第98話
外観は変わりが無い。庭も手入れされている。空き家独特の、家の生気が抜けて腐朽へと向かう様子は見て取れない。人が手入れしているのは間違いない。
その扉から父母や兄姉が今にも出てくるのではないか、窓の向こうに姿が見えるのではないか、笑い声や叱責が聞こえてくるのではないか、とそんな気がする。でも、そんなことは起こりえないと分かっている。ダスワルトは玄関の扉に近付いた。あまりにも見慣れきった鍵穴がそこにある。手が勝手に動いて、首にぶら下がった鍵を取り出してそこに挿し込んだ。かちり、と軽い音が響く。何度も何度も聞いた音だ。何も変わっていない。
もしかしたら、本当に、家の中は何も変わっていなくて、住んでいる人も変わっていなくて、扉を開けたらそこにそっくりそのまま父母と兄姉がいるんじゃないだろうか。おかえり、ダシー、と母親が呼ぶ声が耳に響く。
ダスワルトはそっと扉を開けた。その途端、違和感を覚える。
他人の家の匂いがする。
そのまま入り込んだ家の中は、知らない空間だった。間取りや内装は同じだ。だが、調度品も、無造作に置かれて散らかっている靴も、クローゼットに掛かったきらびやかな衣類も、台所にある食器も、何もかもが違う。どこに何があるのか、全く分からない。
ダスワルトは父親の書斎だった部屋に向かった。そこは、誰のものとも知れない寝室になっていた。本は飾り程度に置かれているだけだ。もう、部屋に立ち込めていた書物の香りはどこにも無い。母親の武具が置いてあった場所は、今では子ども部屋だろうか。ごちゃごちゃと散らかっているばかりで、武具は影も形も見えない。双子の兄姉の部屋も、誰かの寝室だ。大きな寝台が置いてある。ダスワルトが使っていた小さな部屋は、ただの物置になっていた。地下倉庫になら本が残っているかも、と思って見たが、目一杯に見慣れない物が詰め込まれていて、どこをどう捜索すればいいか見当もつかない。少なくとも、多量の紙から醸し出されるあの独特の埃っぽい匂いはどこからも感じられない。
全く知らない誰かの家だった。ダスワルトが柱に付けた傷も、壁に残るきょうだい喧嘩の跡も、天井に見えるうっすらとした染みも、そのままに残っているのに。
ひとしきり家の中を見て回って、ダスワルトは呆然と立ち尽くした。たとえ丸ごとそのまま残されていたとしても、それを使う人たちはもういない。それは分かっているが、他の誰かに上書きされて、痕跡さえ消されているという事実が重くのしかかってくる。
ここで暮らした人のことを、誰も覚えていないんだろうか。ここにあった物はどうなったんだろうか。
父親の本を読みたい、とまた強く思う。忘れたくない。つながっていたい。でも、父親と同じように、失われてしまった。
呆然としていたら、玄関から音がした。
「何だ、あんたたちは。」
見知らぬ人たちがそこに立っていた。我が物顔で家に入ってきて、先生とダスワルトを睨みつけている。その中の一人に、ダスワルトは何とはなしに見覚えがあった。直接見知っているのではない。知っている顔に、よく似た人物がいるのだ。
伯母によく似たその人は、男性の影に隠れながらダスワルトを矯めつ眇めつしている。伯母の親類縁者に違いない。そう思うと、急にダスワルトの中に怒りが湧いてきた。ぐっと拳を握り締めて前へ飛び出そうとしたところで、後ろからお辞儀をするように頭を押さえつけられた。
「申し訳ありません。お留守中に大変失礼致しました。以前、ここに住んでいた者です。懐かしさのあまり、引き寄せられてしまいました。」
先生が自分も頭を下げながら弁解している。
「この辺りを見させていただいただけで、中の物には触れてはおりませんが、お気に掛かるようでしたらお改めください。」
そう言われて、慌てて何人かが自分の部屋を確認しに行った。家の主人と思しき男性と、伯母によく似た女性だけがその場に残ってダスワルトと先生を見張っている。
「鍵はどうしたんだ。」
「開いておりました。それで、居住者がおられないと勘違いして、うっかり入り込んでしまいました。ご迷惑をおかけして恐縮です。」
先生はダスワルトが鍵を開けていたところを目撃していたが、しれっと嘘をつく。
ダスワルトは先生に頭を押さえつけられたまま、下から伯母によく似た女性を睨みつけた。間違いない。どこをどう見ても伯母の顔だ。父母を亡き者にして、その死を喜んで、そんな人間はいなかったというような顔をして、ここを誰か親類縁者に使わせているのだ、あの伯父伯母は。
「控えよ。」
と、先生がダスワルトに囁くように声を掛けた。先生に迷惑はかけられない。ダスワルトは奥歯を噛みしめて、大人しく頭を下げ続けた。
そのうちに、家財道具や貴重品を確認していた人々が戻ってきた。荒らされた形跡も無くなった物も無い、と報告を受けて、主人らしき男性は警戒心を解かないまま玄関の外を指差した。
「ここはもう我々の家だ。二度と立ち入るな。さあ、出て行ってくれ。」
先生はもう一度深々と頭を下げて丁重に謝罪すると、ダスワルトを引っ張って外に出た。
先生に引きずられるようにして路地に出ながら、ダスワルトは最後にもう一度振り返った。父親と、母親と、兄と姉、それに自分自身が家の前で笑っている姿が見える。でも、もう、そこには誰もいない。
二度と立ち入るな、だと。偉そうに。誰がこんなところに来るか。頼まれたって、近寄りたくもない。
「先生、伯父さんの家に行こう。それで、この町とは、今日を限りに私もお別れする。」
ダスワルトはそう宣言して、街路を歩き始めた。怒りが湧いていても、なお、足元がぐらぐらする。そこかしこで脳みそを掻き乱される。しんどい、と思ったら、また先生が手を握ってくれた。普段に輪をかけて不機嫌そうなその表情を見たら、伯父の家に行くのを止められるかと思ったが、先生は何も言わなかった。
「鼻歌でも歌え。気持ちを落ち着けておけ。」
ダスワルトの手を引きながら、先生はぼそりと呟いた。
「魔王相手でもそうしたんだろう。」
「そうしたけど、大失敗だったじゃないか。」
「お前は生きとる。失敗ではない。」
失敗だよ、と口の中でだけ応えて、ダスワルトは素直に鼻歌を歌いだした。
そうしていると、断片的に歌詞が頭に浮かんでくる。故郷を想う歌のような気がする。ただ、どう想っているのかが今一つはっきりしない。甘いものとして思い出しているのか、苦い記憶があるのか。故郷をけちょんけちょんにけなす歌は無いだろうな、と思うものの、細かいところはやはり頭に残っていない。
故郷を想う歌。それを歌ったあの勇者の故郷は、どこだったのだろう。母親の生まれは、この町よりも大分北東の方だと聞いたことがある。あの勇者もそちらの地方だったのかもしれない。魔王に挑む直前に、彼は何故その歌を歌ったのだろう。あの勇者を選抜したのも、伯父の差し金なんだろうか。




