No.2 ヒトよ
* * *
あれから、どれだけの時間を眠っていたかは解らない。
ただ、再び目が覚める切っ掛けとなったのは、ある音だった。
ゴウン、という、小さな振動と一緒に聞こえてきた異音。
そして、身体を包んでいた浮遊感が弱まっていくのに気付く。
浮遊感を作り出していた原因である、筒内に満たされていた液体がゆっくりと抜けていった。
液体が全て抜かれ、浮く事が出来なくなった身体は地面に座り込む。ひたり、と肌に触れる地面の感触は冷たい。
座ったまま辺りを見回してみるも、前に目が覚めた時と同じで黒い闇が広がっていた。
見えるのはやはり、自分自身だけ。淡い光が濡れた四肢を僅かに照らしていた。
――――ゴウ、ン。
また聞こえてきた、重々しい音。
さっきは音が聞こえたら液体が無くなっていった。
なら、次はまた液体が中に注入されるのだろうか……なんて、考えた時だった。
予想とは反して液体など何処からも入ってこない。代わりに、筒状のガラスが徐々に下がっていく。
丸く囲んでいたガラスは全て地面に埋まっていき、閉塞感が無くなり、視界が急激に広くなった錯覚に陥る。
闇だけが広がっていた筈の辺りは、薄暗くも灯りは点いていて、緑色に淡く光る丸い箱が無数に並んでいた。
音だって聞こえる。あんなに静寂だったのに、今は小さな機会音が辺りから耳に入ってくる。
そこで、今開けられたガラスの壁が外の光や音を遮断していたんだと気付く。ほう、と辺りを見詰めていたら、濡れた前髪から水滴が一粒滴り落ちた。
「なんや、随分とけったいな実験体やな。まだガキんちょやないか」
初めて聞いた声は、それだった。音では無く、人の声。
視線を声のした方へと向けると、そこに居たのは金髪を三つ編みにした男の人。
前髪も長く、目元まで伸びていて目が見えない。背が高く、露出された腕は見るからに太く筋肉質だというのが解る。
「ほんまにちゃんと作ったんかぁ、これ」
金髪の男は愚痴るように喋り、首を横へと曲げる。
「あら、失礼ね。これでもちゃんと設定通りに作ったのよ?」
コツ、と小気味の良い音を鳴らして、姿を現したのは白衣を身に纏った女性。
肩よりも短く、ウェーブの掛かった黒い髪。そして、口には白くて細い棒みたいなのを啣えている。
「しっかしなぁ……小便臭いガキにしか見えへんて。見た目からして失敗作っぽいやないか」
「遺伝子操作、成長の促進、ホルモンやテロメアの調整、睡眠学習にエトセトラ。これだけ身体を弄くり回してるのよ? 多少のエラーが生じてしまっても無理は無いと思うけど」
「まぁ、な。目覚めもせんと、途中で廃棄されたモンもぎょーさん居ったもんなぁ」
ズボンのポケットに手を入れたまま、男は肩を竦ませる。
「で、このガキ……えと、実験体番号は何番や?」
「さぁ?」
「あんなぁ、アンタが造ってんやろ。番号ぐらい覚えときぃや」
「無理言わないで欲しいわね。途中廃棄されたのも含めて何体あると思ってるの。軽く万を超えてるのよ? 覚えるのすら馬鹿らしい。百から先は覚えてないわ」
「言われてみりゃそうやな。けど、なんて呼んだらええねん?」
「アレでもソレでもコレでも、好きなように呼べばいいじゃない」
「ま、それもそうやな。で、あの格好はどうにかならへんのか?」
金髪の男は話しながら、私を指差す。
「いつまですっぽんぽんのまま放置すんねん」
「あら、意外。あなたってそういう趣味だったの」
「アホ抜かせ。俺は至って一般的で普通の趣向の持ち主や。ロリちゃうわ」
「別に責めてる訳じゃないわ。年下もアリだと思うわよ?」
「加えれば、どっかの三十路超えた売れ残りにも興味あらへん」
「あら、残念」
微かに唇を斜めにして、白衣の女は近くの棚に置いてあった毛布を一枚取り出す。
それを広げて、私の背中から被せてきた。
つい、と顔と視線を上げる。
「……あなた、誰?」
目の前に立つ女性への問い。それが初めて会話として口にした言葉だった。
「あら、ようやく喋ったわね、この子」
私を見下ろして、白衣の女は啣えた白い棒を上下に動かして話す。
「私はあなたの産みの親、って所ね。名前は……そうね、機会があったなら今度教えてあげるわ」
言って、また唇を釣り上げた。
「……じゃあ、私は誰?」
「あら、いい質問ね。詳しい事は機会があったなら話してあげる。ただ一言で言うならば、あなたは……」
女はより一層、唇を釣り上げて返答する。
「――ヒトよ」
そう放たれた一言。
至って普通である言葉ではあったが、その中には特別な意味があるのだと私の勘は言っていた。
「んで、このガキはどうやったんや? 黒か? 白か?」
「残念ながら白よ。スキルが目覚める事は無かったわ」
女は腕を組んで、金髪の男に答える。
「いえ、正しくは……まだ目覚めていない、ね」
「なんや、結局は廃棄候補かいな」
男は溜め息を吐いて、やれやれ、と漏らす。
「けど、こんガキ……何歳やねん。設定だと歳は二十やった筈やで?」
「あら、ちゃんと設定通り造ったわよ。他の実験体と同じにね」
「しっかし、こんなケースは初めてやろ?」
「多少の誤差が生じた場合は何度かあったけど、これ程幼いのは初めてね。途中廃棄した中に同じような実験体がいたかも知れないけど、棄てた後じゃ調べようが無いわ」
男に返答しながら、女は小さい溜め息を吐く。
「機械による診断では、肉体年齢は十一歳らしいわよ」
「十一ぃぃ? なんでそない中途半端やねん。どうせならキリのええ十にせぇっちゅうに」
「私に言わないでよ。機械がそう言ってるんだから」
「って事は、や。スキルが目覚めてへんのなら、最終選考行きって訳か」
「そういう事ね。いつまでもスキルが目覚めない実験体は邪魔でしかないもの」
「ちゅうても、今まで誰一人として使えた奴は居らへんかったんやで?」
「どうせまた無理だと思うわ。スキルも目覚めない上に、設定よりも幼く生まれて来る……出来損ないだったようね、この子は」
そう言って、女は私を見下す。
とても、冷たい目で。
「となると、スキルが目覚めとる実験体のサンドバッグになるか、他の研究員の慰み者にされる運命やな」
男は近寄り、私の前でしゃがみ込む。
「ま、後者なら気に入られさえすれば、多少は長生き出来るで」
「あら、廃棄された実験体で手を出す奴なんてまだ居たの」
「結構人気なんやで? 研究室に籠りっきりで色んなモンが溜まっとるんやろ。それに、実験体は言う事は聞くからな。ノーマルからアブノーマルまで、幅広く需要があるらしいで?」
「呆れた。そんな事する暇があったら何か成果を出しなさいってのよ」
「まぁまぁ。研究が恋人です、って人種はアンタぐらいなもんやて。おこぼれ貰うぐらい大目に見ときって。中には自室で飼っとる奴も居るんやで?」
「……ますます呆れたわ。まぁ、どうせ棄てるだけのモノだし、それで他の研究員達のモチベーションが保たれるなら安いものね」
「せやせや。何物も有効活用せな勿体無いで」
「あら、もしかして……あなたもおこぼれ頂戴しているのかしら?」
「冗談。俺には恋人が居るからノーサンキューや」
「あら、初耳。変人のあなたに恋人なんて居たの」
「うっさいわ、アンタに変人呼ばわれはしとうない。俺の恋人はな……これや」
男は立ち上がり、おもむろにズボンのポケットに手を入れる。
そして、抜き出した手には小さな四角い箱が握られていた。
「一箱四百円で二十本入りの恋人ちゃんや」
「あぁ、そういうオチ。そう言えばあなた、ヘビースモーカーだったものね」
女は呆れた視線を男に向ける。
「くだらない話はいいわ。この子を早く例の部屋まで連れていってもらえるかしら?」
「ったく、つまらん反応やなぁ。連れてけばええんやろ」
ぶっきらに頭を掻いて、男はまたしゃがんで私を見る。
「ほら、ガキ。別の部屋に移動するから……って、造りたてホヤホヤで言葉通じるんか、こいつ?」
男は私に指を差して、喋っていた途中で隣に立つ女を見る。
「今まで何を見てたのよ。さっき私と話していたじゃない。それに、最初に睡眠学習をさせたって言ったでしょ」
「せやったっけ?」
「必要最低限の事は覚えさせてあるわ。普通に会話する程度なら問題無い筈よ」
「なんとまぁ、便利な世の中になったもんや」
男は顎を片手で擦りながら、私の顔を関心しながら見つめてくる。
「しっかしなぁ、こんガキ……途中廃棄にならずに目ぇ覚ませたんは運がええのか、それとも運が悪かったんか……微妙なトコやな」
「あら、そんなの運が悪いに決まってるじゃない」
女はふふっ、と笑い声を漏らして耳に髪を掛ける。
「こんな所で造り出さられた時点でね」
女は小さく声を上げて、嘲笑にも見える笑みを浮かばせた。
「はっ、違いあらへん」
男は共感の意を見せながら立ち上がり、手に持っていた箱を開けて中から短い棒を啣えた。
「ここは禁煙よ。タバコの煙は精密機械には良くないの。吸うなら他でしてくれる?」
男が啣えた棒を、女はすぐさま奪い取る。
あの白くて短い棒はタバコと言うらしい。
「なんや、アンタかて現在進行形で口に啣えとるやないか」
「あら、これはタバコじゃないわ。飴よ、ほら」
言って女は啣えていた棒を掴んで口から離すと、先端には茶色い球体が付いていた。
「ちっ……」
男は舌打ちをして、女からタバコを奪い返す。
そして、渋々といった様子で箱に戻してポケットに仕舞った。
「あんな百害あって一利も無い物を私が吸う訳ないじゃない。タバコ嫌いだし。あんなのを吸う人の気が知れないわ」
小さく肩を竦ませて、女は飴を口に戻す。
「俺にとっちゃ百利やっちゅうに」
「あなた、受動喫煙って言葉を知っているかしら? 近くにいるタバコを吸わない人にまで悪影響を及ぼすのよ。ニコチン、タール、一酸化炭素が三大有害物質と言われて、特にニコチンは青酸カリに匹敵……」
「あー、うっさいうっさい。そない言われても俺ぁ死にゃせんて。好きなモン吸うて身体に毒な訳あらへん」
「あら、あなたの身体の心配なんてしていないわ。個人の趣味で周りの健康に害を及ぼすのが迷惑だと言ってるのよ。それに……」
「もうええ、ええっちゅうに。さっさとガキを連れてかなあかんのやろ」
男はわしゃわしゃと頭をぶっきらに掻く。
「ったく、ぐたらぐたら喧しいオバハンやて」
「あら、何か言ったかしら?」
男の小さな呟きを聞き逃さず、女は鋭い目付きで睨み付ける。
「なーんも言っとらんわ、こん地獄耳」
ふん、とそっぽを向いて鼻息を漏らす男。
「ほれほれ、はよ立ちぃ。言葉ぁ理解しとるんやろ?」
男は腰に手をやり、私に言ってきた。
「……ん」
背中に掛けられた毛布が落ちないように手で掴みながら立ち上がる。
「こっちや、付いてきぃ」
男は背中を向けて歩き出し、後ろ向きで一度だけ手招きされる。
「……わかった」
男の言葉に頷いて返し、駆け足で追いかける。
「無いとは思うけど……機会があったなら、また会いましょう」
そして通り過ぎ様、白衣の女に声を掛けられた。
「赤茶毛のお嬢ちゃん」
飴を啣えたまま作られた、不適な笑みを浮かばせて。