繰り返される歪な日常
「は・・・?妹が死んだ?」
「正式には半年前にですが」
目の前の若い医師が淡々という。どういうことだよ。
俺は妹がいるはずの病室に視線を向けた。そこには空のベッドがあるだけだった。
「何言ってるんですか。昨日までそこに・・・妹はどこに行ったんですか。冗談はやめてくださいよ。たちが悪いですよ」
半ば青ざめた顔で俺はその茶髪の医師に詰め寄る。しかし医師はうっとおしそうな顔をして決定的なことを行った。
「あなたはご自分の病気のことを忘れたのですか?」
病気?脳腫瘍だろ。覚えてるよ。それがどうした。
「記憶障害が出るかもしれないとお伝えしたでしょう。忘れたいと思う悪い記憶ほど忘れやすいのですよ」
な・・・んだって?じゃあ・・・
「日常生活には支障なさそうですが、最近、記憶が怪しいことはありませんか?今さっきまで何をやってたかわからなくなることってありませんか?」
本当に・・・?
「お引き取りください」
あいつは・・・死んだのか。
遠ざかるその医師の背中を呆然と見詰める。ふいに彼が振り返り何かをつぶやいた。声は聞こえなかったが、口の動きでわかった。
“また明日”
皮肉な笑みを浮かべて。
・・・あぁ、俺は、明日も来るのか。
しばらく妹の病室の前で立ちつくしていた。涙は出ない。自分の死を宣告された時も思ったが、俺は感情と言う物を持ち合わせていないのかもしれない。今だって妹が死んだってのに、涙一つでない。きっとあのとき、両親が死んだ時に、俺の感情も一緒に死んだんだと思う。悲しんでる暇はなかった。妹はまだ子供で、俺が守らなくちゃならないし、金だってなかったし、なのに俺自身、だたのガキでしかなかったし。
腫瘍のことを聞かされた時も、まず考えたのは妹のことだった。俺がいなくなった後、あいつはどうなるのだろうと不安だった。だからこれでよかったのかもしれない。急に肩の荷が下りた気がした。あいつは死んだ。俺より先に死んだ。だから俺にはもう心残りなんてないんだ。
しばらくそこでぼうっとしていたが、いつまでもそうしているわけにもいかないので、俺は来た道を引き返した。途中、あの子の病室の前を通る。さっき調子が悪いと言って横になっていたのに、彼女はガラス窓のすぐ近くに立っていた。時刻は12時5分前。面会時間が終わるギリギリだ。もうすぐ看護師がカーテンを閉めに来るはずだ。
彼女が俺に気がついて顔をあげる。ガラスの向こうで何か言った。俺は近づいて通話ボタンを押す。
「・・・どうした?」
彼女は複雑な顔をしていた。悲しそうな、苦しそうな、痛そうな、・・・変な顔。そして一言俺に言う。
「大丈夫・・・?」
「大丈夫って何が?」
俺がとぼけると彼女は口ごもる。視線を足元に落している。
彼女は知っているんだ。俺の妹がすでに死んでいることを。でもどうして?もしかして俺が言ったのか?覚えてないだけなのか?だけど、昨日までの彼女はこんな感じじゃなかった。もっとはつらつと明るくて・・・いや、それも俺の記憶違いじゃないのか?昨日と思ってた記憶は本当はもっと前の物で・・・なんだか、もうわけがわからない。
「大丈夫だよ」
何がだよ。
「妹は半年前に死んだらしい。俺の病気は結構進んでるみたいだ。だけど、大丈夫だ」
だから、何が大丈夫なんだよ。
彼女が急に泣きそうな顔で俺に手を伸ばした。しかし、その手は透明なガラスによって阻まれる。彼女の骨ばった指がガラスに当たってコツンと音を立てたのが、マイク越しに聞こえた。
「大丈夫じゃないよぉ・・・」
あれ?視界がにじむ。自分の頬をに手をやると、温かい水が流れていることに気がついた。俺、泣いてるのか?
「ふ、う・・・」
そう分かっても、止められなかった。涙は後から後から流れ出てくる。俺は口元を覆って必死に嗚咽をこらえた。彼女も泣きながらガラスに両手と額をついていた。俺は彼女の額に自分の額をつけた。冷たいガラスの感触がした。