私と彼と物語
真っ白な空間の中で私は目を覚ました。ここには何もなく、昨日と変わらない風景で、朝日が差しむわけでもないけれど、今日も朝が来たことが分かった。いつの間にかカーテンがあいていて、窓ガラスの向こう、同じく白い廊下にかかっている時計が午前7時を指していたからだ。
本当にこれは現実だろうか。時間の移ろいの感じられないこの空間。なにも変わらない毎日。もしかして私は何度も同じ日々繰り返しているのかもしれない。自分では3年と思いながら、実は一日だって過ぎていなくて。
同じ時間がループする。そんな物語を読んだことがある。主人公は昨日と全く同じことに戸惑いながらも、先が分かっているためはじめのうちは楽しくやっていた。競馬を当てたり、預言者と言われてみたり、好き放題やっていたが、やがてだんだん狂っていく。同じことしか言わない友達。競馬であてたお金も次の日にはなくなっていて。知り合った人間も次の日にはまた初対面に戻っていて。先に進まない日々は、なんとつまらないものだろう。結末はバッドエンドだ。精神を病んで狂った末に、主人公は・・・
私はいつになったら狂ってしまえるのだろう。3年だ。3年間の変わらない日々。その主人公と違って私は同じ日を繰り返しているわけではない。このやせ細った醜い体がそれを物語っている。しかし、変わらなさには私の方が勝るのではないか。だってここには何もない。起きて、本を読んで、診察して、寝る。狂ってしまいたい。そうしたらどんなに楽だろう。
呆然とそんなことを考えていると、ふいに右手に痒みを覚えた。昨日の腫れは引いていたが、水泡はまだあった。若干昨日よりも増えている気がする。そしてものすごく痒い。
私は枕元に置いていた本を手に取り、読み始めた。気を紛らわすためだ。しかし、夢いっぱいのファンタジーも、体が引き起こす感覚には勝てず、かゆみは増すばかり。だんだん腹が立ってきた。
私の中で何かが切れた。
痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い。
私は右手をかきむしった。全ての憎しみをこめて。ここに閉じ込められたこと、変わらない日々、醜い私。
ガリガリガリガリガリガリ・・・・・・
1分くらいそうしていただろうか。気がつけば真っ白だったシーツは水泡が破裂して中から飛び散った膿で黄色く汚れていた。右手は傷口から滴る膿でべとつき、傷口からあふれ出る血と混じり流れまたシーツを汚していく。左手の指先はかきむしられた右手と同じ汚らしい膿と血で汚れ、爪の間には赤黒い皮膚片が挟まっている。我慢できないほどのかゆみは、気がつけばピリピリとした痛みに変わっていた。
――――――あぁ
私は目の前の悲惨な状態を無表情に見下ろしていた。
・・・汚い。
「ふ、ふ・・・ふふっ」
乾いた笑い声が口から出た。痛い。痛いけど、痒いよりはましだ。かゆみは我慢できいほど不快だけど、痛みなら我慢できる。
「ふっ・・・ははっ!」
無表情で、笑い、目から一筋、温かい水が流れた。
どれくらいそうしていただろう。涙は乾き、呆然と虚空を見つめていた時、ふいにブザーが鳴った。もうそんな時間か。いつもの診察か。そう思ってけだるげに振り向いたが、ガラスの向こうに立っていたのは昨日の少年だった。ニッと無邪気な顔で笑っている。
夢じゃなかったんだ。昨日のできごとは寝ている間に見た夢だと思っていた。変わらない私の日々に、突如起こった非日常。
「やぁ。おはよう」
「お、おはよ・・・」
取り付けられたスピーカーから彼の声が聞こえる。私はとっさに右手を後ろに隠した。汚れたシーツも体の後ろに押しやる。どうしよう。
素早く左右に視線を動かす。ちょうどベッドの横のテーブルに包帯が一巻き置かれていた。1週間前の定期検診で医師が忘れて行ったものだ。いつもは医師はガラス越しに診察するだけで、直接この部屋には入ってはこない。しかしひと月に一度は完全防備でこの部屋に入り、私の体の隅々まで検査する。脳波を測定したり、血液を採取したり、心電図を取ったり・・・。そのとき、私は今日のようにかきむしった傷口をその包帯で手当てされた。私の体が拒否反応を起こさない材質で作った特注品だ。
実は正確には忘れて行ったわけではない。私かくすねたのだ。用途は・・・。
結局、その包帯は異常によく伸びて、全然絞められなかったことと、この部屋にはひもを引っかける場所もなかったので、目的は達成できなかったのだが。
私はその包帯をひっつかむと、右手にぐるぐると乱暴に巻きつけた。なんとか醜い傷口を隠す。幸い服に汚れは着いておらず、私は彼のもとに走り寄った。
「おまたせ・・・」
そう言いながら、内心苦笑する。自分の傷の醜さなんて、もう諦めていた。しかし、とうに消えうせたと思っていた私の羞恥心は、かろうじて残っていたらしい。醜いものを異性に見られたくないと思うなんて、こんなになってもまだ私は恥じらう乙女かよ・・・。と心の中で皮肉交じりに言った。
「なぁ、君、なに色が好き?」
彼は唐突に聞いてきた。昨日もこんな感じだったなぁ。
「色?えーっと・・・」
色。ここに入ってからというもの、目にした色はほとんど白だけだ。いや、自分の血を含めて赤、自分の髪の色の黒、そして茶色がかった膿の色。きれいな色とは無縁だった。・・・私の好きな色か・・・。
「薄紫・・・かなぁ」
思えば夏にはいつもうす紫色のワンピースを着ていた。キャミソール型で、細い紐を肩の上でリボン結びにしてある。今じゃそんなに体の出る服なんてとてもじゃないが着られない。
遠くを見るような目をしながらそんなことを考えていると、彼が笑った。まるでいたずらが成功したかのように嬉しそうに。
「良かった。じゃ、これあげる」
彼が差し出したのは薄紫色の花をあしらった小さなブーケ。
「な・・・え?何?」
戸惑う私がおかしかったのか、彼は楽しそうに笑う。良く笑う人だなぁ。
「何って、君へのプレゼントだろ」
「どうして?」
「んー友達のしるし?」
友達・・・。やっぱり、そう思ってもいいんだ。
「あり・・がと」
私はぎこちなく笑って見せた。笑うのなんかいつ振りだろう。上手く笑えていないかもしれない。わざとらしくないかな?でも、嬉しいのは本当なんだよ。ついこの間までの暗い幸福感とは違う。もうすぐ死ねる、楽になれるという思いから来る幸福とは違って、今は純粋に、温かな、幸福を感じる。
「ありがとう。・・・嬉しい」
彼は照れくさそうにまた笑った。
彼はそれから毎日現れた。彼の妹は私の病室のいくつか向こうに入院しているらしい。
1年前、彼と彼の妹は事故に会った。交通事故だった。乗っていたバスが横転し、彼の妹はその事故から意識が戻らないらしい。彼自身も怪我をしてこの病院の他の病棟に入院していたが、数ヶ月前に退院し、それから毎日彼女の見舞いに来ているのだ。私と会ってからはお見舞いついでに私のところによって話をしてくれる。
「妹さん、どう?」
私はおずおずと聞いた。
「まだ、意識は戻らない。・・・ま、そのうち起きるさ。何事もなかったみたいに、ケロッとしてさ。あいつはそんな奴だよ。人の気も知らないでってやつだ」
苦笑しつつ彼は言う。仲のいい兄妹なのだろう。妹がどんなにわがままか、どんなに困った奴かという内容なのに、妹のことを語る彼は楽しそうだ。
「そう言えば、続き読んだ?」
「読んだ読んだ。面白かった!」
続きとは彼と私が出会ったきっかけの小説の話だ。
「・・・いい話だった」
舞台はバーチャルリアリティ(仮想現実)。主人公はオンラインの仮想現実のゲームに入ったものの、ログアウトができなくなり、ゲーム世界に閉じ込められてしまった。
科学技術が進化した未来の話であるが、はじめの方はSFというより、私の好きなファンタジーだった。なぜならそのゲームというのが剣と魔法の世界であったためだ。
脱出するにはすべてのモンスターを倒し、ゲームをクリアするしかない。
ゲーム内での死はそのまま現実での死につながる。しかし、主人公の少年は、勇敢にたたかい、数々の難関を乗り越え、信頼できる仲間を得、ラスボスを倒して見事ゲームをクリアした。そして、最終章では、現実世界で仲間たちとの再会を果たす。ここまでが一巻の話だ。だから私は完結していると思っていた。しかし、続きがあった。この続きは仮想現実をめぐるトラブルに主人公が巻き込まれていく話で、どちらかと言うとSFものだ。しかし、続きもものすごく面白かった。
私がこの話が好きな理由。何と言っても作者の情景描写がとてもいい。設定では仮想空間内ということだが、目を閉じるだけでその風景がありありと浮かんでくるほどに繊細で。そこに行ってみたい、と思わずにはいられない。
それに加えて、仮想現実というのは私に強い衝撃を与えた。現実の肉体は眠った状態で、意識だけがコンピュータ内の仮想空間で活動する。そこでは現実では体が動かない人でも自由に動き回れて、姿も思いのまま。私なら、こんな醜い水泡の浮き出た皮膚も、折れそうなほど細い腕も、ただ立つだけでもつらい体も捨てて、きれいな手足で可愛らしい短パンとワークブーツをはき、肩からは旅人風なケープを羽織って、優美な曲線を描く細みの長剣を握り締めて冒険をするだろう。胸元では魔石のはめ込まれたネックレスが輝くのだ。
通常なら高校に通っているはずの年頃なので、こんなことを考えてしまう私は子供っぽすぎるかもしれない。でもそんなの構わない。
ただのファンタジー小説を読んでも、ただあこがれるだけだが、この物語は、もし将来的にこんな技術ができたなら、私のこの病気なんて関係なく、たとえ偽物でも広い世界を駆け回ることができる・・・。
そんな淡い希望が持てたから。
でも、まぁ、少なくとも私が生きているうちにはできないだろう。もっとずっと先の話だ。しかもあくまでこれも物語なのだから、こんな技術が本当にできるかもわからない。
しかし、この物語は私の最もお気に入りだ。彼に教えられて読んだ続きも、ハラハラドキドキして楽しかった。結末もハッピーエンドだ。主人公は仮想空間内で出会った少女と結ばれる。最初のデスゲームの時から命を共にしてきた二人の結末は涙が出るほどに感動した。そしてそれだけではない。今の私は、その感動を分かちあえる友人がいる。物語を読み終えると、いつも少し悲しくなる。主人公はハッピーエンドを迎えるが、自分はバッドな日常に戻されるから。でも、今は読み終えた後も、彼と話すという楽しみがある。きっと私は今、人生で一番幸せだ。
「どうした?にやついてるぞ」
頬が緩んでいたらしい。私は両手で顔をおおった。うわ、恥ずかしい。きょとんとした顔で彼は私を見つめる。
「さては何かいいことでもあったな?なんだよ?あ、もしかしてもっと面白い本読んだとか。教えろよー」
「どうしよっかなー」
にやついてる理由はあなたが理由だ、なんて恥ずかしくて言えない。私は素知らぬ顔で視線を投げた。ガラスの向こうに備え付けの花瓶が見えた。色とりどりの花が刺さっている。彼と出会ってから、ときどき彼は私に花を持ってきてくれる。色もそうだが、花の種類や背丈に全く統一感がないのがまた面白い。洋花と和花、花屋で売ってるようなものから庭に咲いていた物まで。「買ったやつじゃなくて悪いけど・・・」頭をかきながら苦笑いする彼。そんなの構わない。私は別に花が好きなわけではない。いや、嫌いではないけれど、どちらかというと、私に花を持ってきてくれる、その気持ちがうれしいのだ。こんな日々が続けばいいのに・・・。
「さて、そろそろ行くよ」
廊下に置かれている椅子から彼は立ち上がった。廊下の向こうから私の主治医がこちらに歩いてくるのが見えた。
「妹さんに宜しく」
「って言っても寝てるだけだけどなー」
その時、彼の手に何か握られているのが目に付いた。私の視線に気づいたのか、彼がそれを見せてくれた。ピンク色の、可愛らしいウサギのぬいぐるみだった。
「妹に。あいつは花より団子だからな。花は喜ばない。でも食べ物はどの道食べらんないし、こっちのがいいかと思って。」
ふりふりとそのぬいぐるみを動かす彼。最後にうさぎにお辞儀をさせて、「また明日―
」と可愛らしい作り声で言った。