歳。

 スナック菓子やファーストフード。あるいは不規則な間食夜食に毒され、とっくに体内が穢れていてもおかしくない年頃だ。

 にもかかわらず、


「あやつめ。もしや前世が聖女とかであったわけではあるまいな?」


 そんな戯けた疑問を抱いてしまうほど、彼が提供する血液には、背徳に満ちた体を浄化せしめんばかりの清らかさが秘められていた。

 それすなわち、遠い国にいる彼の不断の努力と、注意力と、生命力の賜物である。



 *



 継続は力なりという言葉がある。

 よく引き合いに出される教訓とは、裏返せば人がひどく不得手としている行為であろう。

 急がば回れ。だが人は近道を好む。

 二兎を追って一兎を得ず。だが人はより多くの利を貪ろうとする。

 人の飽きについても古今東西枚挙に暇なく、しかも彼はまだあどけなさを残す子供だった。

 だから上司とお局OLの不倫のごとく、端から終わる関係だと信じて疑わなかった。

 どうせ途中で投げ出したくなり、逃げ出したくなり、音信不通になるだろう。

 そうと見越していながら、だがその契約は結ばれた。

 偽りと裏切りを知り、戯言と駆け引きに長じている自負を持つ少女をして、彼の申し出は魅力的に過ぎたのだ。


 これは結果論になるが、配達がいつ途絶えようとも報復に打って出るなどという大人気ない真似をするつもりはさらさらなかった。

 いつ約束が反故されてもいいよう、心に堅固な防壁を拵えていた。

 はたして、初期の懸念は年度が更新されたことで杞憂に終わった。

 一年余りが過ぎてから、容器入りのケースに簡素なメッセージカードが添えられるようになった。

 その内容は手紙というにはたどたどしく、幼稚園児同士の会話のように脈絡がなかった。

 英語の授業が段々難しくなってきたので、勉強を兼ねて書き始めたらしい。

 いかにも大人ぶった感のある背伸びに呆れつつも微笑ましくあり、やれやれ仕方あるまいと返事を書き殴ってやることにした。

 それでも、いつか来るだろう決別への心構えは忘れていなかった。


 文通も三年目に入ると、メッセージカードにはしばしば日常的なことが綴られるようになった。

 少年の英語力は順調に底上げされているようで、それが自分との交流のおかげだという一文を読んだ時には、何とも言えぬ面映ゆさを感じた。

 いつからか少女の文面もそれとなく手紙を催促するものとなり、机に向かう回数は日を追うごとに増えていき、赤字で添削する箇所が日を追うごとに少なくなっていった。

 文通の費用をこちらで持つことを提案してからは、その負担を詫びる手紙が送られてきた後で、エア・メールのみ一週間おきに届くようになった。

 どうやら予算的にかなり無理を重ねていたらしい。

 懐事情を明かさなかったことを表向き詰りつつ、内心では言いようのない嬉しさを覚えた。

 今や荷物だけでなく、彼の返事をも待ちわびている自分がいた。

 書斎の机の脇には、一枚たりとも紛失してはならぬとばかりに、通販で取り寄せたレターボックスが設置されている有様である。


 そして四年目も半ばに入った現在。

 どうやら妹御が反抗期に入ってどう接すればいいのか困っているらしい。

 反抗期のスペルの綴りが間違っていたので、早速訂正を入れてやらねばなるまい。

 などと頭を巡らせている自分にラヴェリータは半ば呆れ、半ば心地よさを感じている。

 もはや、自覚症状を覚えるほどに重症、末期も末期だった。

 ろくに触ったこともないパソコンを習い、少年の奨めに従ってチャットなるものを始めるべきかなどと。でも音声入りは少々抵抗があるのだが、などと真剣に悩んでしまうくらいには。


 楽しい時は早く過ぎるというが、ラヴェリータにとってはむしろ逆だった。

 二度にわたる世界大戦以降は加速する一方だったはずの年月が、文通を始めてからはさながら緩やかな大河である。

 何気ない手紙のやり取りが楽しく、時に苛立たしく、年甲斐もなく一喜一憂した。

 そしてある日――


 いつもの朝と同じように僕が用意した紅茶を啜ろうとしたその時、赤い水面に映る己の楽しげな顔を見て、気づいた。気づいてしまった。

 恋患いとか嫉妬とか、そういう類のものではない。

 もし今になって、あの日の契約を反故にされてしまったら、彼を許せないかもしれないという不安。

 ある種もっとも純粋で、もっとも醜悪な想い、変化への拒絶だった。


 胸の内で膨れ上がる感情に、ラヴェリータは戸惑うばかりだった。

 始まりの日から今に至るまで、彼は献身的に自分を支えてくれていると言ってよかった。

 感謝の念が日増しに大きくなる一方、裏切られたときの反動までもが肥大化していくのをつぶさに感じ取っていた。


 常人とは比較にならぬほど直感力に優れていた彼女がそのような恐れを抱いたということは、一つの未来を暗示しているに他ならなかった。

 終わりが来るのだ。

 近いうちに必ず。

 世の必然、少女が遥か昔に打ち捨てた人の理。

 誰だって年頃には恋をして、失恋もして、大切な人ができて、大人になっていく。

 契約を期に志したはずの堅固な防壁は、今や朽ち錆びてボロボロになっていた。

 いつ終わるとも知れぬ関係を、表面上は冷ややかに、だが内心は冷や冷や顔で見ていた。


 惜別の情から来るストレスが、強靭無比なはずの体に変調をきたし、ある日、馬鹿げた悪夢となってラヴェリータに襲いかかった。

 ひどい熱病に魘される最中、砌は屈託のない笑みを湛えながら悪魔の巨影を引きずり、少女の愚かしさを嘲笑っていた。





 頭の中に木霊すいつかの笑声を、頭を振って追い払う。格別の賜り物を最後まで、一滴も漏らさず飲み干す。

 舌先をグラスの淵から離してからも、唇周りにこびり付いた飛沫をじっくりと、丁寧に舐め取った。とても外では出来ぬ不作法だが、この日限りはナプキンを使わないことに決めていた。


 腹の底に命の温かさを実感しつつ、ラヴェリータは残り二本となった容器を冷蔵庫に収め、宙を見遣った。

 自ら彼との関係を断つ。

 それが一番手っ取り早く、しかも確実な方法だ。

 だが、心は最善であるはずの思いつきをなかなか受け入れようとしない。

 誰だって、履き古した靴下のような、張り合いのない日々に戻りたくはないはずだ。


「ならばいっそ」


 自分の眷属にしてしまおうか。

 いや、それは駄目だ。

 彼が契約を遵守している以上、王たる自分から反故にするなどプライドが許さない。

 逆に、砌が契約を破棄した後では眷属にする意味もない。


「……だったら、人間に?」


 言いながらにして笑いが込み上げてきた。

 かつて見切りをつけた脆弱な下等生物に再び成り変わろうというのか?

 あんな子供一人に、強大にして老獪な真祖が惑わされて?

 末代まで笑い物にされそうだ。どこぞのおとぎ話じゃあるまいし。


「くっくく、まったくもって馬鹿げている。なんなんだかな、このまどろっこしさは。あー、いまいましい」


 ひとしきり文句をぶー垂れた後で、ラヴェリータが力なく項垂れた。

 濃い灰色のリボンに結えられたツインテールが頼りなげに揺れている。

 わかっていた。

 真に憎まねばならないのは、あの日砌が示した決意を侮った己の不見識なのだと。

 やり遂げられるはずがないと半ば挑発し、それに乗っかった彼が己の意地を頑なに貫き通している。ただそれだけのお話。身から出た錆。自業自得だった。

 見下していたはずの人間に、それこそ何の力も持ち得ぬ子供に、ラヴェリータ・アール・ディ・オルブライトは、とっくの昔に負けてしまっているのだった。


「……本当、どうしたものやらな」


 漫然とした視界の隅に、紙片の端が映った。今日のメッセージカードをまだ読んでいなかったことを、それで思い出した。

 すんと鼻を一つ鳴らしてテーブルに向かい、カードを手元に引き寄せる。

 いつものように簡潔な挨拶から始まり、何の変哲もない日常を綴った文章。

 三月ほど前の手紙では英語の成績が推薦入試で一役買ったことを知らせてくれたが、今回の手紙でも改めて感謝を申し添えていた。


「しつこいくらいに礼を尽くすのも、また彼の国のお国柄か」


 日本では桃色の花弁が舞い散る季節に入学式を迎えるらしい。何とも異国情緒溢れる話である。

 さらには念願の寮生活になるということで、荷物の整理が大変であること。

 心なしか、妹の態度がさらにきつさを増しているらしいこと。

 しばらく忙しくなりそうだが、それでも手紙は今まで通り続けるつもりであること。

 もしかすると若干不規則な届き方になるかも知れない旨を予め詫びていた。


「……マメというかなんというか。根っこのところはそうそう変わらぬか」


 苦笑してから、添削する箇所が一つしか見当たらなかったことにちょっと驚く。

 その事実に、ねばっこい感情を覚える。

 あるいはこれで一つ、彼との関係性が失われてしまうのではないか。

 実に愚かしい考えだった。

 向こうは恩を感じてくれているというのに。

 一笑に付すべきその考えを恐れてしまうくらいに、自分は彼とのやり取りを愉しんでいる。


「あぁもう、ネガティブ思考など私の柄ではなかろうに」


 長いまつ毛を幾度か重ねて、伏し目がちに紙を一枚捲る。

 四月から行く学校の校風がつらつらと書かれている。

 今と昔の学校教育ではおそらく天と地ほどの差があるだろうが

 これまであのようなコミュニティを魅力的に感じたことはなかった。

 だが、彼の文章を見る限り、いかにも楽しみにしている様子が伝わってくる。


「……羨ましい限りだな」


 無意識にそう呟いたあとで、いったい何が羨ましいのだろうと首を捻る。

 学校に行くことがだろうか。

 違う、変化を恐れていないことがだ。

 なんとも無謀で、瑞々しい好奇心の発露。今の自分とはほど遠い、未来への想像。

 彼と近しくなったのは、16の時から変わらぬ容姿。ただそれだけだ。


「そう、だな。どうせ失われるのだとわかっているなら――」


 早めに手放した方が傷は浅くて済む。回り回ってやっと結論らしきものに辿り着いたラヴェリータが、末尾の一文、いわゆる追伸を惰性で流し見る。


 ついで、もう一遍見る。


 繰り返し、読む。

 一字一句。



『よろしければ今度、日本に遊びに来ませんか?』



 初めての手紙とは似ても似つかぬ、サラサラと音が聞こえてきそうな、流麗な斜体で綴られた短文に、目が釘付けになる。


「行かれるのですかな?」


「んなっ!」


 手紙を握りしめたまま固まっていた少女が、勢いよく後ずさった。座っていた椅子の後ろ足が傾ぎ、危うく転倒してしまうところだった。

 何も置かれていなかったはずのテーブルの一角。そこにいつの間にやら、一羽の鴉が鎮座している。大きさは並だが、尾羽だけが雪のように白かった。


「レ、レレ、レガーテ! そなた、錠をかけている時に断りなく入ってくるなといつも――」


「先んじてノックはいたしましたぞ。この通りに」


 傍にある椅子の背もたれを嘴でコツコツと器用に突いてみせてから、鴉がひらひらりと片翼をはためかせた。まるで優雅な礼をするかのように。発される人の声は、まさしくいぶし銀といった感じである。


「そ、そうだったか。ならよい」


「久しく外遊などされておりませんし、いっそよい機会なのでは?」


 重ねて訊ねてくる僕に、ラヴェリータの細い眉が煩わしげに動いた。


「あのなあ。そなたまで何をたわけたことを」


「たわけた、ですか? 傍目には悩んでいるようにも見受けられたのですが」


 小首を傾げる鴉に、ラヴェリータはせせら笑うように胸を張った。


「だとしたら、近日中に眼科医の手配をせねばいかんな。もっとも、そなたに合う老眼鏡があるかはわからんが」


「このような老いぼれの健康をご案じ召されるとは恐悦至極に存じまするが、加えて申し上げるなら老眼鏡の有無よりもまず眼科医か獣医かの選択が肝要と存じまするが、こと目の良さにつきましてはお嬢様にだって引けは取りませんぞ?」


 顎を上下するレガーテを見るや、小ざっぱりとした品のよい初老の男が不敵に笑うさまが脳裏にありありと浮かんだ。


「……ふん、余計な気など回さんでいい。会いに行く気など毛頭ない」


「お寂しくはございませんので?」


「はっ、感傷に浸るは弱者どもの特権であろう。夜の王たる私が何故そのように思うと?」


 夜の王にして不死の王。

 闇に蠢く者どもと不死者の頂点に君臨する吸血鬼。

 その魔性に対抗し得る者などこの世に存在しない。

 千年以上の歴史を誇る聖堂騎士団を皮切りに、異能者の組織とは幾度となく反目し合い、歴史の裏で抗争を繰り広げてきた。

 だが、妖と人の寿命は比するに値せず、必然、ラヴェリータは今も討ち果たされることなく生き残っている。

 人類最高峰の戦闘集団と単独で渡り合えるのであるからして、寄りかかれる何かなど必要としていないのだ。


「我が力をもってすれば、恐れる者などどこにもいない。然らずんば、誰かと群れる必要性を、戯れる必要性を感じないな」


「なるほど、うむうむ、道理ですな。……ですが」


 一つ間を空けてから、レガーテが主人をまっすぐに見据えた。


「お嬢様はそれでいいとしても、先方はどう思われますかな?」


「……何?」


「つまり一般論として、親しいご友人を招待して断られたら、少なからず残念に思われるのではないかと」


「友、人」


 舌で転がすようにラヴェリータが言うと、鴉がさもあらんとうなずいた。


「あの童と、この私が?」


 嘲弄するように顎を上げた主人に、レガーテは「いかにも」とあくまで穏やかに肯定した。


「憚りながら申しますがお嬢様、今はわーるどわいどうぇぶが跋扈するあいてぃー時代ですぞ? 速度と効率を尊ぶこのご時世に、古風な情報媒体で奥ゆかしくやり取りしている蜜月を鑑みれば、そう言ってしまって差し支えない間柄かと」


「やかましい! なーにが蜜月か。いちいち茶化さずにはおれんのか、そなたは」


「ほっほっほ。三百年以上も変わらぬ性癖とあっては、さすがに矯正不可能でしょうなあ」


 悪びれるでもなくそんなことをのたまう従僕に、少女は疲れたように嘆息した。


「嘆かわしい。吸血鬼の従者たるそなたが、よもやハイテクなんぞに被れおるとはの」


 昼間、レガーテは屋敷に唯一置いてあるPCの前にいることが多い。

 大抵の場合はチャットをしているようで、立ち位置を少しずつ変えながらキーボードを嘴で連打し、驚くべき速さでレスを打ち込んでいるのを何度か見かけている。

 カチャカチャカチャターン。

 エンターキーを押す瞬間は何故かちょっと得意げだ。


「そうは仰いますがお嬢様。お嬢様がお飲みになる紅茶の葉や、そこに置かれている手紙箱とて、私が通販で取り寄せておるのですぞ?」


「……む」


「それに、砌殿の小包についても同じことが言えますな。いつぞや、悪天候で配送が滞った時のこと、お嬢様は覚えておられますかな?」


「……ぬぬぬ」


「あの時のお嬢様の落ち込みようといったらなかったですな? ついにこの日が来たかと、世界の終末を迎えたような顔をされて。何十年ぶりかに熱まで出されて。やむなく私めがねっとで配送日が変更されているのを確認して、それでようやく」


「あぁもう、わかったわかった」


 しっしと煩わしげに手を振って、口の減らない従僕を黙らせる。


「……だが、そもそもだ。なんで吸血鬼たる私が人間なんぞに気兼ねする必要がある」


「まあ、そう言われてしまうと、いささか返答に困りますが」


「それに、私には私の、従僕には従僕の生活がある。種族からして相容れぬ存在であるのに、変に関わって情が湧いたら面倒であろう」


「これは、考え足らずでございました。つまりお嬢様は」


「うむ」


「会えば砌殿との別れを惜しんでしまうのが目に見えてるからと――」


「ばっ……違うっ、そうではない! そなた、いったい何を聞いていたのだ!」


 声を荒げたラヴェリータの頬は、褐色肌でも容易に判別がつく程度に赤らんでいる。


「というかお嬢様。そのような物言いこそが砌殿に気を遣っている証に他ならぬような――」


「ええい黙れ! この性悪鴉め!」


「え? ちょっ、まっ、ご、ご無体な真似は!」


「問答無用っ!」


 勢い立ち上がったラヴェリータが、相手の抗弁を無視して襲いかかった。上下の嘴を引っ掴まれたレガーテがもがくように翼をばたつかせ、取っ組み合いの格好になった。


「お、おやめくださいお嬢様! 斯様なはしたない振る舞いをなさっては、先代がお嘆きになりますぞ!」


「抜かせ! 主たる私をいじり愉しむとは不届き千万! 今日こそその腐った性根を叩きなおして――――ッ!?」


 前触れもなく首筋に怖気を感じた。

 次の瞬間、ぐらりと視界が揺れた。

 まるで特殊加工した映像のように、目に映るありとあらゆる物から輪郭だけが乖離し、ゆっくりとずれていく。


「な、何だこれは! いったい何が起きた!」


「わ、わかりません! わかりませんが、なんと面妖な――――お、お嬢様っ!?」


 レガーテが焦ったようにその場で飛び上がった。ラヴェリータの体から光を帯びた粒が次々と生じ、そのまま上昇していくのが見えたからだ。


「ぐ……!? なにっ!? ち、力が、抜け……て……!」


 言葉の途中で、ラヴェリータが体の支えを失うかのようによろめき、床に倒れ込む。


「ラ、ラヴィお嬢様! どうなさったのですか!」


「……か、体が、言うことを、聞か、ぬ」


 上半身と絨毯の間に腕を差し入れて身を起こそうとするも、体は鉛になってしまったかのように重かった。

 喋ることすらままならぬひどい虚脱感に、既視感があった。


 それは遥か昔に、気の遠くなるような昔の出来事。

 四方の壁が燃え盛る修道院の中。

 白い煙がもうもうと立ち込める聖堂には、各々最期の瞬間を悟っているだろう若い修道女たちがいる。

 取り乱して母の名を叫ぶ者が。

 血で汚された床に跪き、なおも主に祈りを捧げている者が。

 すでに事切れているのか、倒れ伏して微動だにせぬ者が。


 そして、祭壇に力なく寄りかかる自分の胸元にも。

 悪意に塗れた一本の矢が突き立っている。


「……あぁ……そう、か。……思い、出した」


 四つん這いの状態から起き上がれぬまま、ラヴェリータが弱々しく微笑んだ。

 全身の血が失われていく感覚。

 命が体から零れ出していく感覚。

 あれと、瓜二つなのだ。


「お気を確かに! と、とにかく急いでこの場を離れ――」


 窓に目を向けたレガーテが、継ぐべき二の句を失った。

 電流にも似た赤紫色の高エネルギー体が、地上から空に向かって幾重にも伸びていくのが見えた。

 屋敷の周辺一帯どころではない。鳥の視力をもってようやく見渡せる山の稜線の彼方にまで、暁色の空が続いている。


「ど、うやら……逃げる場も、その暇も、ない……か」


「くっ、お待ちくだされ! すぐに助けを呼んで―――-って、私も!?」



 レガーテが素っ頓狂な声を上げる傍ら、ラヴェリータの身が再び絨毯に投げ出された。もう四つん這いの姿勢すら維持できそうになかった。


 最後の晩餐に相応しき物を口にしていたのがせめてもの慰めか。

 そんな他愛なき考えが頭に浮かぶのを最後に、意識が完全に途絶えた。

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