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私と彼の物語  作者: kano
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私の幸せ


 無機質な白い箱の中。ここが、私の世界のすべて。




 ガラス窓の向こうで、白衣の医者や看護師たちがせわしなく動く様子が視界の端に見える。しかし音は一切聞こえない。まるで音の出ないテレビのよう。しかし、これほど面白くないテレビもないだろう。白い人間たちがただひたすらに行きかう映像など。

 私はその光景から逃れるように、窓に背を向け、手元の本にだけ集中した。真っ白なシーツの引かれたベッドに腰掛け、小さな文字を追っていく。

 ページをめくろうと右手を動かした。すると、ピリッとした痛みが走った。


「っ痛・・・!」


 指先からひじに駆けて、真っ赤にはれあがり、その上に白い水泡がぷつぷつと浮かび上がっている。上手く指が動かない。


「今度は何・・・?」


 私はその醜い斑点をまじまじと凝視した。およそ人間の皮膚とは思えないグロテスクな様子であるにもかかわらず、私は気持ち悪いと思うよりも、半ばあきらめたようなため息を漏らす。それはまごうことなき自分の腕であるのだが、もうこのような光景も見慣れた。うずくような不快な痛みを訴える腕を、まるで人ごとのように眺める。そして何事もなかったかのように読書に戻った。

 ふいに背後でブザーが鳴った。振り向くと白衣を着た初老の医師がガラスの向こうに立っていた。急に外の騒音が室内に流れ込んでくる。


「やぁ、調子はどうだい?」


 私はその作り笑いを張り付けた顔を一瞥し、すぐに視線をそらした。そして短く答える。


「変わりありません」

「そうかい・・・うん?」


 医師が私の手に気付いた。


「手が炎症を起こしているじゃないか!」


 医師は眉根を寄せて不機嫌そうな声を出した。「そういうことはちゃんと言ってくれないと」

 私は文庫本に視線を向けながら「あぁ、いつものことなので気がつきませんでした」とあくびれもぜずに答えた。


「今度はなんの成分に反応したんだ?今朝の点滴にはおもにビタミン類しか入っていなかったはずだが・・・。これは詳しく調べてみないと。おっと、テストするからこちらにきなさい。・・・あぁ、そこの君!今朝この子に打った輸液の成分表を持ってきてくれ」


 医師は近くを通りかかった看護師に声をかけると、ガラスの向こう側にある機械のタッチパネルを操作した。ピピッという電子音が鳴り、次に彼は首から下げていたカードケースの中に収めたIDカードをその機械にかざした。


「いつものように、そこに手を入れるんだ」


 相変わらずうそくさい笑顔で、しかし有無を言わせない低い声で医師は私に命令する。逆らうのも面倒なので私はおとなしく、ガラス窓に近い場所に設置された機械の中に手を突っ込んだ。いつものようにチクリと針のようなものが刺さる感触。「はい、もういいよ」医師の声とともに私は手を引っこ抜いた。左手の甲に一ミリほどえぐられた後。私の皮膚の組織を採取したのだろう。

 そうこうしているうちに医師が指示した看護師がファイルを抱えて戻ってきた。「今日の診察はこれで終わりだ。後はゆっくり休むといい」そう言い残して、医師は看護師とともに歩き去って行った。ブツンという音とともに外の世界の音がすべて遮断され、室内はまた静寂に包まれた。



 私がこの箱の中に閉じ込められて3年がたつ。もちろん監獄ではない。ここはれっきとした病院だ。

 3年前の春、私は難病を発症した。病名は多発性アレルギー症候群。しかしあくまでこの病名は仮のものである。なぜなら発症したのは世界で私だけの新病であるからだ。

 病状は、その名の通り、アレルギー反応を多発するというもので、はじめはごく軽い、それこそ牛乳や卵の食物アレルギーのみだったのだ。しかし、時間の経過とともに、アレルギー物質は増えて行き、空気中のちりや、いくつかの有機物にすら反応するようになった頃、私はこの隔離病棟に入れられた。この病棟は基本的に難病患者が入れられているが、私以外の病室は単なる集中治療室だ。それに対して私のこの部屋は完全なる無菌室である。無菌どころか、この部屋の空気、すなわち酸素と二酸化炭素と窒素さえもが、完璧に人工的に作り出されたもので、人の手でコントロールされいる。わずかにも不純物が含まれない。部屋の隅にある水道から出る水も、人工に作られたものだ。完全なるH2O。それのみしか含まれないため、本当の意味で無身無臭。

 先日、この水にわずかに混入した塩素で死にかけた。体中にジンマシンが広がり、激しくおう吐を繰り返し、脱水症を引き起こして意識が1週間ほど混濁した。そのまま死ねればよかったのに、ここの医師たちの、頼んでもいない献身的な医療によって私は一命を取り留めてしまった。

 もう死んでしまいたい。何度もそう思ったけれど、それを許してくれる人はいなかった。医師たちは別に私の命を助けたいと思っているわけじゃない。私は知っているのだ。この前代未聞の病気は世界でかなり注目されている。発症から3年。いまだ他の人がかかったという情報はなく、しかし衛生環境下で育った人間たちにとって、アレルギーとは切っても切れないほどに近年増えてきている。私と同じ病を発症する可能性は大いにある。

 ようは、私はモルモットなのだ。この病院はその貴重なモルモットを世界で唯一所有している優位な立場であり、世界中が私の病状や生態を詳しく知りたがる。その情報を公開するだけで何億という金がこの病院、この国に入る。そしてもし、私を使ってこの病気の治療法を発見できれば、それこそ莫大な資金が動き、日本は一躍世界医療のトップに躍り出るだろう。

 そんな状態で、医師たちが私という貴重な実験材料を簡単に死なせるわけがないのだ。なにがなんでも生きながらえさせる。本人の意思はそっちのけで。

 こういうのは倫理に反しないのだろうか?医療における倫理はどうした。コンプライアンスは?患者の選択を尊重するというあの概念はどこへ行った?今、この場で舌をかみちぎって自殺を図っても、最先端の医療技術でもって、私は蘇生させられる。私には死の自由すらない。物言わぬマウスのように、この命が尽きるのをただただ待っているのだ。

 しかし、それももうすぐだろう。最近頭がふらつくのだ。おそらく栄養が足りていない。私は半袖の患者服の裾からのぞく枯れ枝のような腕を見た。太陽の光にあたっていないため、不気味なほど白く、青い血管がうき出ている。

 ここに入った当初は、栄養の豊富な食事が出ていたが、日に日にアレルギー物質が増えて行くと、食べられないものが増え、1年ほど前からは自然の物を食べる機会は全くなくなった。全ての成分が分析、調合されたゼリーやドリンク、はたまた輸液で栄養を賄っている。しかしそれももう限界だろう。もともと人間の体は輸液で保持できるものではない。空腹という感覚は、意に食物を入れなくなって久しいためとうの昔に失われたが、やせ細った体とめまいから栄養不良は歴然としている。それでもなお1年近くも私を生かしておけたのだから、本当にこの病院の医療技術は高度なものだと言えるだろう。

 私の体はほとんどの物を拒絶している。タンパク質はとうの昔に摂取不能になり、今までいくつかのアミノ酸だけでなんとか筋肉やその他の組織の機能を賄ってきた。しかし、ここ最近、立てつづけにそのアミノ酸にアレルギー反応が出ている。

 ビタミン類もそうだ。本来、タンパクやアミノ酸類にしかアレルギーは起きないとされていたが、私の体はいくつかのビタミンも拒絶する。ビタミンCが摂取不能になり、しかしそれは体には欠かせないものらしく、還元型やらなんやらと形を変えて、なんとか摂取できるようにしていたらしいが、今朝のあの医師の様子からすると、それももう限界らしい。

 今の私は、アレルギー反応に殺されるか、はたまた、栄養不良で死ぬか、どちらかだ。そして死を前にして恐れるどころか、一種の幸福感すら覚える私は、きっと不幸なのだろうな、と人ごとのように思った。

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