No.18 ――――ぞわ
痛む、痛む。頭が、痛む。
すぎずぎ、ずぎん、ずぎん。
いたい、いたい。なにかが、どこかが。すごくすごく、とてもとても。
そのいたみが、ざわざわと私に向かってくる。黒い霧のような、何か。
ゆらゆら、ざらざら、ぐらぐら、どろどろ。どれもうまく当てはまらない。
黒い何かは私を見て。
――――にんまり。
笑った。私を見て、黒い何かは不気味に笑いかけてきた。
顔どころか、形だって無いのに。それなのに、なぜかそう思えて、そう理解した。
嫌い。気持ち悪い。不気味。不快。
見ただけで気分が悪くなり、直感で触れてはいけないと頭が警告していた。
――――ぞわ。
細かな虫が蠢くように、黒いソレは揺れる。
――――ぞわ、ぞわ。
揺れる音、磨れる音、ぶつかる音、擦る音、足音。どれも違う。
聞いただけで悪寒が走る。硝子を爪で引っ掻いた音よりも何倍も嫌。
――――ぞわ、ぞわぞわ。
その音が、音だというのかも怪しいそれが……段々と、徐々に、違うものに変わっていく。
黒い何かは不気味に揺れながら、また笑う。
にんまり、と。口を釣り上げ、目を細くし、眉を緩めて。
顔も表情も、身体すら無い。だというのに、黒いソレは笑っている。
――――ぞわ。
――――れ。
聞こえた。音ではない音の中に混ざって、別のものを耳が聞き取った。
――――ぞわ。
――――せ。
気のせいじゃない。確かに聞こえる。はっきりとではないが、聞こえる。
――――ぞわ。
――――せ。
また。さっきよりも大きく聞こえた。それは音では無くて、声だった。
正しくは声らしきもの。ちゃんと聞き取れた訳では無いから断言出来ないが、音に混ざっているのは声に近いものだった。
それでも、不快さ、不気味さは無くならない。むしろ増して、背中が薄ら寒い。
そして、黒いソレは釣り上げていた口を大きく開けて、揺れた。
上下左右、前後斜め中央。不気味で不快、不安定で不定形。不平等で不明確。
気持ち悪くて、もう見たくなくて、吐き気がしてきて、もう嫌になる。
――――ぞわ。
聞こえた。とうとう、聞こえた。声らしきものの声が。
――――ぞわ。
――――斬れ。
凄く楽しそうに。心底愉しそうに。本当に愉快しくてしょうがなさそうに。
――――ぞわ。
――――壊せ。
なのに、声は急かすように、怒るように。
笑い声にも聞こえ、静かな怒声とも受け取れる。
――――ぞわ。
――――殺せ。
笑いながら怒り、黒いソレは私に訴える。頻りに、何度も、ずっと。
――――ずぎ。
痛む。この声を聞くと頭が痛む。余りの痛みに目を細めて、頭を押さえる。
やめろ、言うな。
――――『斬れ』
――――『壊せ』
――――『壊せ』
笑う。笑って笑って笑う。黒いソレは笑って怒る。
これ以上無い位、不機嫌そうに。
――――『斬れ』『斬れ』
――――『壊せ』『壊せ』
――――『殺せ』『殺せ』
怒る。怒って怒って怒る。黒いソレは怒りながら笑う。
どうしようも無い位に、愉快そうに。
――――『斬れ』『斬れ』『斬れ』
――――『壊せ』『壊せ』『壊せ』
――――『殺せ』『殺せ』『殺せ』
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。
私に言ってくる、訴えてくる、囁いてくる。
――――すぎ、ずぎ。
もう、私に語り掛けるな。頭が痛い、やめろ、笑うな。
一体何が楽しくて、一体何が腹立たしくて、一体何をさせたいのか。
私の感情を煽り、逆撫でて、黒いソレはまだ笑う。
――――ぞわり。
――――『斬れ』
――――『壊せ』
――――『殺せ』
しつこい、うるさい、いたい。
頭の痛みが酷くなっていき、その様子を笑いながら見ているアイツが嫌い。
堪らず、私は叫んだ。大きく声をあげ、痛みを振り払うように。
――――うるさい!
そう、叫んだ。
黒いソレはピタリと揺れが止まり、笑いも消えた。
が、それも僅かな間だった。またゆらゆら、ざらざらと、黒い身体を蠢かす。
――――『斬れ』
嫌だ、斬りたくない。私はやらない。やりたくない。
――――『壊せ』
うるさい、話し掛けるな。私はしない。したくない。
――――『殺せ』
やめろ、笑うな。私は殺さない。殺したくない。
笑った。笑っていたのに、さらに黒いソレは笑う。愉しいと、面白いと、愉快だと。歪める表情は不快感を駆り立たせる。
そして、喋った。黒いソレが確かに。口もないのに、声を発した。
『オ前ハ斬ッタジャナイカ。斬ッテ、壊シテ、殺シタダロウ』
酷く濁った声で、黒いソレは喋る。
――――私は何もしてない、何もやってない!
頭を振り、否定する。すぎずぎと頭の痛みは増して、押さえる手は髪の毛を握り締める。
『■■■■■■――――!』
黒いソレは、大きく声をあげて笑う。
いや、声かどうかも解らない、言葉にも文字にも表せない声で、笑った。
黒い霧みたいな身体をぞわぞわと上下に激しく揺らし、浮かばせているのは気持ち悪い笑み。
『ジャア、ソレハ何ダ?』
黒いソレは何かを指差すように、私の後ろに視線を向けた。
それに釣られて、私はゆっくりと後ろを向く。
『斬ッテ、壊シテ、殺シタ奴ダロ』
ぴちゃん。そんな、水が落ちる音。振り向いた先に、居た。
黒い髪の毛。私よりも高い背丈。見覚えのある顔。忘れられない人。
私にアイスをくれた、人。
咲月匕。それが彼の名前だと教えてくれた。
……けど。
『ソノ手デ、オ前ガ』
目の前に居る匕は胸から下腹部まで大きな斬り傷があり、傷口からは血が大量に流れ出ている。
ぴちゃんと、さっき聞こえた水の音はこれだった。
匕の顔は白く、目に光は無くて、項垂れている。
そして、気付けば。いつの間にか、いつからか。それとも、最初からだったのか。
私の両手が、赤く、紅く、濡れていた。べっとりと、赤一色に塗りたくられて。
――――ずぎん。
いた、い。またいたんだ、すごく、いたんだ。
そうだ、私は、そうだった。
思い出した、思い出してしまった。自分がした事を。今でも残っている。あの肉を斬った時の、嫌な感触が。
私は斬ってしまった。あの人を、斬って、壊して。この手で、確かに、斬った。
私が、匕を……。
――――ずぎん。
――――殺した。
「ああぁぁぁぁぁあっ!」




