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異世界転石の先  作者: 七田 遊穂
第6章 先を生きる人
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第95話

 こうして、春の暖かい風が強く吹く頃に、先生は重たくて仕方の無い荷物を2人連れて旅立つことになった。今すぐにでもほっぽり出して、身軽になって、大草原を駆けて行きたい気分であるが、先生は渋い顔のまま子連れで歩いていく。その顔には、右目を縦断する傷跡と、黒い眼帯がある。顔だけ見たら歴戦の勇者のようだな、とダスワルトは思うが、相変わらず先生の体格は痩せて枯れて貧層である。誰も勇者だとは勘違いしない。


 先生の中の唯一の希望の光は、もうじきダスワルトがいなくなることである。ヘスブレックも十分に重いが、ダスワルトはもっと重い。年齢は10にも満たないし、実父から受けた教育が眩しいほどに真直ぐだし、お届け先の親戚もご立派なようだし、下手な手を打てやしない。先生は先生なりに、かなりの気を遣ってきたのである。それから解放されるとなれば、好物の焼き鳥とせんべいで祝杯をあげても良いかもしれない。


 ああ、楽しみだなあ、と先生は遥か遠くの山並みを眺めながら、微かににやける。


 にやけられているダスワルトはと言うと、あまり愉快な心境には無い。故郷に帰って、父親の手紙を伯父に押し付けて、それはやらなければならないこととして目標を立てていたが、その後のことが白紙である。父親は、ダスワルトが伯父の下で一定の年齢になるまで過ごすことを期待していた。もしかしたら、懐に大事にしまってあるこの手紙にも、そんなことが書かれているのかもしれない。伯父はダスワルトのことを死んだものと考えているだろうが、実際にピンシャンしている姿を見れば、現実から目を逸らし続けて養育義務を放棄するような無責任な人間ではない。それくらいは、ダスワルトも認めている。


 伯父の家にいれば、衣食住には困らない上に、今は一人で訓練を続けている剣術だって良い師を付けてもらえるだろう。要らないけれど、教育も受けられる。そんな環境を利用して、ある程度大人になるまで待ってから伯父の家を出るのが一番安全な策だとは思う。伯父はダスワルトを軍人にしようとするだろうが、そこから逃げ出す自信はある。ダスワルトの不義理で伯父が不利益をこうむろうと、失脚する羽目に陥ろうと、知ったことではない。むしろ、ざまあみろである。ダスワルトにはその辺りのしがらみは無い。


 だが、あの家で暮らし続ける自信が無い。今はもう、愚痴をこぼせる兄姉もいない。全てを打ち明け、信じてもらえた先生は遠くに行ってしまう。思いを全部自分の胸の内だけにしまって、父母を死なせたのかもしれない伯父と伯母に養育されて、その恩恵を享受して、ぬくぬくと大人になっていく自分に耐えられるだろうか。我慢しているうちに、慣れて、伯父みたいな考え方ができるようになっていくんだろうか。


 自分の中の大事な思い出が、伯父との生活で上塗りされて、無かったことになっていくのは嫌だ。そんなことになったら、自分は自分でなくなる気がする。


 でも、一人で生きていくことができるだろうか。勇者免許を取れるようになるまで、あと5年もある。どうしたら良いのか、分からない。


 兄の言葉をふと思い出す。伯父の家から金目の物を盗って、それを元手に世界中を気ままに歩き回れと言っていた。泥棒か、とダスワルトは苦笑しながら呟く。兄に許されたって、父親も、先生も許しはしないだろうな。でも、先生と別れて一人で歩かなければならないのなら、もう、堕ちるところまで堕ちても良いのかもしれない。


 そんなことをつらつら考えているうちに、ダスワルトはめっきり言葉数が少なくなった。故郷が近づけば近づくほど、何も話さなくなっていく。いつも駄々洩れの下手な鼻歌すら出てこなくなり、ヘスブレックが気味悪がってちょっかいを掛けるが、ダスワルトは気なしである。ぼんやり、故郷の町の方角を見遣るばかりだ。


 先生はそんなダスワルトの様子に顔を顰める。伯父がいるとは聞いていたが、伯父に関する詳しい話はダスワルトも語らない。軍の幹部であり、厳しい人間であると述べたくらいだ。立派な家門であるようだし、みなしごの甥っ子一人二人受け容れる余裕はあるだろうと安易に考えていたが、当のダスワルトのこの様子からは行きたくなくて仕方がないという気配が感じられる。妙な駄々をこねなければ良いが、と先生の胸中には不安が広がる。


 不安だが、道中でせっついてどうにかなるものでもないので、先生はダスワルトを放置したまま目的地に向かった。先生はかつての職務上の理由とその研究趣味のため、かなり旅慣れている。それを語らないので誰も知らないが、実は子連れの割にはかなり旅程が早い。賊などの危険も回避する。ダスワルトがかつて実行したような変則ルートを取らずとも、ずんずん進んでいく。国境をいくつか越え、初夏の日差しが顔を出し始めた頃、ダスワルトは見覚えのある街並みを遠くに認めた。


 随分長い間、離れていたような気がする。全部夢だったのかもしれないとさえ思える。ただ、この町で暮らしていたことが夢なのか、この町を出てからのことが夢なのかは判然としない。

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