No.49 ……匕、怒ってた
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今日も出掛ける事は無く、広間で過ごしていた。何をするでもない。いつものように、静かにソファに座って。
映されたテレビの画面では、女の人が何かを喋っている。テレビ画面の右上に表示されている時間は九時五十五分。もう少しでアイスが食べれる時間になる。
「っはー、お腹一杯。ごちそうさまっと」
広間には私一人じゃなく、もう一人。深雪が居た。
深雪は今日から仕事はお休みらしく、いつもより遅く起きてきた。
「いやー、起きたら御飯があるって有り難いわねぇ。匕君に感謝感謝」
朝ご飯を食べ終え、橋をテーブルに置いて手を合わせる深雪。私と匕の朝ご飯を作るついでに、匕が深雪の分まで一緒に作ってあげた。
今日の朝ご飯は野菜炒め。具材は同じでも味付けが違うと匕は言っていた。あと、モヤシは安くて量が多くて助かるとかなんとか。
そして、その匕は今居ない。この時間いつもなら、広間で一緒にテレビを見ているのに今日は居なかった。
朝ご飯を一緒に食べた後に広間でゆっくりしていると、匕が凄く眠たそうにしていた。そこに深雪が起きてきて、代わりに匕は自分の部屋に戻って寝ている。
だから今は匕は居なくて、広間に居るのは私と深雪の二人だけ。
ソファのいつも居る筈の左隣には誰も居なくて、なんか少し変な感じがする。
「けど、こう毎日野菜炒めじゃあねぇ……モユちゃん、飽きたりしない?」
「……うん、大丈夫」
首を横に振って深雪に答える。
「……深雪は飽きたの?」
「私は学生時代で慣れてるしねー。それに作ってもらってるんだから文句なんて言える立場じゃないしね」
コップに入った麦茶を飲み、深雪は笑いながら話す。
「……モユちゃんだって、お肉とかお魚が食べたくなったりしないの?」
「……私?」
肉や魚は食べた事はある。けど、別に好きでも嫌いでもない。出されたら食べる。
野菜だって同じ。好きでも嫌いでもない。だから、別に毎日が野菜炒めでも苦じゃない。
「……私も、大丈夫」
――――けど。
「……匕が作ってくれたのは、全部おいしいから」
匕が作ってくれたのなら、なんでも好き。肉でも魚でも野菜でも。それが毎日続いたとしても。
匕が私に作ってくれたものなら、好きだ。
「本当、匕君に懐いてるわね、モユちゃん」
「……なついてる?」
「匕君の事が好きって事よ」
テーブルに肘を付いて、深雪は微笑みながら言う。
「……うん」
それに、私は小さく頷く。
うん、私は匕が好きだ。匕だけじゃない。沙姫も沙夜も、深雪も白羽もエドも。
この色がある世界に来てから出会った人達は、皆好き。優しくて、温かくて、嬉しい。それで好きにならない訳が無い。
けど、その中で一番匕が好き。
「……あ」
「ん? どうかした、モユちゃん?」
ある事に気付き、小さな声が出た。テレビに表示されている時間が十時になっていた。
しかし……。
「……匕」
そう、匕がいない。
せっかく十時になっても、匕の許可がないとアイスを食べれない。
「匕君? 匕君ならまだ部屋で寝てるんじゃないかしら? 何か匕君に用があったの?」
「……十時になった」
「十時……? あー、そっか、アイスの時間か」
テレビの画面を見て、深雪も時間に気付く。
「冷蔵庫にあるのよね? 取ってきていいわよ」
「……いいの?」
「匕君に十時になったらあげてって言われてたからね。気にせず持ってきなさい」
「……うん」
頷いてソファから降りる。
「あ、モユちゃん」
「……なに?」
「私、ちょっとお風呂に入ってくるから。昨日入り忘れちゃってねぇ。だから少しだけ一人で待ってて」
「……うん、わかった」
深雪にもう一度頷いて返し、広間から廊下に出る。相変わらず視力は治らず、少し離れた先はぼやけてよく見えない。
それでも構わず、駆け足で給湯室へ向かう。廊下には段差は無いし、給湯室までは一直線。それなら視力が悪くても転ばずに行ける。
給湯室に着いてドアを開けて中に入り、冷蔵庫を開ける。
「……っ」
だが、そこで問題が起きた。開けた冷蔵庫。いつもアイスが入っている所には、アイスが一つだけしか入っていなかった。
いつもなら何も問題は無い。この一つだけあったアイスを食べればいいだけだから。けど、このアイスは見覚えがあった。それは緑色のカップアイス。
そう、これは匕のアイス。残しておけと言われてたものだった。緑色のアイスを手に取って、冷蔵庫の中をもう一度覗いてみても他にアイスは無い。
匕がアイスを買いに行ったのは二日前。買ってきたのは五つで、一つはこの緑色した匕のアイス。私が食べていいのは四つ。内二つは昨日食べた。
なら、あと二つ残っているはず……。
「……あ」
数が合わないと考えてみると、その答えはすぐ出てきた。
「……昨日、倒れた時に」
そうだ、例の症状が起きて倒れてしまい、その時に幾つかアイスを潰してしまったんだった。
「……どうしよう」
手に持つ緑色のアイスを見る。
アイスを食べたいけど他に無い。けど、匕は部屋で寝ていて買ってきて貰えない。
どうしよう……。
「……深雪」
確か深雪は、匕から私にアイスをあげるように言われたって言っていた。なら、この緑色のアイスの事も何か言われたかもしれない。
深雪に聞いてみよう。
冷蔵庫のドアを閉め、給湯室を出る。来た時以上に急いで広間に戻る。アイスが溶けてしまわないように。
「……深雪」
広間に着いて、中に入るのと同時に名前を呼ぶ。
しかし、私の声が小さく響くだけで返事は無かった。返事だけでなく、深雪の姿も。
テレビも消されており、広間に聞こえるのは外で鳴いている蝉の声だけ。
「……あ」
ふと、給湯室に行く時に深雪が言っていた事を思い出した。
「……お風呂に行ってるんだった」
誰も居ない広間でぽつりと呟く。
手には冷たいアイス。匕のアイス。食べてはいけない、アイス。
「……どうしよう」
アイスを食べたいけど他にアイスが無い。匕は寝ている。深雪はお風呂。
手に持つ緑色のアイスをじっと見つめる。とても美味しそう。ひんやりと冷たさがカップ越しから手に伝わってくる。
でも、これは匕の。私のは昨日で全部食べてしまった。
このまま深雪がお風呂から戻ってくるまでアイスを持って待つ訳にはいかない。
せっかくの美味しいアイスが溶けて台無しになってしまう。
「……うん」
私は小さく頷いて決意し、給湯室へとまた駆け足で向かった。
* * *
時間は過ぎてお昼。
深雪とお昼ご飯を食べ終えて、広間でテレビを見ていた。匕はまだ起きてこなく、広間には私と深雪だけ。
ご飯を作ってくれる匕が寝ていて居なく、代わりに深雪が用意してくれた。食べたのはピザというので、パンみたいなものの上に色んな具材が乗っていた。
ピザは深雪が作ったのではくて、電話をしたら事務所に届けられた。電話をするだけでご飯が届くなら、匕も使えばいいのに。
食べきれなくて残ったのが数切れ。テーブルに置かれている。
ピザと一緒に届けられた缶のジュースを飲む。前に沙姫の家で飲んだソーダと似ていて、舌がピリピリする。
味は違うけど、これも甘くて美味しい。何口か飲んでテーブルに置く。
「あ、匕君、おはよう。よく寝てたわねぇ」
テーブルに頬杖をしてテレビを見ていた深雪がテレビから視線を外し、広間の入口の方を向いていた。
私も釣られるように同じ方を見る。
「お陰様で。久々に昼まで寝たよ」
そこにはようやく起きてきた匕が居た。
「よっ、モユ。おはよう」
寝癖が付いた黒い髪を小さく揺らしながら、匕がこっちに来た。
「……こんにちは」
「はい……?」
挨拶を返すと、匕は首を傾げた。
「……今はお昼だから、おはようじゃない」
「こ、こんにちは?」
「……うん、こんにちは」
こくん、と頷いて挨拶を返す。
「って、おっ? ピザがある」
「お昼に頼んだのよ。作るのは面倒だし、外は暑いから出たくないしねぇ」
苦笑いしながら窓の外を眺める深雪。
「いつ起きてくるか分からなかったから、匕君の分は頼んでないのよ。ごめんねぇ」
「あぁいや、いいよ別に」
「食べきれなくて余ったのがあるから、それで良かったら食べて」
匕はテーブルに置いてあるピザを見る。
「えっと、モユちゃんが頼んだのは……小さい方がシーフード。で、もう片方が照り焼きチキンだから」
「んじゃ、有り難く頂きます」
近くのソファに座り、匕は手を合わせてからピザを食べ始めた。
「そう言えば、深雪さん今日休みって言ってたけど、それってお盆休み?」
「えぇ、そうよ。少しズレてだけど、今日から四連休よ」
ピザを食べながら話す匕に、深雪は嬉しそうに微笑む。
「深雪さんは実家に帰ったりはしねぇの?」
「お盆は帰らないわねぇ。お正月には帰るんだけど。私の実家って田舎だから遠いのよ」
「へぇ」
「それに、帰ったら帰ったで親父がうっさいのよねぇ。結婚はまだかとか、早く孫の顔がみたいとか、見合いしろとか……」
深雪は腕を組み、段々と表情が怖くなっていく。
目は据わって眉毛を釣り上げ、さらにその片方の眉をピクピクと動いている。
「あの、深雪さん……?」
「へっ? あぁ、ごめんね! ちょーっち嫌な事を思い出しちゃって」
匕が名前を呼ぶと、深雪は組んでいた腕をほどいて慌てて手を振る。
表情も元に戻り、少しぎこちない笑顔になった。
「そういう咲月君こそ、学生なんだし実家に帰ったり……あ、ごめんなさい」
「ん? あぁ、いいですよ、気にしないで。俺も大して気にしてないし」
何か悪い事を言ったのか、口に手を当てて謝る深雪。
しかし、匕は気にしない様子でピザの最後の一口を口に入れた。
「それに帰ったら帰ったで、深雪さんと同じで親父に何を言われるか分かんねぇし」
口に入れたピザを飲み込み、何気無しに天井を見上げる匕。
「それなら、こっちでダラダラしていた方がよっぽど有意義だよ」
そして、見上げるのをやめ、小さく苦笑い。
どこか、なんか。その匕の表情には少し、寂しさがあるようにも見えた。
「ごっそさんでした」
匕は余っていたピザを全部食べ終え、パンっと手を合わせる。
「じゃ、ピザの箱とかは俺が片付けるんで」
空になったピザの箱を重ね、匕が綺麗にまとめていく。
「あら、悪いわねぇ」
「タダ飯を頂いたからこれくらいは。その缶、空なら一緒に捨ててくるけど?」
「私のはまだ入ってるからいいわ」
「モユのは?」
「……入ってる」
「んじゃ、ちょっくら給湯室に行って捨ててくるわ」
匕はピザの空き箱を持って広間から出ていった。多分、給湯室には大きめのゴミ箱があるからだろう。
「んんーっ、こう昼間からゆっくり出来ると休み! って感じがするわねー」
一度両腕を上に伸ばして、深雪はテーブルに俯せる。ピザの箱が無くなってテーブルはすっきりして広くなった。
テーブルからジュースの缶を取って一口飲む。口の中がピリピリシュワシュワする。
前に飲んだソーダは透明な色をしてたけど、今飲んでるのは黒い。コーヒーは苦くて美味しくなかったけど、これは甘くて美味しい。
『――――――――!』
もう一口。飲もうと缶を口に付けようとした時。
どこからか叫び声が響いて聞こえてきた。思わずビクッと身体が跳ねてしまった。
「今の、咲月君の声よね……? 何かあったのかしら?」
深雪も聞こえたようで、少し驚いた顔で広間の入口を見る。
私はジュースの缶をテーブルに戻す。匕が叫んだ理由。私はそれに心当たりがあった。
数分後、匕が広間に帰ってきた。
「匕君、給湯室で叫んでたみたいだったけど何かあった?」
「はぁ、実はちょっとしたハプニングがあって……」
ソファに座り、大きな溜め息を吐く匕。
匕が話す度に、私の心臓の音が高くなる。
「俺が昨日買っておいたアイスが無くなってたんだよ……」
そして、この言葉にドキンと心臓がさらに五月蝿くなる。
同時に、身体が熱いような寒いような、とにかく落ち着かない。
「知らないわねぇ……私は自分のは自室の冷蔵庫に入れるようにしてるし」
「だよなぁ。なぁモユ、お前知らねぇ……」
匕が私の方を見てきて、思わず目線を逸らしてしまう。
そう、私は結局我慢出来ずに、匕の緑色したカップアイスを食べてしまった。
悩んだ末に給湯室へスプーンを取りに戻って、気付けばアイスの蓋を開ける自分が居た。
アイスを食べてしまった後ろめたさと怒られるという恐怖から、匕と目を合わせられなかった。
「モユ……?」
匕は私が食べてしまったと気付いて、ソファから立ち上がってゆっくりとこっちにくる。
そして、頭を掴まれ、横を向いていた顔を無理矢理正面に向かせられた。
「何か言う事があるんじゃねぇか?」
「……美味しかった」
そう答えると、匕は納得したように数回無言で頷いた。
「って違ぇだろ!」
と思えば、大きな声でそう言われた。
アイスが美味しかったのは本当。今まで食べた事のない食感と味だった。
「はぁぁ……もういいや、なんか気が抜けた」
匕は私の頭から手を離して、がっくりと肩を落とす。
「はぁ……ったく」
匕は溜め息を吐いて、がしがしと頭を掻きながら広間の入口へと歩く。
「匕君、どこ行くの?」
「白羽さん所。ちょっと用事があっからさ。部屋に居るよな?」
「えぇ、出掛けていない筈だから、部屋に居ると思うわ」
「ん、あんがと。深雪さん、午後もモユの事頼むよ」
手をひらひらと上げて、匕は広間から出ていった。
「あっはは、モユちゃん、匕君のアイス食べちゃったんだ」
「……うん」
テーブルに両肘を付いて笑う深雪。
「……匕、怒ってた」
「怒ってた? 匕君が?」
「……うん」
視線を落として、深雪に頷いて答える。
やっぱり、匕はあのアイスが食べたかったんだ。なのに私が食べてしまったから怒ってた。
大きな声を出されたし、広間から出ていく匕は見て分かる位に落ち込んでた。
どうしよう……。
「そんな気にしなくて大丈夫よ、モユちゃん。匕君なら怒ってなんかいないわよ」
「……ほんとう?」
床に向けていた視線を上げて深雪を見る。
「本当本当。アイスを食べられて怒るような小さい人間じゃないわよ、匕君は」
「……小さい? 匕は私より大きい」
「ははっ、そういう意味じゃないんだけどね。心配しなくて大丈夫よ、次に広間に戻ってきた時にはケロッといつもの匕君になってるから」
「……うん」
そう言って微笑む深雪の顔を見たら不思議と安心して、頷く。テーブルの缶を手に取って、少し温くなったジュースを飲む。
そう言えば、匕に怒られた記憶があまりない。
初めてこの事務所に連れてこられた時に、一度だけ匕が怒ったのを見た。
悔しそうで、悲しそうに、怒っていた。悲しい事を、怒る事をしらない私の代わりに怒ってくれた。
その時は匕が怒る理由は解らなくて不思議に思っていたけど……今なら少し、解る。
そして、理由が解らないのに、匕が怒ってくれた事が嬉しく感じていた私が居たのも、覚えてる。
残り少なくなったジュースを一気に飲み干して、ソファから降りる。
「モユちゃん、どこか行くの?」
「……ごみ、捨ててくる」
手に持つ空き缶を深雪に見せて返す。
広間にもゴミ箱はあるが、缶は給湯室にある『燃えないゴミ』のゴミ箱に捨てなきゃならない。
「それなら私が後で捨てておくわよ。目だってまだ治ってないんだから」
「……大丈夫、もう慣れた」
「本当に大丈夫?」
「……うん。あと、トイレにも行きたいから」
「分かったわ。転ばないように気を付けてね」
「……うん」
一度頷いてから、廊下に出る。
治る気配の無い視力が落ちた目で、頼りない視界の中で給湯室に行く。
中に入って、『燃えないゴミ』と書いた紙が貼ってある大きめのゴミ箱に缶を捨てる。
「……うん」
缶をちゃんと捨てたのを確認して、用は済んだので給湯室から出る。
給湯室のすぐ隣。トイレに向かう。トイレは男性用と女性用と別れてて、少し広い。
視力が落ちていても近くなら普通に見える。手こずる事も無く、素早く用を済ます。
トイレの水を流し、ドアの隣にある水道で手を洗おうとした時に、鏡に目がいった。赤茶い髪、赤茶い眼。落ちた視力でもはっきり見える赤茶。
視力が落ちたまま治らず、身体も時折動かなくなる。その間隔もどんどん短くなってく。自分で解る。この身体はもう長くない事は。
だけど、まだ保っている。まだ、生きていられる。
いつか来るその時まで、私は私として――――。
『いつかって、いつ?』
「……ッ!」
頭に響く、聞き覚えのある、聞き間違える事の無い、聞き慣れた声。私の、声。
鏡の向こうの私が、無表情で私を見つめる。
『いつかなんて、いつか解らないのに』
同じ赤茶い髪をして、同じ赤茶い目で見つめ、同じ顔で話す、鏡の少女/私。
『いつかっていつ? いつになったらいつかが来るの? いつかくるいつかって、いつ?』
無表情。ただ淡々と機械のように言葉を話す少女/私。
私の声なのに耳障りで、私の顔なのに不気味で、私の眼なのに怖い。
『いつかがいつなのか誰にも解らない』
感情も無く、表情も無く。少女/私は私/少女に言う。
『来月か、来週か、三日後か明後日か明日か今日か。もしかしたら来年……それか――――』
目を細め、無感情で無表情のまま。
『今かもしれない』
鏡の中の少女/私はそう言った。
「……ッ」
蛇口を捻り急いで手を洗う。心臓が五月蝿くて、気分が悪く、君も悪い。
言い様の無い不安と焦りを感じて、とにかくこの場所から早く離れたかった。
一人が嫌で、怖くて。誰かに会いたかった。会って、話して、見て。私はまだここに居ると、生きている事を感じたかった。
蛇口を閉めて水を止め、手が濡れたままでトイレから出る。廊下に出ると、玄関の方へと曲がる人影が見えた。
一瞬だけだったが、確かに見えた。黒い髪に、見覚えのある服。
今のは確かに匕だった。
「……匕」
名前を呼んで、匕を追って私も廊下を曲がる。
いつもみたく笑って、あの大きな手で頭を撫でてくれたら。この不安と焦りも、きっと全部消えてくれる。全部平気になれる。
――けど。
「……さ……」
がらんとした、やけに広く見える廊下。
廊下を曲がりきった時には、匕の姿はもう見えなかった。
ただ、ガシャンと玄関のドアが閉まる音が聞こえただけだった。
「……匕」
名前を呼んでみても、姿が無ければ当然返事も無い。立ち尽くして、誰も居ない廊下をただ眺める。
姿を見掛けて会えると期待した分、大きく気落ちしてしまう。匕は私に気付かなかったのか、止まりもせずに出ていってしまった。
本当に、気付いてなかった……?
本当は私に気付いていたけど、気付かないフリをしていたんじゃ?
なんでか。それは私が匕のアイスを食べちゃったから。スカートの裾を握り締める。
気分は落ち込み、足が重く感じて歩くのが遅い。自然と視線は足元に落ちて、アイスを食べた事を後悔する。
気付けば広間に戻ってきてて、視線を上げて広間に入る。
広間でテレビを見ていた深雪が、戻ってきた私の方を向いた。
「あ、お帰り、モユちゃん。たった今、匕君が出掛け……って、どうかしたの?」
私の様子が違う事にすぐに気付いて、深雪が聞いてくる。
「……匕、やっぱり怒ってた」
「え?」
「……さっき廊下で匕を呼んだのに、止まらないで出ていった」
また視線を落として俯き、スカートをきゅっと握る。
「……私がアイス食べたから怒った」
「んー……」
深雪は視線を斜め上にやって、後頭部を掻く。
「……私、匕に嫌われた」
「あー……うん、よし!」
バンッとテーブルを叩き、勢い良く立ち上がる深雪。
その音に驚いて、思わず俯かせていた顔を上げる。
「モユちゃん、ちょっと待ってて!」
すると、深雪は私の返事も待たずに走って広間から出ていってしまった。ほんの数秒の事で、ぽかんと広間の入口を黙って見つめるしかなかった。
点けっぱなしにされたテレビから音声が流れ、私だけ残された広間には妙に大きく聞こえる。
静寂かだとまたあの声が聞こえてきそうで、テレビの音声が少しありがたかった。
匕は出掛けてしまい、深雪もどこかへ行ってしまった。ソファに座る。一人だけになった広い部屋で。
一人……そう言えば、ここに来てから一人だけになる事はほとんど無かった。必ず誰かが近くに居て、どこかに人の声があって、いつも隣に匕が居てくれた。
研究所に居た時は一人の時間が多くても平気だったのに……今はこんなにも寂しくて、落ち着かなくて、怖い。
やっぱり一人は、一人ぼっちは……嫌い。
「お待たせ、モユちゃん!」
不意に名前を呼ばれ、驚きながらも広間の入口を見ると深雪が戻ってきていた。
さっきまでのTシャツの姿ではなくて、いつも着ているスーツに変わっていた。
「さ、行くわよ」
「……?」
「モユちゃんが食べちゃったのと同じアイスを買ってあげれば、匕君きっと喜ぶわよ?」
「……いく」
頷いて答え、急いでソファから降りる。
「何て言うアイスか覚えてる?」
「……緑色のカップアイスだった」
「うーん、それだけじゃ絞りきれないわねぇ」
難しそうな顔をして、深雪は腕を組む。
確か広間のゴミ箱に空箱を捨てたから、それを見せれば分かるかもしれない。
ゴミ箱を取ってこようと振り向くと、テレビの画面に見覚えのある物が映っていた。
「……あ」
それは私が食べてしまったアイスと同じ物だった。
「……深雪、これ」
深雪の服を掴んで引っ張り、テレビを指差す。
「えっと、よもぎ饅頭ジェラート? このアイスだったの?」
「……うん」
「新発売って書いてあるけど、なんか危険そうな香りがするわね……美味しいのかしら?」
「……おいしかった」
「え?」
「……おいしかった」
「そ、そう」
うん、と頷いて深雪に教える。
「よし、お目当てのアイスも分かったし出掛けましょうか」
ちゃり、と小さな金属音を鳴らして、深雪は手に持った鍵を私に見せてきた。
「私が一緒とは言え、長時間モユちゃんを歩かせる訳にはいかないからね。白羽さんから借りてきちゃった」
テーブルにあったリモコンでテレビを消して、深雪と一緒に広間から出る。廊下を歩いて玄関に向かい、スリッパを脱いで外靴に履き替える。
外に出ると太陽の光が眩しく、空気もむわりとしてて暑い。
「こっちこっち」
深雪に手招きされて後を付いていくと、事務所の裏側に白い車があった。
この車は覚えている。私が匕と再会して、白羽にここへ連れてこられた時に乗ったものだ。
「モユちゃんは反対側ね。さ、乗って乗って」
深雪は鍵で車のドアを開けて乗り込む。さっき見せてきた鍵はこの車のだったらしい。
言われた通り反対側のドアを開けて私も車に乗る。
中は外よりも暑くて、額には汗が出てきた。こんなに暑いと、アイスだったら一瞬で溶けてしまう。
「暑いけど少しだけ我慢してね。すぐに涼しくなるから」
深雪はさっきの鍵を丸い円形の取っての下に差し込むと、車が小さく振動し始めた。
「ちゃんとシートベルト締めるのよー」
「……シートベルト?」
「そそ。こうやってね」
深雪が肩の少し上辺りにあった金具を引っ張ると、伸びてベルトみたいなのが出てきた。それを椅子の腰辺りにあった出っ張りに嵌める。
同じように真似して、私もシートベルトを付ける。
「それじゃ出発」
深雪が円形の取ってを握って軽く回すと、車が動き出す。
「……深雪、運転出来たんだ」
「出来るわよー。運転するのは久々だけどね。仕事だといつも電車しか使わないから」
事務所に接した道路を左に曲がって出て、窓から見える景色が流れていく。
「ま、立花町までは道のりは簡単だし、久しぶりの運転でも大丈夫でしょ」
「……かんたん?」
「ほら、あそこにコンビニがあるでしょ? そこの信号を右に曲がればあとは真っ直ぐ行くだけで着くからね」
言われて正面を見てみると、少し先にお店と信号機があった。深雪は器用に円形の取ってを回して車を動かし、その信号機を右に曲がる。
冷たい風が流れてきて、車の中は段々と涼しくなってくる。
木や電柱、時々人。車の窓から眺める景色は色んなのとすれ違っていく。遠くの景色はぼやけて良く見えないけど、やはり色のある世界は綺麗。
この世界を教えてくれて、連れ出してくれたのが匕だった。
いつも一緒に居てくれるのも、ご飯を作ってくれるのも、アイスをくれるのも、大きな手で頭を撫でてくれるのも。
私は、匕が好き。優しくて、温かくて、安心して。沙姫も沙夜も深雪も、白羽もエドも好き。みんな好き。でも、匕が一番好き。
だから、嫌われたくない。謝って、許してもらって、また笑って欲しい。
車の中から、空を見上げる。頼りない視力でも、晴れ渡った青い色は見える。
きっと同じのをあげて謝れば、匕は許してくれる。許して、笑ってくれる。
アイス、見付かるといいな。




