糸目で胡散臭いはらぺこ聖女・ハンナリエルさん、食文化に抗えない
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深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いている。
そんな言葉を耳にしたことがあるが、目の前に広がる深淵は瑞々しい黄緑色をしており、あろうことか98円という破格の値段でこちらを誘惑してくるのだ。
「あらまあ……近所のスーパーに、こんな強敵がおるなんて思わんかったわ。柔らかくて、ふんわりと巻かれた葉の重なり……ほんまに、恐ろしおすなあ」
そこに鎮座するのは、『春キャベツ』という名の緑の宝石。
思わずその神々しさに目を細めてしまった。いや、元から「寝てるん?」と言われてしまう程度に、糸目なんやけども。
異世界から日本という国へ飛ばされて早半年。
聖女として崇められていたうちも、今や日雇いバイトで食いつなぐフリーアルバイターなる存在。
本来ならば、僅かな貯蓄も元の世界への帰還費用――情報収集や実験素材――に回すべき局面。
だが、うちの本能がけたたましく告げている。
このキャベツは、間違いなく『買い』であると。
「……迷える子羊に、これほどの試練をお与えになるとは。カミサマ、あんさんはなんと残酷で、慈悲深いんやろか」
カゴに入れた。
一瞬の躊躇いもなく、うちの手は緑の球体を優しく抱き抱えていた。
帰還の願いよりも、今夜の献立『キャベツのガッツリ肉味噌炒め』への渇望が、いとも容易く勝利した瞬間だ。
「せやけど、一玉で足りますやろか。やみつきキャベツ……その名の通り、一度口にすれば抗えぬ魅惑の副菜もまた、食卓には不可欠な彩りどすし」
肉味噌の濃厚な味を受け止めるには、加熱された甘いキャベツが必要不可欠。
しかし、箸休めとして、ごま油と塩昆布を纏った生キャベツの『パリパリ』という軽快なリズムも捨てがたい。
加熱と生。この二律背反を解消するには、答えは一つしかない。
「ふふ……救済を待つ魂がもう一つある言わはるなら、うちが手を差し伸べるのが道理いうもんやね」
二玉目をカゴへ滑り込ませた。
98円が二つ。今の財政状況においては決して軽くない出費だが、食への投資は未来への投資。
なんなら明日は、お好み焼きの具材としても転生可能なのだから、実質無料のようなものだ。
「……おや?あそこのお肉コーナー、割引きシールを持った店員さんが降臨しはりましたか」
うちの特売の目が、きらりと光る黄色いシールを捉える。
豚バラ肉は、キャベツと最良のパートナー。割引きまで重なるなんて……。
「これはもう、星の巡り合わせ以外の何物でもあらへんね。運命がうちに『今夜は豚バラキャベツ祭りを享受せよ』と囁いとるんですわ」
戦場の空気は、既に張り詰めてた。
カゴを提げた歴戦の主婦たち、疲れた目をしたサラリーマン、そしてジャージ姿の学生。彼らの瞳には、獲物を狙う獣の如き鋭い光が宿っている。
これはもはや、一種の儀式。店員さんが割引きシールを貼るその一瞬、静寂が――破られる。
「ふふ、血が騒ぎますなあ。かつて魔物たちと対峙した時と、同質の緊張感……いえ、こちらのほうが殺気立っとるかもしれまへん」
うちは深く呼吸をし、気配を完全に消した。
『静寂の歩法』――本来は厳粛な礼拝堂で足音を立てないための技術が、まさか異国のスーパーで半額肉争奪戦の切り札になるとは。人生とは分からないもの。
店員さんの手が動き、黄色い輝きがパックに貼られた、その刹那。
「そこどす!」
流れるような動作で、うちは群衆の隙間を縫うように、スッと手を伸ばした。
力づくで奪う必要などない。風のように、水のように、ただ在るべき場所へと導けばいいのだ。
うちの指先が、美しいサシの入った豚バラ肉を、誰の手にも触れさせることなく確保した瞬間でもある。
手の中でひやりと冷たいパックの感触。それは、戦場における勝利の証に他ならないのだ。
「ふふ……恨まんといておくれやす、迷える子羊たちよ。これは早き者が富を得るという、こちらの社会における厳正なる摂理。あんさんらの無念は、うちが最高の火入れをもって供養したげますさかい」
殺気立った視線を、胡散臭いとよく言われる慈愛に満ちた微笑みで受け流し、レジという名の最後の審判へと向かう。
キャベツ二玉、豚バラ肉、そしてカゴの底には、いつの間にか忍ばせていた『特濃ごま油』と『豆板醤』、そして欠かすことのできない『ビール缶』。
「合計で1480円になります」
店員さんの柔らかな声が、うちの全財産に対する判決を言い渡した。
財布の中身を確認する一瞬の緊張。財布の中には、先日のバイトで得た尊い対価が、まだ眠っているはず。
「……足りますなあ。カミサマはうちを見捨てはりまへんかった。さあ、受け取っとくれやす。これがうちの血と汗と涙の結晶どす」
支払いを済ませ、スーパーを出た瞬間に包み込む夕暮れの空気。
どこかの家から漂ってくるカレーの匂いや、焼き魚の香ばしい煙。
日本の夕方は、どうしてこれほどまでに、人の胃袋をセンチメンタルにさせるのでしょうか。
「この買い物袋の重みこそ、今夜の幸福の総量。キャベツの葉一枚一枚が、うちの胃袋を満たす福音となるんどすえ」
家路を急ぐ脳内では、すでに壮大な調理シミュレーションが始まっていた。
まずは、豚バラ肉をカリカリになるまで炒め、そこへあふれんばかりのキャベツを投入する。
強火。一瞬の勝負。
しんなりとする直前、秘伝の味噌ダレを回し入れれば、そこには黄金色の蒸気が立ち上る。
「ああ、想像しただけで口の中が……!あきまへん、このままでは家に着く前に、生のキャベツにかじりついてしまいそうやわ」
小走りで角を曲がろうとしたその時、スーパーの惣菜コーナーや家庭の夕食とは明らかに異なる、芳醇かつ背徳的な香りを優れた嗅覚が捉えた。
鼻腔を支配したのは、純粋にして暴力的な『焦がし醤油』の香り。
路地の向こう、赤提灯を提げた屋台から立ち上る白い煙。それは魔物を誘き寄せる狼煙の如く、こちらの足を強制的に停止させる。
「……なんと。これはうちが知る『みたらし団子』とは、似て異なる存在?」
そこにあるのは、とろりとした甘い餡を纏ったツヤツヤのお団子ではなかった。
串に刺さった五つの小ぶりなお団子が、醤油にくぐらされ、直火でじりじりと焼かれているのだ。
タレが炭火に落ちて弾ける音、表面がキツネ色に変わりゆく様は、まさに穀物と大豆の発酵液が織りなす聖なる儀式。
一般的に知られる甘いタレではなく、醤油の香ばしさのみで勝負する、ストロングスタイル。
表面はカリッと香ばしく、中はふんわりと柔らかい餅の食感……想像するだけで、今にも唾液腺が決壊しそうになる。
「ふふ、夕食前の買い食いはダメ、ゼッタイ。ですが、これは『お米』どす。つまり、夕食の一部を前借りするに過ぎひん。論理的な破綻は一切あらへんね」
キャベツの重みを忘れ、吸い寄せられるように屋台の前へと歩みを進めた。
「大将はん、その香ばしき黄金の杖を一本。……いえ、三本いただきまひょか」
「へい、みだらし三本ね。黄金の杖たぁ大層な名前だが、味は保証するよ。熱いから気をつけてな」
店主はうちの姿を怪しむこともなく、慣れた手つきで串を渡してくれた。
薄紙越しに伝わる熱。焦げた醤油が放つ香気は、もはや暴力的なまでに本能を揺さぶりにかかる。
行儀悪くも路傍で、その一本へと喰らいついた。
カリッ。
小気味よい音と共に、香ばしい外殻が破れる刹那、口内に広がるのは醤油の塩気と焦げの苦味、そして遅れてやってくる米本来の淡い甘み。
「はふっ、はふ……っ!ふふ……なんと簡素で、力強いんやろ!甘い餡で着飾ることを拒み、素焼きという裸一貫で勝負するその潔さ……」
咀嚼するたびに、鼻から抜ける香ばしさが脳髄を痺れさせる。
これは単なる間食ではない。米と醤油、そして火。原始的な要素だけで構成された、食の原点回帰。
「おっと……いけまへん。あまりの感動に、つい耳が出てしまいましたわ」
ゆったりとした動作で髪を撫でつけ、種族特有の尖った耳を隠した。
本来なら正体がバレることを危惧すべき場面だが、この国の住人は妙なまでに、姿形においては寛容だ。
「精巧なコスプレですね」の一言で済まされるか、あるいは他者に無関心か。
目の前の店主もまた、お団子の焼き加減にしか興味がないらしい。
二本目、三本目と串が進む。モチモチとした弾力が歯を押し返し、その抵抗を噛み破る快感。
喉を通る熱い塊が、空腹という名の空虚を埋めていきます。
「ごちそうさんどした。この焦げ目こそが、うちの明日への活力になりますえ」
串を返却し、うちは再び歩き出した。
口の中に残る焼き醤油の余韻を楽しみつつも、ここで一つの重大な懸念が浮上するのだ。
「……ふふ、計算外どすなあ。お団子三本、意外と腹持ちがよろしい。これでは帰宅後の『キャベツのガッツリ肉味噌炒め』に、修正が必要になるんやないか?」
胃袋の占有率は現在30パーセント。
メインディッシュを迎える前の前菜としては、少々重すぎたか。
ですが、うちの辞書に「満腹で食べられない」という文字はありえない。存在するのは「別腹」という魔法の概念のみ。
「ほんなら、やみつきキャベツを前倒しで投入して、胃袋をもっと活性化させて、執筆作業をしながらカロリーを強制的に燃やす……これこそが、完璧な作戦どすえ」
思考が定まれば、行動は迅速でなければ。
うちは帰宅するや否や、部屋着であるジャージへと着替え、生物らしき可愛いワッペンが付いたエプロンを身に付けて、キッチンへと立つ。
二玉買ったうちの一つ、その外葉を剥がし、包丁を使わずに手でちぎり始めた。
こうすることにより、断面が複雑になり、タレがよく絡む。これは古文書にも載っていない英知の一つ。
ボウルに山盛りになったキャベツへ、黄金色の聖水――『ごま油』を回しかけ、白ごま、鶏ガラの粉末、そしておろしニンニクを少々。
全体を大きく混ぜ合わせれば、香ばしい匂いが鼻孔をくすぐり、先ほど満たされたはずの胃袋に新たな空隙を作り出す。
「ふふ……整いましたなあ」
ちゃぶ台にノートパソコンを開き、その横にやみつきキャベツの山、そして冷蔵庫でキンキンに冷やしておいた『第三のビール』を配置。
これぞ、オトナの机上。
プシュッ。
小気味よい音と共に缶を開け、まずは一口。
喉を駆け抜ける苦味と炭酸の刺激が、お団子の甘辛い余韻を洗い流し、口内をリセットしていく。
「くぅ……ッ!やはり、最初の一口目は格別どすわ。さて、今日の喜びを記事に起こし、世界中の迷える子羊たちへ、福音として届けまひょか」
【記事タイトル:[啓示]焦がし醤油という名の原罪、あるいは純粋な穀物への回帰について】
カタカタカタ……ッターン!
小気味よい打鍵音が、静かな室内に響く。
これぞ現代の祈り。キーボードという祭壇に向かい、電子の海へと言葉を放つ神聖な儀式。
「……ふふ、筆が進むわあ。やっぱり空腹とアルコールは、芸術の母やなあ」
合間に、ごま油を纏ったキャベツを口へ放り込む。
咀嚼するたびに脳蓋を揺らす小気味よい音。ニンニクのパンチと塩昆布の旨味が、キャベツの持つ野性的な甘みを極限まで引き立てている。
そこへすかさず、冷えたビールを流し込む。
「ぷはあ……ッ!これどす、この背徳感!野菜を摂取しているという免罪符がありながら、その実態は塩分と油とアルコールの宴!」
高揚感そのままに、うちは記事の締めくくりを打ち込む。
投稿ボタンを押し、SNSの通知が跳ね上がるのを確認して、うちは空になったビール缶をそっと置いた。
前菜と執筆という儀式は終わりを迎えた。しかし、本番はこれからだ。
台所には、まだ手付かずの豚バラ肉と、残りのキャベツがうちを待っているのだから。
「さあて、メインディッシュの開幕といきまひょか」
フライパンに火を点ける。
ジュウッ、と油が温まる音。それが今のうちにとって、どんな賛美歌よりも心安らぐ調べである。
豆板醤の辛味と、にんにくの香り。そして味噌の芳醇な匂いが立ち上った瞬間、ふと記憶の彼方にある匂いが蘇る。
――あれは、この世界に迷い込んできて、すぐのこと。
右も左も分からず、空腹で倒れかけたうちを拾ってくれた女性警察官が奢ってくれた『カツドン』の匂い。
出汁と醤油と卵、そして豚の脂身が織りなす暴力的なまでの旨味。
あの時、うちは知りました。この世界には「食べる」という行為に、「生命維持」以上の「娯楽」が詰め込まれているのだと。
「ふふ、彼女には、また何か差し入れせんとあきまへんなあ」
思い出に浸りながらも手は止まらない。
強火で一気に煽る。豚肉の脂が味噌と絡み合い、キャベツの水分と乳化して、とろりとしたソースへと変わっていく。
ジュウゥゥゥッ!
香ばしい悲鳴と共に、我が家のキッチンは黄金色の蒸気に包まれた。
「ふふ、危ないところやったわ。過去への感傷で未来の糧を焦がしてしまうんは本末転倒やさかい」
手早く皿に盛り付けると、艶やかな赤茶色のタレを纏った『キャベツと豚バラ肉のガッツリ肉味噌炒め』が、お茶碗から湯気を立てる白米の横へと鎮座した。
この濃厚な味付けには、白米という無垢なパートナーこそが相応しい。二本目のビールも添えれば世界最強なのだ。
「いただきやす。この一口が、うちの血となり肉となり、明日の信仰心となるんどす」
熱々のキャベツと肉を箸で掴み、白米に一度ワンバウンドさせてから口へと運ぶ。
シャキッとした歯ごたえと共に溢れ出す、春キャベツ特有の強烈な甘味と豚肉の脂。
そこへ濃厚な味噌ダレが絡み合い、再び脳髄を痺れさせるような旨味が、爆弾となって炸裂した。
「んんっ……!この、白米を強奪していくような暴力的な味付け……!あの時のカツドンとはまた違う、別方向からの王者の風格!」
間髪入れずに、タレの染みた白米をかきこむ。
口の中で渾然一体となる炭水化物と脂と味噌のハーモニー。
あの日、行き倒れの不審者だったうちに生きる喜びを教えてくれた味の記憶が、今夜の肉味噌炒めと重なり合って、極上の多幸感へと昇華されていくのがわかる。
「あかん……これはあかんヤツどす。箸が止まらへんわ」
気がつけば、お皿とお茶碗は空っぽになっていた。
満ち足りた胃袋と、心地よい疲労感。
深呼吸をして窓の外を見れば、日は完全に落ち、街の明かりが星のように瞬いている。
ふと、元の世界の星空を思い出した。あちらには、コンビニも、第三のビールも、半額シールも存在しない。
帰らなければ。使命が、義務が、心の奥底から呼んでいる。
「……ですが」
満足げに目を細め、最後の一口となったビールを飲み干した。
「ふふ……本格的な調査は、明日からにしまひょ。果報は寝て待てと、こちらの諺にもありますしなあ」
誰に言い訳するでもなく呟き、うちは空になったお皿を眺めた。
長い夜は、まだ始まったばかりなのだ。
お読みいただきありがとうございます。
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