プロローグ (1)
一月ぶりに屋敷に郵便物が届いた。
遠い島国からの贈り物は常に着払いである。
一代で莫大な富を築いたラヴェリータ・アール・ディ・オルブライトにとって、国際小包の料金など端金にも足りぬ金額だ。
他方で、いわゆる中流家庭に属している送り主にとっては、決して侮れない額だと知っている。
(きた! きたきたきたキター――ッ!)
午前中からいつ呼び鈴が鳴らされるかとうきうきそわそわしていたのをおくびにも出さず、ラヴェリータはひどく落ち着き払った様子で茶封筒から分厚い札束を取り出した。
慣れた手つきで20ポンド札を2枚引き抜き、たおやかに差し出す褐色肌の少女に、つばつき帽を被った配達員は口を半開きにしながら見惚れている。
外から吹き込む風に揺れるプラチナブロンドのツインテールはさらさらと流れる白滝のよう。長い睫毛に縁どられた赤の瞳が緩慢に瞬かれるさまは、深窓の令嬢もかくやといった佇まいである。
反面、女性特有の滑らかな線をこれでもかと強調する白いホットパンツと黒ストッキング。その大部分を覆い隠してしまっているクリーム色のLLサイズのロングセーター。
初見の人に色々と勘違いされてしまいそうな服装で訪問者と接する辺り、この少女が外の人間と会うことがどれだけ珍しいかを物語っている。
既定の料金がジッパー付きの財布に納められるのを待ってから、ラヴェリータはさらに一枚紙幣を抓み取った。
案の定、青年の表情が微苦笑とでもいうべきしろものに変わる。
予定調和。いつものことだ。
「拇印でよろしいか?」
ここ数年、何度となく口にしている言葉だが、惰性での省略はラヴェリータの美徳に反するところだった。
配達員の頭が縦に振れたのを認め、セーターの袖を少しだけ捲る。
露わになった手を口元に誘い、親指の腹にそっと八重歯を押し当てる。
珠のようにふっくらとした赤い雫が、指の先で濡れた宝石のように煌めいた。
初見でこそ彼女の所作に慌てふためいていたこの配達員も、お馴染みとなった今では眉一つ動かさない。過去には「朱肉でしたらご用意できますが」とか「サインでもよろしいのですが」などと言っていた気もするが、どうやら状況に慣れることを選択したようだ。実際、今も受領印欄に親指が押し付けられるのを黙って見守っている。チップ代わりに紙幣を一枚、相手の胸ポケットに根気よく入れ続けたのが功を奏したのだろうとラヴェリータは勝手に解釈している。
「はい、確かに。毎度ありがとうございます」
最近になってやや色気づいてきたらしい、下顎にちょび髭を生やし始めた青年は、スキップしかねない足取りで屋敷を出ていった。宅配車のエンジン音を耳に拾いつつも、しかしラヴェリータの気持ちはもう別のことに向かっていた。
動き出してからは早かった。玄関扉を瞬く間に施錠し、待ちわびた荷物をいそいそと居間に運び入れ、八人掛けのテーブルの真ん中に置いた。
異様なほどに存在感を示すダンボール箱には、デフォルメされた黒猫がプリントされ、荷物が飲食物であることを示すシールと割れ物注意のシールが張られ、送り状が備え付けられている。
(ふ……ふおぉおぉぉッ!?)
負けん気の強そうな瞳が、我が目を疑うようにぱちぱちと瞬き、炎のように揺らめいた。受領書に記載されている×3の数字記号に心が躍り、思わず手に力がこもる。
まさしく新記録樹立の瞬間であった。
「……よもや」
唸るかのようにラヴェリータが呟いた。
「よもや三本とは、な。それが許されるくらいに、あの小生意気な童も大きくなったということか」
感慨深げに腕を組み、したり顔で何度となくうなずいているさまは、幼い我が子の成長した姿を脳裏に思い描く母のようでもある。
いったいどんな少年になっているのだろう。
返しの手紙でそれとなく写真でも催促してみるか。
考えるのを中断し、ラヴェリータは送り主状に、その記入欄を埋めている署名に目を向けた。
ミギリ・ツジマエ。
そう名乗った少年との出会いから早3年と半年。よもや一度きりの邂逅がこれほど確かな絆として感じられるようになるとは、当時は想像もしていなかった。
「……む」
ふいに下腹の辺りで可愛らしい音が鳴った。
きゅっと閉じられた薄桃色の唇の裏側では、現在進行形で涎が喉に滴り落ちている。
「……うむ、いかん、これはいかんな。パブロフの犬じゃあるまいし」
これではどちらが躾けられているのか、と己の頭にこつんと握り拳を当て、しかしながら口元に浮かんでいるのは、自嘲というには卑屈さの足りぬ笑み。意識の砦は暴力的な食欲に早くも無血開城を迫られている。
「だあぁあぁ、もう我慢ならん!」
深紅のマニキュアに彩られた指先が一閃、粘着テープを鋭く切り裂く。むらなく敷き詰められた緩衝材を両手でとっ散らかし、断熱素材で構成された銀色の医療用ケースを露わにする。
親鳥に温められた卵がひび割れるのを目にするのにも似た昂揚をラヴェリータは覚えた。ストッパーに指をかけ、蓋を慎重に開くと、少女の目の色にも負けぬ鮮やかな紅が確かに三本、内張りの隙間に収められていた。
「いやはや、絞り立てのトマトジュースも真っ青の――――うむ、言葉の綾なのだが」
手の甲で口元を抑えるようにして、ラヴェリータが一つ大きく息をつく。ひとりごとが多いのは彼女の常である。喋るのを怠れば言語中枢が衰えてしまうと、ある科学雑誌に寄稿されていた論文を読んだがゆえのことだった。
一人暮らしに、より正確に言えば一人と一羽暮らしに寂しさを覚えるには少女の精神はいささか老成してしまっていたが、それは何者かと好を結ぶのを嫌うのと同義ではない。知己の人物との応対までおざなりで由とするほど自尊心をこじらせてもいない。
いい時代になったものだ。曇天の空を窓越しに見上げるラヴェリータの表情は明るい。
空を灰色に染めし産業革命以降。人類の文化は空前の規模で発達し、交通網や医療、冷蔵技術に至るまで飛躍と呼んで差し支えぬ進化を遂げた。
彼らが編み出した技術の中には戦略兵器を初めとして眉を潜めたくなるものも少なくなかったが、一方で点在する国々の距離を限りなく縮めた功績は大きいと思っている。
飢えを凌ぎ渇きを紛らわせるために夜な夜な都市を徘徊したのも今は昔。
人間が培ってきた技術にあやかり、ラヴェリータは種の宿業たる飢餓を克服するに至った。
その殊勲たる貴重な三本のうちの一本を、祭壇に神への供物を捧げるように掲げ持つ。
(い、いいのか? ああ、本当にいいのかッ!? よいのだなッ!? 飲んでしまってもッ!?)
いつの間にやらもう一人の自分が脳内で勝手に顕現している。
(あぁこれ、何をもたもたしている! 躊躇う理由などなかろうに! 一気だ! ぐいっといけラヴィ! さぁさぁ、鮮度が落ちるその前に! 明日に向かってテイクオフ――)
「ええい、少しは浸らせんか!」
むやみやたらとテンションあげあげなそれをぐいっと脇に押しやり、ラヴェリータは手にしている物をそっと胸に抱いた。
一日一本。
もしも次に数が増えたら、ただ一度だけやろうと決めていた至高の贅沢。
興奮のあまりに抱える腕が小刻みに震えている。取り落としてしまわないかと少し心配になる。
忘れもしないあれは一年前。おそらくは経由地での荷物の取り扱いが悪かったのだろう。届けられた二つの容器の片割れがヒビ割れ空っぽになっているという、天変地異にも匹敵する事件があった。
絨毯に中身を滴らせている保護ケースの前でラヴェリータはしばし呆然自失とし、やがて小刻みに震え出し、ほどなく突沸した。
送り状に記されていた運送会社の連絡先を睨みつけるや、轢き殺しかねない勢いで玄関前の黒電話に駆け寄り、
『せっ、責任者を出せッッ!』
繋がった次の瞬間、手にした受話器に向かって怒鳴りつけた。
問答の末に呼び出された局長の男は、はたして一日の貴重な労働時間のおよそ15割をこの苦情処理に奪われた。
貴様に取り次ぐまでがまずもう遅すぎる。命に等しき人様の荷物を損壊させるとはどういう了見だ。社員教育がなっていない。先ほどまでの浮かれ気分を返せ。今すぐ返せ。どう責任とってくれるんだこの痴れ者めが云々。
鈴の音のように可憐な声で、しかし夫の浮気を知った女房のごとき烈しさで叱責された。事情を訊き出すその最中にも彼もよく知る政財界の著名人を七並べのように羅列され、あり余る権力財貨をチラつかされながら脅されるという、ギャング映画の主人公じみた思い出深いひと時を味わった。
結果、通話が終わってから二日もしないうちに、屋敷の上空に迷彩色のヘリコプターが出現するという異常事態が発生。機内で丁重に詫びが入れられ、少女の意向を酌んだ誓約書が取り交わされた。
地上にいたはずの彼女がどのような手段で上空50メートル地点で滞空しているヘリに乗り込んできたのかは、誰も見なかったし聞かなかったし言わなかった。
とどのつまり、容器の中身に対するラヴェリータの執着心はすこぶる強く、荷の送り主に対する思い入れもまた、並々ならなかったのである。
アール:伯爵号を持つ家系の者がしばしば好んで用いるミドルネーム。