彼
翌日、午前9時。私はいつものようにベッドに腰掛けて読書にいそしんでいた。静寂の中、紙ずれの音だけが響く。
読書が好きだ。ただしファンタジーに限る。
この箱の中から出ることのできない私にとって、それは唯一の娯楽であり、居場所だった。目を閉じれば広がる、広大な大地。剣と魔法の世界で、勇敢な冒険者たちが果敢に闘っている。はらはらドキドキワクワクとその行く末を見守っている時だけは、この小さな世界に閉じ込められた自分を忘れることができる。
もちろん医師に頼めばテレビも用意してくれるだろう。実際、ここに来た当初はあったのだ。しかし、自分にはすでに関係のなくなった外の世界。現実の世界のことを知ったところで何になる?それは全く無意味だし、出られないことを痛感するだけだ。病院側がかわいそうなモルモットにご褒美と思って用意した、高画質高質音の機械は言うまでもなくただの四角い置物と化した。それはいつの間にか撤去されていた。
だから今日も私は読書にふける。今日はお気に入りの小説をもう一度最初から読み返してみた。何せ私の体は様々なものにアレルギー反応を起こすため、新しい本を入れてもらおうにも、何重もの審査が必要なのだ。紙の材質一つ一つを検査しなくてはならないのだから、手元に届くまでにかなりの時間がかかる。早く新しい物語が読みたいな・・・。
外と内とを隔てるガラス窓にかかるカーテンは開け放たれていた。外側についているため私は開け閉めできない。できれば1日中締め切って、自分だけの世界に浸りたいところだが、午前中は医師の検診があるため、開けておく決まりなのだ。そして診察終了か、または午前中のみの面会時間終了とともにしめられる。今は、せわしなく動く人々を横目に、私は無味無臭の水を飲みながら本を読んでいる。
本に目を落としながら口をつけたマグカップの水が空になっていることに気が付き、私はベッドから降りた。ほんの5歩ほど歩いた場所に水道がある。正方形の部屋の一辺が廊下との隔てになっているガラス窓であるが、その窓の右端に、ドアがある。もちろん鍵がかかっており、医師の持つIDカードでしか解放できない。そのドアのすぐ横だ。私は本を小脇に抱えたまま、よろよろと水道に近寄り、マグに水を注いだ。ふと視線を感じて窓に目をやると、高校生くらいの男の子と目があった。金髪にヘッドフォンをつけていて、一瞬ちょっと不良っぽく見えたが、人懐こい笑顔で何事か言った。しかし、ガラス窓に隔てられてその音は聞こえない。
いったい私に何の用だ?私はいぶかしみながらガラスの向こうにあるタッチパネルを指さした。そして聞こえなくとも相手に伝わるように大げさに口を動かして「そ・こ・お・し・て」といった。
彼がタッチパネルの“通話”ボタンを押した。ブザーが響き、少しかすれた、明るい少年の声が聞こえてきた。思えばここ数年、医師としか会話をしていない。それも会話というほどのものではないが。
少年はにかっと笑って私の持つ小説を指さした。
「それ、俺も持ってる。すっごい面白いよな」
唐突に言われて、私は反応するまで数秒要した。そしてあぁ、この本のことか、と手にした本に視線を落とす。しかし、その本を握っていたのは水泡の浮く右手だったので、私はマグを流しにおき、さりげなく本を左手に持ち替えた。
「知ってるの?」
「結構メジャーだよ。知ってるやつは知ってる。カテゴリはSFなのに、完璧にファンタジーなんだよな。でも、おもしろさは十分だ。俺の妹がすごく好きでさ」
そういって少年はククッと笑う。
「ライトノベル、よく読むのか?」
初対面で、しかも体のあちこちに醜い傷を持つ私に屈託なく問いかけてくる少年にわずかに戸惑う。なんだろう。もしかして同情でもされているんだろうか?それとも単に人懐こいだけか?
しかし無視するわけにもいかないので質問には答える。
「ううん。これくらいかな。本当にたまたまなの」
基本的に私が読むのはハードカバーの本ばかりだ。別にわざわざ選んでいるわけではなく、医師たちが差し入れてくる本がそういうのだからだ。3年もここにいるので、世の中のことは全く分からないが、ライトノベルはおもに若い人が読むようで、病院の医師たちには縁がないのだろう。唯一わたしはファンタジーを指定しているので、その手の本はちゃんと入ってくるのだが。
私は何気なく本の表紙に目をやった。一瞬漫画本かと思うような華やかなイラストが描かれたその表紙。
「何でも、この病室の近くの患者さんが亡くなった時の遺品らしくて。この病院、本とか、おもちゃは遺族が寄付していくことが多いみたい」
「ふうん・・・」
そのことは大して興味を引かれなかったらしく、少年は新たに聞いてきた。
「その本、10巻まであるけど、全部読んだ?」
「えぇ!?この巻だけで完結してるから、これだけしかないと思ってた!読みたい!」
「貸そうか?こんなに話の合う人に会えてすごい嬉しい」
そう言って、本当にうれしそうに笑う彼。しかし、私は言葉に詰まる。
「ごめん。私、この病室に入れる物にはかなり厳しい審査がいるの。だから、続きは病院側で用意してもらうわ。気持ちは嬉しいよ。ありがとう」
精いっぱいの誠意意を込めて私は言った。私自身、とてもうれしかったから。話の合う同年代の男の子。これはもしかして友達というものかもしれない。この病院に入院して、初めて友達ができた。
「診察の時間ですよ」
突如、少年の背後からいつもの医師が姿を現した。あまりに突然で驚いて、バランスを崩すところだった。老人ではないが、今こけて骨でも折ろうものなら、死ぬまで動けるようになる自信はない。それほどまでに私の体はぼろぼろなのだ。
医師は少年を一瞥すると、「・・・君も、早くいきなさい」と、若干低い声で言った。行くってどこへ?と思った私の疑問が通じたわけではないだろうが、少年は
「妹が入院してるんだ。それのお見舞いに。・・・あ、これ」
そう言って少年は手にしていた小さな花束からピンク色の花を一本ぬきだした。それをタッチパネルの横に備え付けられた小さなテーブルに、同じく備え付けられた花瓶に挿した。
テーブルも花瓶も、私の病室には見舞い品の持ち込みができないため、外に置くスペースが設けられているのだ。家族の見舞いすら2年前から途絶えていたので、この花瓶に花が活けられる日など、もう、私が死んだ時ぐらいだと思っていた・・・。
「おすそわけ」
目を細めてニッと笑い、軽く手を振って少年は去って行った。