選ばれなかった者。
―魔王の間、その領域に光はなかった。
かつて黄金に輝いていた勇者レオンの聖剣は、魔王を倒したあと『邪神』によって力を封印され、ただの錆びた鉄棒のように成り果て沈黙している。
聖女セイラに囁きかけていた神々の声も、今は不気味な静寂に取って代わられていた。
「ああ……ああああ……っ!」
レオンが絶望に喉を震わせる。
その目の前で、意識を失ったセイラが『邪神』の依代として闇の深淵へと連れ去られていった。
魔王が己の最期の力と命の全てをかけて召喚した『邪神』の生み出した聖域は、『選ばれし者』の加護がなければ肉体すら維持できない絶望の地だ。
加護を失い、ただの少年に戻ってしまったレオンの足はそのあまりの恐怖から震えが止まらず一歩も前に出れない。
その時、レオンの視界に、血塗れの「灰色」が割り込んだ。
「……何、絶望してやがる」
親友のカイだった。
新人の頃、セイラから贈られたあのグレイソード。
先端が欠け、刃こぼれだらけの無骨な鉄塊を、彼はいつものように淡々と握り直していた。
「カイ……逃げよう、もう無理だ! 僕たちの神様の声ももう聞こえない、加護も消えた……僕たちじゃ、あそこへは行けないんだ!」
その言葉が終わるより早く、カイの手がレオンの胸ぐらを掴み上げた。
「――ふざけんな」
地を這うような、低い声。
カイの体は無数の古傷でボロボロだ。
加護のない彼は、受けた傷を「なかったこと」にはできない。
それでも、彼は折れていなかった。
「俺が……俺がどれだけ、お前らが眩しくて、お前らみたいになりたくて、それでも届かなくて……地べたを這いずり回ってきたと思ってる」
掴んだ拳が激しく震える。それは恐怖ではなく、何年も押し殺してきた魂の咆哮だった。
「俺には聞こえねえよ、神の声なんてな! だけどな、お前がここで折れたら、あいつ(セイラ)はどうなるんだ!? ……あいつを、セイラを笑顔にできるのは、お前だけだろうが……!!」
カイは力任せにレオンを聖域の向こうへと突き飛ばした。
加護を失ってもなお聖なる資格を持つレオンの体は消滅せず結界にも拒まれることなく、闇の奥へと吸い込まれていく。
「カイ!!」
「行け! お前が助けなきゃ、あいつは『邪神』の中で一生目覚めねえんだぞ!」
親友の背中が消えるのを見届け、カイは一人、『邪神』が生み出した今までの冒険で戦った魔物とははるかに凌駕する力を持った『使者』と呼ばれる存在が押し寄せる魔の大群へと向き直った。
もう、誰も見ていない。
たとえここで彼が世界を救う戦いを演じたとしても、目覚めたセーラの瞳に映るのは、自分を抱きかかえて戻ってくるレオンの姿だけだろう。
「……ふっ」
カイは自嘲気味に、だが晴れやかに笑った。
「……結局、俺はどんなに力をつけても、あいつに笑顔は与えられなかったな」
ポツリと漏らした本音は、風に消えた。
彼は折れた剣を低く構える。
『使者』たちが加護を失った「ただの人間」を餌だと確信し、一斉に牙を剥く。
「さて、ここからは
神様にも見放された『モブ』の仕事場だ」
獰猛な顔で牙を剥きながら静かな宣言。
次の瞬間、世界から音が消えた。
加護に頼らず、ただ数千万回の素振りと、死線の記憶だけで磨き上げた「世界の五指」の技術。
無駄を削ぎ落とした灰色の閃光が、奇跡を信じて疑わぬ化け物たちの首を、次々と跳ね飛ばしていった。
―彼はふと、思い出す。
セイラの笑顔に混ざって
王都から遠く離れた、静かな田舎町。
お得意の『薬師』の女性ことを…
その外れにある小さな薬舗が、自身と『薬師』との接点だった。
「……また、ひどい傷ね、
今度はどこの『名もなき魔物』を倒してきたの?」
金縁の丸いメガネに ダークブラウンの長い髪、緑と白で構成された軍服のような独特の服、常に部屋にこもっているためにその肌は白い店主のラースィネは、淡々と薬草をすり潰しながら問いかける。
カイは無言で、ボロボロの革鎧を脱ぎ、新たな切り傷が刻まれた背中を差し出した。
彼女が調合する塗り薬は、教会の魔法のような即効性はないが、泥臭く戦い続けるカイの肉体には、その「じわりと染みる痛み」が何より馴染んだ。
彼女は、彼の手柄を横取りする貴族も、彼を「モブ」と蔑む世間も知らない。
ただ、彼が運んでくる傷の深さだけを見て、この男がどれほど異常な努力を重ねているかを知っていた。
灰色の閃光が走る。
それはもはや剣技という名の芸術だった。
加護を持たぬ肉体で本来なら その次元を歪め一切攻撃が通じない神聖なる絶望を切り裂くための、数千万回の反復。
だが、代償はあまりにも重かった。
鈍い音を立て、愛用し続けたグレイソードが半ばから砕け散る。
振り下ろされる空間すらも引き裂きありとあらゆる 防御を無視して通してしまう『使者』の神々しくも 禍々しい爪が、カイの左腕を根こそぎ奪い去った。
立ち込める血煙の中、更に鋭い一撃が彼の右目を抉る。
「……あ、が…………っ!」
激痛に視界が赤く染まり、均衡が崩れる。
それでも、カイは止まらない。
残った右腕で砕けた剣の柄を握り直し、ただ一点、レオンたちが戻るべき「門」を守るためだけに、彼は死神を相手に立ち回った。
人のような形を崩した左右で数の合わない手足に全体的に白く顔の所に口のような大きな黒い穴だけを持つ『使者』がまだ多くいる中、そこには片腕を失い血の涙を流す片目の男が、折れた剣を杖にして未だ立っていた。
命を削るような戦いは、彼の人間としての形とその生命を奪い去ろうとしている。
いつものように大衆の目はなく、彼を称賛する者もいない。
限界を迎えてもなおカイは剣を再び構え、セーラの笑顔を願って、静かに闇に沈もうとした。
その時、一人の女性が戦場へ足を踏み出す。
金縁の丸いメガネに ダークブラウンの長い髪、緑と白で構成された軍服のような独特の服、常に部屋にこもっているためにその肌は白い
―それは普段、工房にこもって目立たない研究職として振る舞っていた彼女――ラースィネだった。
彼女が静かに手をかざすと、あれほど強力で絶望的だった『使者』たちは唐突に糸が切れたように複数ある膝をつき叫び声もあげることができず人形のように、もしくは枯れ葉のように崩れ落ちていく。
内包魔力の少ない彼女は自身の中にある少量の魔力を周囲に浸透させ相手の「魔力の根源を断ち切る」という、長年研究をし続けた技術をあまりにも静かで、残酷なまでに圧倒的な深淵の力を行使した。
「……バカな人、本当に死ぬまでやらないと気が済まないのね」
ラースィネは、正体がバレるリスクなど微塵も厭わず、崩れ落ちるカイの体を抱きとめた。彼女の服が、カイの失った腕から溢れる赤に染まっていく。
「……ラースィネ、か……悪い、薬……また、塗ってもらわなきゃな……」
「腕も目も……薬だけで治るわけないじゃない……!」
ラースィネは、正体がバレて今の居場所を失うリスクを承知で、カイを救うためにその力を使った。「戦わない理由」よりも「彼が生きていること」を選んだのだ。
そんな彼女を 鼻を鳴らして言葉を紡ぐ。
「研究対象に死なれると、後味が悪いのよ。……それだけよ、カイ」
ラースィネの冷ややかな、けれど震えるほどに愛おしい視線の意味に、カイは気づかない。
ただ、「同じ日陰者として同情させてしまったか」と申し訳なく思うだけだった。
―最後の力に目覚め『邪神』を倒し、漆黒の門が開き溢れ出す光と共にレオンが姿を現した。
その腕には、意識を取り戻したセーラが抱えられている。
だが、再会の喜びに沸くはずの二人の足が、凍りついたように止まった。
目の前にいたのは、左腕を失い、右目を血に染め、砕け散った剣の柄を握りしめた満身創痍のカイだったからだ。
「カイ……なんだよ、その姿……。嘘だろ……っ!」
「カイ君! すぐに治療を……!」
駆け寄ろうとする二人を、カイは残った右腕で制した。その隣には、いつの間にか田舎町にいるはずの薬師、ラースィネが寄り添い、彼の体を静かに支えている。
「よお、……遅かったな」
カイは、傷だらけの顔にいつもの不敵な笑みを浮かべた。
片目を失っても、その視線は少しも暗くない。
「カイ、君……その腕、どうして……!僕たちが、聖域で手間取ったから……!」
「よせよ、……これは単なる『経費』だ
世界の五指が本気で仕事したんだ、これくらいの傷、お釣りが出るぜ
ま、認められちゃいねえんだけどよ」
カイは、震えるレオンの肩をポンと叩く。
そして、不安げに自分を見つめるセイラの頭を、かつてのように不器用に撫でた。
「セイラ、笑えよ
お前が泣いてたら、俺が腕を張った意味がねえだろうが」
「でも……っ」
「いいから
……ああ、そうだレオン」
カイは、ラースィネの肩を借りてゆっくりと背を向けた。
「俺は、ちっと疲れたから先に帰るわ……王都のパレードだの何だのは、お前ら二人でやってくれ
俺みたいなボロがいちゃ、見栄えが悪ィしな」
「待ってくれ、カイ! 行かせないよ、君は救国の英雄なんだ!」
レオンの叫びに、カイは振り返りもせず、片手をひらひらと振って答える。
「馬鹿言え、俺はただの付き添いだ
……まあ、二人の式が決まったら呼んでくれや
祝儀の代わりに、こいつ(ラースィネ)に特製の薬でも作らせて持ってってやるからよ」
「……行くわよ、カイ
喋りすぎると傷に響くわ」
「へいへい
……じゃあな、お二人さん…お幸せに」
朝靄の中、二人の影が遠ざかっていく。
ラースィネの肩に体重を預け、少しよろけながらも、カイの歩みは軽やかだった。
「……あいつら、いい顔してたな」
「……そうね
今のあなたの顔より、ずっとマシね」
「ハハッ、手厳しいな
……なあラースィネ、帰ったらあの不味いスープ、また作ってくれ、
……今は、あいつの笑顔よりあのスープが恋しいわ」
「そんなもの いくらでも作ってあげるわよ」
そう言って彼女は顔を赤らめる
「あぁ、とびっきり まずいのを頼む、そうしたら少しはあの強烈な味のおかげで失恋が和らぐ気がすっからよ」
カイがそう言うとラースィネは彼の脇腹をこじるようにして殴った
「いてぇっ!何で殴るんだよ!俺、死にかけなんだぞ!」
「うっさい!うっさい!!うっさい!!!何であんたは気づかないのよ!」
世界を救った英雄の記録に、彼の名は載らない。
けれど、田舎町の小さな薬舗へ続く帰り道、二人の顔には誰に宛てるでもない穏やかな笑みが浮かべていた。
ただ、作者が読みたかっただけの小説を書きました。




