迫り来る最後
私はいつも通り白い部屋の中で目を覚ました。ガラスの向こうのカーテンは開いていて、その向こうにある時計は午前10時を回っている。いけない。寝すぎたようだ。昨日は彼に勧められた新しい本が医師から差し入れられ、面白さのあまりつい夢中になって読んでしまった。寝たのは真夜中だったと思う。この部屋に時計はないためカーテンを引かれた後の時間は感覚でしかないが。
窓の外、行きかう看護師や医師、見舞いに訪れた人々の中、ふいに何か白くて小さなものが動いた。私は何気なく視線を向けた。
そこには私とおそろいの、真っ白な患者服をきた子供が立っていた。ちょうど時計の下。年は5,6歳といったところか。あどけない顔に、黒くてくりっとした目の少女だった。腕に大事そうに抱えているのはウサギの人形だ。小さな体には大層大きく見えるが、そのぬいぐるみはそんなに大きくはない。ちょうど壁にかかった時計の半径くらいの大きさだ。
でも、あの人形、どこかで・・・。
ふと感じた既視感。しかし考えるまでもない。それは昨日彼が持っていたものと同じだった。あれ?じゃあ・・・
「もしかして、あなた彼の妹さん?」
私はポンと手を打って少女に話しかけた。しかし少女はきょとんとした顔で私を見つめている。
あぁ、マイクを通さずに声が聞こえるはずないではないか。自分の考えに舞い上がってつい声が出てしまった。彼の妹が目を覚ましたと。・・・いや。
私はハタと動きを止めた。いやいや、それはないだろう。目の前の少女はどう見たって小学校1年生か、幼稚園くらいだ。そんな幼い子が小説なんて読むはずがない。字だって読めるかどうかだ。だからこの子は妹ではないはずだ。この病棟・・・いや、この病棟の人間が外に出られるはずはないから、他の病棟の子だろう。逃げ出してきたのだろうか?大丈夫かな。
その時、少女にあわてたように駆け寄る医者が現れた。あい変わらずきょとんとした少女に何事か言葉をかけ、少女がコクンとうなずく。医師は少女の背を押すようにあるきだした。この病棟の医師と比べて、その医師は優しく笑っていた。きっと小児病棟の専門医だろう。また医師が少女に何事か話しかけた。少女は私を指さして・・・いや、私の背後を指さして言った。
「本いっぱい!」
口の動きだけでわかった。そうか、こっちをじっと見てたのはそのせいか。本が好きなんだ・・・。
遠ざかっていく少女。彼女が抱えるぬいぐるみ。昨日彼が持っていたものと全く同じぬいぐるみ。いや、その物ではないだろう。きっとあのピンク色のウサギは、今はやっているキャラクターか何かだろう。きっとそうだ。
それでも私の中には何でかわからない不安な気持ちがくすぶっていた。
「で、主人公は悪魔と契約して時間を巻き戻す能力を得るんだ。だけど、その悪魔が実は・・・」
「実は?」
声をひそめて話す彼と、ガラスを隔てて額を突き合わせ、私は彼の話す物語を夢中になって聞いていた。彼は本だけでなく、テレビドラマや、ネット小説など、ありとあらゆる物語の中から、特にお勧めの物を私に語って聞かせてくれる。自分で文章を追うのも好きだし、医師に言えばDVDだって用意してくれると思うが、彼は物語を語るのがとてもうまく、きっとテレビよりも臨場感があると思う。私はドキドキしながら続きを促す。
「・・・残念。ここから先は俺もまだ読んでないの」
「えー!なぁんだぁ」
「でも、絶対面白いから。今日の夜更新予定」
今話しているのは彼が今ハマっているネット小説だ。なんでも、数年前からスマートフォンと言うのがでて、ケータイ電話でもインターネットができるらしい。それで無料で物語が読み放題なのだそうだ。世の中は便利になったものだ。
そのとき、彼はふと思い出したように言った。
「そうだ。あの話、アニメ化するって」
その言葉に私は耳を疑った。
「うそ!!ホント!?見たい!」
「ホントホント。テレビつけてもらえば?」
「うむむ・・・考えとく」
彼はくすくす笑い、立ちあがった。
「そろそろ行くよ」
そう言って首にかけていたヘッドフォンをかけた。それを見て私は、
「前から思ってたんだけど、そのヘッドフォン、あの話のバーチャルコントローラーに似てるよね」
私は彼の頭を指さしながら言った。黒い本体に青いラインが引かれ、黄色い文字で何やらスペルが刻まれている。
バーチャルコントローラーとは、彼と出会ったときに私が持っていた本の中で、主人公がオンラインのバーチャル空間へアクセスするときに使うものだ。人間の脳をスキャンし、仮想空間へいざなう機材。確か1巻の表紙に描かれていた。
「もしかして狙ってる?」
「さてどうでしょう?」
「えー。ねぇ、いつもどんな曲聞いてるの?」
「ん?これで?」
彼が自分の耳を指さす。そして少し考えた後、
「・・・何も聞いてないんだ。これ、壊れてて」
「え・・・?」
「妹にもらったんだ。あいつが早く目を覚ましますようにって、願かけ見たいなもんだよ。しょうもないだろ」
そう言って彼は苦笑した。
彼と出会って1カ月が過ぎた。毎日毎日彼は私のもとへ来ては楽しい話をたくさん聞かせてくれる。今まで外の世界の話は私には関係がない、興味がないと思っていたけれど、彼から聞く話はとても面白い。それは話の内容もそうだが、彼の口から彼自身の話を聞くことができるからかもしれない。彼のことをもっと知りたいと思っているからかもしれない。それに彼の声はとても心地がいい。聞いているだけで安らげる、優しい声。あぁ、早く来ないかな。早く会いたいな・・。こういう気持ちって、きっとあれだ。小説の中でよくある気持ち。もしかして私は、彼のことが好きなのかもしれない。
そう考えただけで顔が熱くなるのを感じる。・・・うわ。これがあの恋というもの?
私はシーツをばしばしたたきながら自分を落ち着かせようとする。
しばらくそうやって悶えて、ようやく落ち着いてきた。私は顔の横に落ちてきた髪を何気なく耳にかける。その時首筋に手が触れ、同時に体中に戦慄が走った。
「!?」
手にぬるりとした感触。思わずゾクッと体が震える。目の前に手を持ってくる。首に触れた手のひらには、赤紫色・・・ところどころに深緑も混じったものがべったりと付着していた。目を見開いて手を凝視する私。数秒固まった後、震える体をなんとか動かして、入り口と反対にある鏡の前まで行った。震える手で服の前のボタンを数個開けて、肩から少し下ろす。そして後ろ髪を持ち上げて自分の体を写した。そこには・・・。
首筋から肩甲骨にかけて紫と緑のまだらに変色していた。首筋は先ほど触れたためか、少しえぐれたようになっている。そこから赤黒い、コールタールのようなべとっとした何かが流れている。
痛みはなかった。もうすでに、感覚などない。
「う・・・あ・・・」
私の醜いからだがさらに崩れて行く。終わりが近づく。それはずっと待ち望んでいたことなのに。
「い・・・やだ」
いやだ、嫌だ、死にたくない。まだ・・・。
彼に会いたい。いや、こんな醜い姿見られたくない。
「うぐっ・・・げほっ」
思わずその場に沈み込んで吐いた。なにも口にしていないため、出てくるのは胃液だけ。
怖い怖い怖い怖い。死ぬことがじゃない。彼に会えなくなる。それだけが怖くて。
「いやだぁ・・・!」
私は、ナースコールをつかんだ。