「氷の悪女」として断罪されましたが、わたしは聖花の栽培記録係なので――十二年分の観測日誌を提出して退職します
「氷花を枯らそうとした罪で、お前との婚約を破棄する」
大広間の中央で、王太子レオンハルト様がそう仰った。
「氷の悪女め。聖女リリアが泣いていたぞ」
星降る夜の前夜祭。シャンデリアの下、三百人の貴族がいっせいにこちらを向く気配がした。
わたしは懐に手を入れた。
革表紙の冊子を取り出し、帯に挟んだ鉛筆を抜く。
「セレスティア。何をしている」
「本日分の記録です」
ページをめくる。第四十八巻、三百二十一頁。今朝つけた数字が並んでいる。気温マイナス四度二分、湿度五十一、土壌pH六・三、灌水量ゼロ、星の角度――
「では、本日分の記録は誰が取るのでしょう。明日が開花日なのですが」
大広間が、しん、と静まった。
◆
レオンハルト様の口が半分開いたまま止まる。背後で、聖女リリア様が小さく「えっ」と言った。
わたしの名前はセレスティア・ヴァン・エルフィード。二十四歳。王立氷花園、栽培記録係。
そして――前世の名前を、多田静という。
日本という国の、農業試験場。十一年。わたしの仕事は、毎日決まった時刻に温度計を読み、湿度計を読み、土を掬って酸度を測り、水をやった量を書き、夜には星の角度を記録することだった。誰も読まない記録。誰も褒めない仕事。
それでも、十一年書いた。
転生して、十二歳で王立氷花園の栽培記録係を拝命した。宰相閣下は『名誉だけの閑職です』と仰った。わたしは『承知しました』と答えた。
以来、十二年。四千三百八十日。一日も欠かさず。
全四十八巻。
「……お前、自分が何を言われているかわかっているのか」
レオンハルト様の声が震えている。怒りではなく、たぶん、戸惑いだ。
「婚約の破棄です。承知しました」
「そうではない! 罪だと言っている。お前は氷花を枯らそうとした」
「枯れておりません」
わたしはページを戻した。
「第四十八巻、二百九十四頁。先月十二日、西区画の三株に葉先の変色を確認。原因は夜間の暖気流入。南窓の封鎖で五日後に回復。記録には残しております」
「そんな話はしていない!」
「では、どの株が、いつ、どのように枯れたのでしょう。日付をいただければ該当頁を開きます」
沈黙。
レオンハルト様は、日付を仰らなかった。
仰れなかったのだと思う。
代わりに、背後から細い声がした。
「わ、わたし……ただ、氷花さまが可哀想で……セレスティア様、いつも、とっても怖くて……」
聖女リリア様。十九歳。淡い金の巻き毛、潤んだ桃色の瞳。
わたしは彼女を見た。
「リリア様」
「は、はい」
「花に素手で触れないでくださいと、三度申し上げました」
リリア様の手が、ぴくりと動いて、袖の中に隠れた。
「……おぼえて、ないです」
「記録には残しております。第四十七巻、百八頁。第四十七巻、百四十一頁。第四十八巻、二頁」
わたしは三箇所に指を挟んで、冊子を開いたまま差し出した。
誰も受け取らなかった。
「くだらん」
レオンハルト様が吐き捨てる。
「記録など誰でもできる。聖女リリアの祈りがあれば氷花は咲く。この国は千年そうしてきた」
――ああ。
わたしは、そこでようやく、少しだけ笑ったのだと思う。
自分の顔がどう動いたのかは、よくわからない。氷の悪女と呼ばれる顔だ。
「わかりました」
冊子を閉じる。ぱたん、と乾いた音がした。
「では、わたしは辞めさせていただきます」
大広間が、二度目に静まり返った。
◇
第二章 引き継ぎ書を、彼は読まなかった
退職には手続きがいる。
復讐はしない。恨みもしない。
前世から、わたしは、そういう訓練を受けていない。
わたしが受けた訓練は、書類を規定通りに提出することだ。
翌朝、夜明け前。
わたしは氷花園の管理棟で最後の計測を終えた。気温マイナス五度一分。湿度四十九。蕾の直径、平均十一ミリ。開花予定、本日深夜。
「記録係さま」
振り向くと、ノエルが立っていた。十七歳。下働きの少年。しもやけだらけの手で、ランプを持っている。
「……ほんとに、やめちゃうんですか」
「規定通りの退職です」
「ほんとに?」
「ええ」
ノエルは、しばらく黙っていた。
この子は読み書きが苦手だった。三年かけて数字の書き方と、温度計の目盛りの読み方を教えた。最初、彼は『六』と『九』を区別できなかった。今は小数点第一位まで読める。
「おれ、」
ノエルが言った。
「おれ、いつか、自分の名前で、一行でいいから日誌に書きたかったんです」
「そうですか」
「……そうですか、って」
「では、運搬を手伝ってください。四十八巻は重い」
ノエルは、袖で顔をこすって、「はい」と言った。
◆
王室書庫。
受付の文官が、積み上がった革表紙の山を見て三度数え直した。
「……四十八、巻」
「第一巻から第四十八巻。十二年分、四千三百八十日。欠損なし」
「こ、これは、どういう」
「正式な提出です。受領印を」
文官は震える手で印を押した。朱肉が紙に沈む音が、やけに大きく聞こえた。
写しは別にある。十二年、毎晩、同じ数字を二度書いた。
原本は国のもの。写しは記録係のもの。
前世の試験場でも、そうしていた。
記録係の鑑である、と自分では思っている。
◆
次に、鍵。
氷花園の門の鍵は、鉄製で、手のひらほどある。十二年間、わたしの腰で鳴っていた。
謁見の間で、わたしはそれを差し出した。
レオンハルト様は、椅子の上で足を組んでいた。隣にリリア様。背後に侍従が二人。
「貴様、まだ城にいたのか」
「手続きが残っておりました。鍵の返却と、引き継ぎ書です」
わたしは一枚の紙を取り出した。
便箋一枚。それだけだ。
十二年を一枚にまとめるのは難しかった。だから、本当に必要なことだけを書いた。
『氷花は、星降る夜の三刻前に、必ず一度だけ温度を上げねばならない。氷結したままでは蕾が割れない』
それと、小さく一行。
『今年の蕾、西区画第七株に接触痕あり。開花不良の可能性。要注意』
「どうぞ」
レオンハルト様は、紙を受け取った。
開いた。
――いや。
開かなかった。
指が紙の端にかかって、止まった。そして、彼の視線はわたしの顔に戻った。
「これは何だ」
「引き継ぎ書です」
「悪女の呪いの書だな」
「は」
「氷花を枯らそうとした女が、最後に何か仕込んでいったに決まっている。聖女リリアの祈りを妨げる呪詛か?」
「ち、違います殿下、わたし、そんな、こわいこと……」
リリア様が袖で口を押さえる。
レオンハルト様は立ち上がり、暖炉のほうへ歩いた。
わたしは言った。
「殿下。一行目だけで結構です。十七文字です」
「黙れ」
紙が、火の中に落ちた。
炎が一瞬だけ高く上がって、便箋は丸まり、黒くなり、灰になった。
……読まない。
そこぉぉぉぉぉっ!?
いや、落ち着け、多田静。
十一年の試験場勤めで学んだことがある。
『読まれない書類は、提出した事実だけが残る』
部屋の隅で、火かき棒を持ったまま固まっている少年がいた。ノエルだ。さっき、侍従に言われて火の番をしていたのだろう。
その目が、暖炉と、レオンハルト様と、わたしを順に見ていた。
わたしは、ノエルを見た。
一度だけ、ゆっくりと瞬きをした。
見ていましたね、という意味で。
ノエルは、火かき棒を胸に抱えたまま、小さく頷いた。
「これで終わりだ、セレスティア。出ていけ」
「承知しました」
わたしは一礼した。
「本日の深夜が開花です。三刻前に温度を上げてください。それだけは、どうか」
「祈りがあれば咲く」
「そうですか」
わたしは、そうですか、と言った。
それ以上は言わなかった。
言っても、記録には残らないので。
◆
荷物は少なかった。
着替えが二組。写しの日誌が詰まった木箱。帯に挟んだ記録板と鉛筆。
それから、素焼きの小さな鉢。
縁が欠けている。底にはわたしの字で小さく番号が書いてある。〈観測体No.0〉。
花弁が一枚足りない形で蕾をつけるため、結界用の献上品にならず、廃棄予定だった個体。十二年前、『観測対象として引き取る』という書類を一枚出して、救った。
日誌では一貫して、こう記している。
『欠け花』
城門を出るとき、ノエルが走ってきた。
「記録係さま! どこに行くんですか!」
振り返って、わたしは答えた。
「北です」
「北って、竜峰の……あんなところ、人が凍るって」
「だから行くのです」
ノエルは、意味がわからないという顔をした。
わたしは鉢を抱え直した。
欠け花の蕾が、朝の光の中で、硬く、白く、閉じていた。
「あの土地は、王都より平均気温が四度低い」
記録には、残している。
◇
第三章 毛布三枚の氷竜将軍
「……申し訳ない。私は竜血のせいで体温が低く、毛布が三枚いる」
北方辺境伯領グラキエス。城の執務室。
目の前の人物は、椅子の上で厚手の毛布にぐるぐる巻きになり、湯気の立つスープの椀を両手で抱えて、小刻みに震えていた。
白銀の髪。薄氷色の瞳。身長は六尺を超えているはずだが、丸まっているせいで大きな繭に見える。
この方が。
〈氷竜の末裔〉。人を凍らせて食う将軍。竜槍のヴァイス・フォン・グラキエス。
威厳が、完全に崩壊している。
「……セレスティア・ヴァン・エルフィードと申します」
「ヴァイスだ。……すまない、立って迎えるべきなのだが、立つと、寒い」
「どうぞそのままで」
「かたじけない」
彼は律儀に頭を下げて、またスープを啜った。
道中、わたしは三日馬車に揺られた。最後の二日は雪道で、御者が『これより先は人の住む場所ではない』と言って引き返した。残りは歩いた。
城門で出迎えたのは、灰色の髪をきつく結った年配の女性だった。
家令頭のマルグリット・ドーラ。五十二歳。黒い羊毛のショールが制服のようになっている。
彼女はわたしの素性も、紹介状も、何も聞かなかった。
「お入りなさい。凍えてるでしょう」
それだけ言って、黒パンと山羊のチーズと、熱い湯を出した。
「あの、わたしは」
「この土地では、凍えてない人間は全員ようこそです」
黒パンは固かった。噛むと顎が疲れる。山羊のチーズは酸っぱくて、舌に刺さるような味がした。
おいしかった。
前世の試験場の食堂を、少し思い出した。安い定食。味は普通。毎日食べた。
◆
「……それで。王都の公爵令嬢が、なぜこの土地に」
ヴァイス様が、毛布の中から訊いた。
「元、です。婚約を破棄され、職を辞しました」
「婚約破棄」
「氷花を枯らそうとした罪だそうです」
「枯らしたのか」
「いいえ」
「そうか」
終わりだった。
彼はそれ以上訊かなかった。弁明を求めなかった。
……珍しい方だ、と思った。
王都の人間は、必ず『では、なぜそう言われたのか』と訊いた。訊いて、わたしの返答を待たずに自分で答えを出した。
「職は」
「王立氷花園の、栽培記録係でした」
椀が、止まった。
毛布の隙間から、薄氷色の目がこちらを見た。
「……氷花」
「はい」
「見たことが、あるのか」
「四千三百八十日分の記録があります」
彼は、しばらく何も言わなかった。
それから、ゆっくりと椀を机に置いた。熱かったのだろう、指先が赤くなっていた。
「母が」
低い声だった。
「亡き母が、一度でいいから氷花を見たいと言っていた。この土地では咲かぬと笑われたが」
窓の外は雪だった。竜峰の裾野が白く続いて、その先は灰色の空に溶けている。
わたしは、足元に置いた布包みを解いた。
素焼きの鉢。縁が欠けている。中には親指ほどの蕾がひとつ。
「これは」
「氷花です。規格外品で、花弁が一枚欠ける個体です。廃棄予定でしたので、観測対象として引き取りました」
「……氷花」
「はい」
ヴァイス様が、毛布を引きずったまま、椅子から降りた。
膝をついて、鉢と同じ高さになる。
六尺超の男が、床に。
触れようとして、手を止めた。
「触れても」
「素手でなければ」
「……では、やめておく」
彼は手を引っ込めた。
そのとき、わたしは少しだけ、この人は信用できるかもしれない、と思った。
王都では、三度申し上げても触る方がいたので。
「咲くだろうか」
「咲きます」
「この土地では咲かぬと」
「咲きます」
わたしは写しの日誌を取り出した。第三十一巻。十九歳の年の記録。指が勝手に該当の頁を開く。
「ここに、氷花園の年間気温と開花率の相関を記しています。わたしの記録では、蕾が割れる最適温度は、王都の平均よりおよそ四度低い」
「四度」
「この土地は、王都より平均気温が四度低い」
沈黙。
暖炉で薪が崩れる音がした。
「……つまり」
「この土地は、氷花にとって、王都より適しています」
ヴァイス様は、床に膝をついたまま、長いこと鉢を見ていた。
やがて、小さく言った。
「寒いだけの土地だと、思っていた」
「記録を取れば、寒さには種類があります」
「種類」
「はい。乾いた寒さ、湿った寒さ、風のある寒さ。氷花が好むのは、乾いて、風のない、静かな寒さです」
「ここは」
「竜峰の東側は、風が止まります。昨日、歩いて確かめました」
彼が、はじめて、わずかに目を見開いた。
「……歩いて?」
「御者が引き返しましたので」
「……十二里あるが」
「十一里四分の三でした。歩数で測りました」
背後で、マルグリット様が「まあ」と言った。
◆
その夜、わたしは客間を与えられた。
寝台に毛布が四枚積んであった。マルグリット様が置いたらしい。
「坊ちゃまには三枚でいいんですけどね、わたしは四枚目を足すことにしてるんです」
「なぜ」
「足りないより、余るほうがいい。三十二回冬を越すとそうなります」
「記録ですね」
「……そうですね」
マルグリット様が、少しだけ笑った。
「気温を測って書く、とおっしゃってましたね。あれは、何になるんです」
「翌年になります」
「翌年」
「今年の薪の消費量を書いておけば、来年の薪の量がわかります。今年の雪解けの日を書いておけば、来年の種まきの日がわかります」
マルグリット様の手が、ショールの端で止まった。
「……帳面を、一冊いただけますか」
「どうぞ」
わたしは、写しの木箱から白紙の帳面を一冊取り出して渡した。
彼女は表紙を撫でて、小さく言った。
「三十二年、全部、覚えてたんですよ。頭の中に」
「書けば、忘れても残ります」
「……書けば、残る」
◆
窓際に鉢を置いた。
温度計を刺す。マイナス七度二分。湿度四十四。
記録板を開く。
『第十二年次観測日誌・補遺 第一日』
『場所 北方辺境伯領グラキエス 城 客間北窓
気温 ‐七・二
湿度 四四
風 無
観測体No.0 蕾径 十一・五ミリ 変化なし
備考 本日、当地に到着。平均気温、王都比マイナス四度前後と推定。適。』
鉛筆を置く。
星降る夜まで、あと十七日。
廊下の向こうから、かすかに声が聞こえた。
「マルグリット。……毛布を、もう一枚」
「四枚目はもう置いてあります、閣下」
「……五枚目だ」
恐ろしい氷竜将軍が、五枚目を要求していた。
わたしは、湯たんぽを一つ抱えて立ち上がった。
黙って彼の執務室の扉を開け、机の上にそれを置いて、黙って出た。
背後で、
「……かたじけない」
と、毛布の繭から声がした。
わたしは廊下で、記録板にもう一行足した。
『備考二 当主の平熱、常人比マイナス四度との由。要確認。』
……マイナス四度。
手が、止まった。
偶然だろうか。
いや。
記録係は、偶然という言葉を使わない。
『要確認』の下に、わたしは丸を一つ描いた。
◇
第四章 三刻前に、火を焚く
「祈ってください、リリア様!」
「祈れば咲くのでしょう!?」
王都、氷花園。
星が降っていた。空の天蓋から銀の粒がこぼれ、百年に一度の夜が、確かに来ていた。
白い祭壇の上で、聖女リリアは手を組んでいた。
祈った。
祈った。
祈り続けた。
氷花の蕾は、三千株。すべてが、ひとつ残らず、硬く凍りついたままだった。
「……どうして」
リリアの唇が震える。
「わたし、ちゃんと、祈ってるのに」
レオンハルトは祭壇の下で歯を食いしばっていた。
「まだだ。まだ時間はある。星が落ちきるまでに」
星は落ちた。
最後の一粒が、西の空に消えた。
――ぱき、という音は、しなかった。
代わりに、園の端のほうから、低い、地鳴りのような音が這ってきた。
結界が、消えた音だった。
王都の空が、灰色に濁りはじめる。瘴気だ。百年、氷花が浄化し続けてきたものが、堰を失って流れ込んでくる。
国境の方角で、魔物の遠吠えが一斉に上がった。
「書庫だ」レオンハルトが叫んだ。「あの女の日誌を持ってこい! 四十八巻、全部だ!」
運ばれた。十二人がかりで。
開かれた。
「――読めません」
「何だと」
「数字しか、書いてありません。記号と、数字と、略号ばかりで……殿下、これは、専門の者でなければ」
「専門の者を呼べ!」
大広間が静まり返った。
誰も、動かなかった。
この国で、四十八巻を読める人間は、一人しかいなかった。
その一人を、追放したのは、この部屋にいる男だった。
◆
同じ夜。北方辺境伯領。
わたしは雪洞の中にいた。
竜峰の東斜面、風の止まる窪地。十七日かけて、この場所を選んだ。日中の気温変動が最も小さく、夜間の放射冷却が緩やかで、雪の層が厚い。
日誌に書いてある条件を、全部満たす場所。
雪を掘り、天井を固め、中央に石を組んだ。
鉢は石の脇。温度計は鉢の縁。
「……本当に、ここで」
毛布を三枚かぶったヴァイス様が、わたしの隣にしゃがんでいた。
六尺超の男が、雪洞で、丸まっている。頭が天井につかえていた。
「はい」
「城のほうが、暖かいが」
「暖かいと咲きません」
「……そうか」
彼は素直に黙った。
マルグリット様が入口から湯の入った革袋を差し入れて、「無理はなさらぬよう」とだけ言って引っ込んだ。
星が降りはじめた。
雪洞の口から見える空に、銀の粒が落ちていく。
温度計を見る。マイナス十一度四分。
記録板を開く。
「星降り、開始を確認」
鉛筆を走らせる。時刻、気温、湿度、風速ゼロ、蕾径、十二ミリ。
「セレスティア殿」
「はい」
「……怖くはないか」
「何がでしょう」
「咲かなかったら」
わたしは手を止めなかった。
「咲かなかったら、咲かなかったと記録します」
「それだけか」
「それだけです。記録があれば、来年、同じ失敗をしません」
「……百年に一度だと聞いたが」
「ですから、百年後の誰かが、同じ失敗をしません」
ヴァイス様が、毛布の中で長く息を吐いた。白い息が、雪洞の天井に当たって散った。
「貴女は」
「はい」
「……強いな」
「いいえ」
わたしは温度計を読んだ。
「書いているだけです」
◆
星が中天にかかった。
三刻前。
わたしは懐から火打石を出した。
「火を」ヴァイス様が目を見張る。「氷花に、火を使うのか」
「はい」
「だが、氷花は低温でなければ」
「低温でなければ育ちません。ですが――」
組んだ石の間に、乾いた苔と細い枝を置く。火花。小さな火が立つ。
「――冷たいだけでは、咲けないのです」
温度計の針が、ゆっくりと上がりはじめた。
マイナス十一度四分。
マイナス十度。
マイナス九度。
「氷花の蕾は、内側に水を抱えています。水は凍ると膨らむ。膨らんだ力で、蕾の殻を内側から割る。――ですが、外側まで完全に凍結してしまうと、殻のほうが硬くなって、割れない」
枝を一本足す。針が上がる。
マイナス八度。
「だから、三刻前に、一度だけ、外側を緩める。殻だけを。中の氷は溶かさずに。その温度差が、蕾を割ります」
「……それを、貴女は」
「十二年、毎日見てきました」
針が、マイナス六度で止まった。
枝を抜く。火を落とす。灰を雪でかぶせる。
針が、また下がりはじめた。
マイナス七度。
マイナス八度。
わたしは鉢の前に膝をついた。
縁の欠けた、素焼きの鉢。底に小さく〈No.0〉。
十二年前、廃棄籠の中から拾い上げたとき、こんなに小さかった。
「あなたは」
声が、少し掠れた。
「冷たいだけでは、咲けない」
――ぱき。
音がした。
小さな、乾いた、硬いものが割れる音。
蕾の先に、縦に、ひとすじの線が走った。
線は広がった。殻がめくれ、内側から、白銀が覗いた。
星明かりが、雪洞の口から差し込んでいた。
花が、開いた。
五枚あるはずの花弁が、四枚。
欠けたまま。
欠けたまま、まっすぐに、開いた。
光が、花から漏れた。
瘴気を浄化するときの、あの光だ。十二年、記録でしか知らなかった光。
実物は――
実物は、記録より、ずっと静かだった。
誰も、何も言わなかった。
隣で、ヴァイス様の毛布が落ちた。
三枚。音もなく、雪の上に。
彼は、立ち上がっていた。背が天井につかえて、頭をぶつけて、それにも気づいていなかった。
薄氷色の目が、見開かれていた。
「……母に」
声が、割れた。
「母に、見せたかった」
わたしは記録板を開いた。
鉛筆を走らせる。
『観測体No.0、開花を確認。時刻、星中天より一刻後。開花時気温マイナス八度六分。花弁四枚、欠損一枚。発光を確認。』
それから、一行、足した。
『立会人 ヴァイス・フォン・グラキエス。』
「……何を」
「写し取っておきます」
わたしは顔を上げなかった。顔を上げたら、たぶん、手が止まるので。
「記録係ですので」
◆
風が吹いた。
雪洞の口から、ひとすじ。
白銀の花から、細かな光の粉が舞い上がった。花粉だ。
氷花は群生植物である。
記録には、そう書いてある。第十九巻、四十二頁。一株が開花すると、半径三十歩以内の近縁株が連鎖的に開花する。これは王立氷花園で、わたしが十四歳のときに観測した。
雪原に、
――ぱき。
音がした。
――ぱき。ぱき、ぱき。
雪の下から。
百年、誰にも知られずに、この土地の凍土に眠っていた野生の氷花が。
雪を割って、立ち上がった。
一輪。十輪。百輪。
白銀の光が、雪原を、端から端へ、波のように走っていった。
竜峰の裾野いっぱいに、氷花が咲いた。
空が澄んだ。
灰色の濁りが、北の空から順に剥がれ落ちていく。
結界の中心が、動いたのだ。
王都から、ここへ。
ヴァイス様は立ち尽くしていた。毛布も拾わず、雪の中に立って、震えてもいなかった。
「……寒く、ないのですか」
わたしは訊いた。
彼は答えなかった。しばらくしてから、こう言った。
「寒い」
「毛布を」
「後でいい」
「風邪をひきます」
「……後でいい」
わたしは、黙って、毛布を拾って、彼の肩にかけた。
彼の背中は、びっくりするほど冷たかった。
常人より四度低い、竜血の体温。
――四度。
わたしは、記録板の端に書いた『要確認』の丸を、思い出した。
氷花の適温は、王都の平均気温よりマイナス四度。
この土地の平均気温は、王都よりマイナス四度。
この人の平熱は、常人よりマイナス四度。
記録係は、偶然という言葉を使わない。
「ヴァイス様」
「何だ」
「鉢を、お持ちいただけますか」
彼は怪訝な顔で、毛布の中から両手を出して、素焼きの鉢を受け取った。
指が、鉢の肌に触れる。
その瞬間、花弁の光が――
わずかに、強くなった。
わたしは温度計を鉢に刺し直した。
マイナス八度六分。
彼が持っている間、針は一度も揺れなかった。
「……セレスティア殿?」
「いえ」
わたしは記録板に書いた。
『観測体No.0、当主の手中にて温度安定。継続観測を要す。』
「何を書いた」
「業務記録です」
「見せてもらっても」
「だめです」
「……なぜ」
「まだ、確認中ですので」
星が、最後の一粒を落とした。
雪原一面の氷花が、それを浴びて、いっせいに光った。
◇
第五章 「殿下は、読まずに、燃やしました」
「我々は、読める者を、自分の手で追放した」
王宮、宰相執務室。
アルブレヒト・ゼーゲルは、机に突っ伏していた。六十歳。白髪を撫でつけた痩身。感情を顔に出さないことを四十年の職業倫理としてきた男が、三日三晩、机から離れていなかった。
目の前に、四十八巻。
読んだ。
全部、読んだ。
一巻も、理解できなかった。
『七・三/四九/六・三/〇/β二一度/ND』
これが一行。これが、一頁に四十行。これが、一巻に三百頁。これが四十八巻。
凡例はある。第一巻の冒頭に、十二歳の子どもの字で書いてある。
『ND=変化なし。β=北天基準星角。網掛けは要再測』
読める。文字は読める。
だが、この数字の列が何を意味しているのか、どの数字とどの数字を比べれば何がわかるのか――それは、どこにも書いていない。
書く必要がなかったのだ。
書いた本人は、十二年、それを頭の中で全部つなげていたのだから。
「……人事台帳を」
アルブレヒトは掠れた声で言った。
運ばれた台帳。三十年前の頁。
『王立氷花園 栽培記録係 ――名誉職。実務なし。閑職。』
三十年、誰も見直さなかった一行。
そして十二年前、その職に十二歳の少女を押し込んだとき、受領印を押したのは、自分だった。
「……わたしが、押した」
退職届にも、押した。
押した瞬間、何かを失ったと直感した。止める権限が、規定上、なかった。
規定。
規定を言い訳にした。四十年、それでやってきた。
◆
王都の空は、まだ灰色だった。
結界が消えて十一日。国境の砦が三つ落ちた。瘴気が市街まで下りてきて、咳をする子どもが増えている。
王宮前の広場には、人が集まっていた。
「聖女様! 祈ってくださいよ!」
「百年に一度だって言ったじゃないか!」
「偽聖女だ!」
祭壇の上で、リリアは膝をついていた。
淡い金の巻き毛が乱れて、顔に張りついている。桃色の目は腫れていた。
「わたし、祈りました……ちゃんと、毎日……」
「咲かなかっただろうが!」
「でも、わたし、なにも――」
なにも、していない。
その言葉が、喉の奥で止まった。
――花に素手で触れないでくださいと、三度申し上げました。
氷のような声が、耳の奥で鳴った。
リリアは、自分の右手を見た。
白い、細い、何の傷もない手。
あの日、綺麗だと思って、触れた。ほんの少し。指先で、蕾を、撫でただけ。
西区画の、第七株。
「……そんなこと」
唇が震える。
「わたしが触れたから枯れたなんて、そんなこと」
彼女は、最後まで、それを信じることができなかった。
信じられたら、まだ救いがあったのかもしれない。
◆
査問会。
大広間。かつて婚約破棄が宣言された、その同じ場所。
「引き継ぎ書は、受け取っていない」
レオンハルトは立っていた。金髪は乱れ、目の下が黒い。
「あの女は、鍵を返しただけだ。書類など、何も」
「殿下」アルブレヒトが静かに言った。「書庫の受付記録に、こうあります。『第四十八巻までの観測日誌、受領。退職手続き一式。引き継ぎ書一葉は殿下へ直接提出済みと申告あり』」
「あの女が嘘をついたのだ!」
「その日、謁見の間におられた侍従は、二名」
「二人とも、何も見ていないと言っている」
「ええ。二名は、そう証言しました」
アルブレヒトは、顔を上げた。
「ですが、三人目がおりました」
大広間の扉が開いた。
入ってきたのは、少年だった。
十七歳。すすけた亜麻色の髪。しもやけだらけの手。身につけているのは、継ぎの当たった下働きの上っ張り。
ノエル・ハーデン。
王国の貴族たちが、三百人、いっせいに彼を見た。
彼は、足を止めた。
膝が、はっきりと見えるほど震えていた。
「……あの」
声が、裏返った。
誰かが笑った。
笑い声は、すぐに消えた。
ノエルは、両手を握りしめた。しもやけで赤く腫れた、小さな手を。
それから、一歩、前に出た。
「おれ、あの日、火の番をしてました」
「もっと大きな声で」アルブレヒトが言った。「ゆっくりでいい」
「は、はい」
ノエルは息を吸った。
「殿下は、紙を受け取りました。白い、便箋みたいなやつです。記録係さまが、『一行目だけで結構です、十七文字です』って言いました」
大広間が、しん、とした。
「殿下は、『黙れ』って言いました。それで、暖炉のほうに歩いて、投げました」
「……読んだか」
「読んでません」
ノエルの声が、少し大きくなった。
「開いてもいません。おれ、見てました。紙は、折れたままでした。折り目が、ついたまま、火の中で、丸まりました」
「黙れ、下郎が!」レオンハルトが叫んだ。「貴様の言葉に何の価値がある! 下働きの、読み書きもできん――」
「読めます」
ノエルが言った。
「記録係さまが、三年かけて、教えてくれました。おれ、温度計、読めます。小数点の下まで」
彼は、震える手を上げた。
「殿下は、読まずに、燃やしました。おれ、火かき棒を渡したので、覚えてます」
――火かき棒を、渡したので。
大広間が、静まり返った。
三度目の沈黙だった。
レオンハルトの口が、半分開いたまま止まった。
婚約破棄の夜と、同じ顔で。
アルブレヒトは目を閉じた。
「……宰相閣下」
貴族の一人が、乾いた声で言った。
「我が国の結界は、便箋一枚で、守れたということですか」
「十七文字です」
アルブレヒトは答えた。
「『氷花は、星降る夜の三刻前に、必ず一度だけ温度を上げねばならない』――正確には三十六文字でした。一行目だけなら、十七文字」
誰も、何も言わなかった。
◆
レオンハルト・リュシエルは、その日のうちに廃嫡された。
断罪を下したのは、剣でも、法廷でもなかった。
四十八巻の日誌と、下働きの少年の記憶だった。
聖女リリアは聖位を剥奪され、生家の男爵領に戻された。
彼女は今も、自分の右手を見ては、首を振っているという。
◆
アルブレヒトは、北へ使者を出した。
書いた文面を、三度、書き直した。
最終的に、こう書いた。
『王国は過ちを認める。貴殿の職を再定義し、相応の地位と報酬を以て、帰還を乞う。――我々は、読めなかった』
返事は、十九日後に届いた。
紙、一枚。
封も、紋章も、飾りもない、灰色の粗紙だった。
アルブレヒトは震える手でそれを開いた。
短い文が、一行。
『該当する記録係は、現在、別の園に在籍しております』
それだけだった。
筆跡は、乾いて、細く、まっすぐだった。
十二歳の子どもが書いた凡例と、同じ字だった。
アルブレヒトは、長いこと、その紙を見ていた。
そして、笑った。
四十年ぶりに、顔に感情を出した。
「……見事です」
彼はその紙を額装させ、執務室の壁に掛けた。
王国宰相の部屋で、最も目立つ位置に。
訪れる者は必ずそれを見る。見て、意味を尋ねる。
そのたび、アルブレヒトはこう答えた。
「この国が、記録を軽んじて払った代金です」
◇
エピローグ 『第十三年次観測日誌』
一年が経った。
北方辺境伯領グラキエス、改め――聖域グラキエス。
巡礼者が来る。学者が来る。各国の使節が来る。
竜峰の裾野に広がる氷花の群生は、いまや大陸で唯一の結界源である。
城の東棟に、新しい建物が建った。
看板には、こう彫ってある。
『グラキエス氷花園 観測記録所』
◆
朝。
黒パンが固い。噛むと顎が疲れる。山羊のチーズは酸っぱい。
一年経っても、味は変わらない。
「記録係さま、今日の朝の気温、マイナス九度一分でした!」
食堂に、ノエルが駆け込んできた。亜麻色の髪。手のしもやけは、だいぶ良くなった。
「二度測りましたか」
「三度測りました!」
「結構です」
王都から、彼は歩いてきた。十一里四分の三を。
三日遅れで着いて、玄関で凍えて、マルグリット様に黒パンを出された。
『この土地では、凍えてない人間は全員ようこそです』
その言葉を、わたしは今も記録に残している。
「あ、そうだ、記録係さま。昨日の分、おれが書いたやつ、見てもらえますか」
「見せなさい」
ノエルが差し出した帳面には、不格好な数字が並んでいた。『六』と『九』は、もう間違えない。
最後の行に、小さく。
『ノエル・ハーデン 記』
わたしはその行を、しばらく見ていた。
「記録係さま?」
「……いえ」
受領印を押した。
「正式な記録として受理します。第十三年次観測日誌、補助記録第一号」
ノエルの顔が、くしゃりと崩れた。
彼は、袖で顔をこすって、「はい」と言った。
◆
中庭に、凍った洗濯物が立っている。
マルグリット様が、それを板のように持ち上げて、膝で叩いて折る。ぱき、という音がする。氷花が咲くときと、少し似た音だ。
「今年の薪、去年より二百束少なくて済みそうですよ」
彼女が帳面を開いて言った。表紙がすっかり擦り切れている。
「氷花の結界が、風を弱めてるみたいでねえ。書いて比べて、はじめてわかりました」
「来年は、さらに減ります」
「どうしてわかるんです」
「二年分あれば、傾きが出ます」
「……傾き」
マルグリット様は、帳面に『かたむき』と書き足した。
◆
午後。記録所の観測室。
南向きの窓辺に、素焼きの鉢がある。
縁が欠けている。底に小さく〈観測体No.0〉。
いまや、この一株が大陸全土の母株だ。
各国の学者が拝みに来る。王国から公式に『聖花原種』の称号が贈られた。
日誌での記載は、変わっていない。
『欠け花』
「……セレスティア殿」
声がした。
振り向くと、戸口に繭があった。
毛布。三枚。その中に、白銀の髪と、薄氷色の目。
「ヴァイス様。執務は」
「終えた。……寒い」
「毛布が足りませんか」
「足りている。ただ、寒い」
論理が破綻している。
わたしは湯たんぽを一つ、机の上に置いた。
彼は毛布の中から両手を出して、それを抱えた。
一年前と、同じ手順だ。
記録には、三百六十一回残っている。四回は、わたしが風邪をひいて休んだ。
「新しい日誌を書いていると、マルグリットから聞いた」
「はい。本日から第十三年次です」
わたしは真新しい革表紙を開いた。まだインクの染みがない、白い第一頁。
『第十三年次観測日誌・第一日
場所 グラキエス氷花園 観測室
気温 ‐九・一
湿度 四一
風 無
観測体No.0 健全。新芽二。』
「……ひとつ、訊いてもいいか」
「どうぞ」
「去年の夜、貴女は何かを書いて、見せてくれなかった」
手が、止まった。
「『まだ確認中』だと言った。――一年、経った」
わたしは、写しの日誌をめくった。
去年の、あの頁。
『観測体No.0、当主の手中にて温度安定。継続観測を要す。』
その下に、一年かけて書き足した行が、ずらりと並んでいる。
接触時の鉢内温度、三百六十一回分。
発光強度、三百六十一回分。
対照実験(マルグリット様に持っていただいた場合、ノエルに持っていただいた場合、巡礼者十二名に持っていただいた場合)。
結論は、十八日前に出ていた。
わたしは、鉛筆を置いた。
「ヴァイス様の平熱は、常人よりおよそ四度低い」
「ああ」
「氷花の最適温度は、王都の平均気温よりおよそ四度低い」
「……ああ」
「あなたがお持ちになっているとき、鉢の温度は、最も安定します。発光強度は、平均の一・三倍」
ヴァイス様が、毛布の中で、ゆっくりと瞬きをした。
「つまり」
「つまり」
わたしは顔を上げた。
「あなたは、この国で最も優れた氷花の栽培環境です」
沈黙。
暖炉で薪が崩れる音がした。
「……それは」
六尺超の男が、毛布の繭の中で、耳まで赤くなっていた。
低体温のはずだが。
「それは、求婚と受け取っていいのか」
「業務上の所見です」
「……そうか」
「ですが」
わたしは、新しい日誌の第一頁に、一行、書き足した。
『備考 当観測所の管理責任者として、ヴァイス・フォン・グラキエスを通年常駐と定む。本人の同意を得次第、正式に登録。』
彼にだけ見えるように、帳面を回した。
ヴァイス様は、しばらくそれを読んでいた。
それから、毛布を落とした。
今度は、拾わなかった。
「……同意する」
「署名を」
「今か」
「記録は、その日のうちに」
彼は鉛筆を取った。大きな手に、鉛筆は小さすぎた。
不器用な字で、彼は名前を書いた。
わたしは受領印を押した。
ぱき、と乾いた音がした。
窓辺で、欠け花が、ひとつ光った。
◆
夜。
雪を溶かした湯で、身体を洗う。熱い。生き返る。
前世でも、この国でも、風呂だけは変わらず最高だ。
寝台には、毛布が四枚。
足りないより、余るほうがいい。
窓の外、雪原に氷花の光が広がっている。
白銀の海。百年に一度の夜ではなく、毎晩の景色として。
わたしは机に向かい、ランプを灯した。
第十三年次観測日誌、第一日。
最後の一行を書く。
『備考二 本日、王都より巡礼者三名。うち一名、素手で花に触れようとした。二度申し上げて制止。』
鉛筆を置く。
今日は、二度で済んだ。
記録には、残しております。




