第94話
ヘスブレックは宿題の紙を机の上に置くと、先生の正面に立った。
「先生、一つお願いがあります。」
いつもには無い改まった口調でヘスブレックは切り出した。
「俺を先生の弟子にしてください。お願いします。」
「やめろ、やめろ。私は弟子など取るような器じゃない。」
「俺にもっと、学問を教えて下さい。お願いします。」
ヘスブレックはそう言って、深々と腰を折った。先生は極めて不愉快そうにそれを眺めて、吐き捨てるように言う。
「鬱陶しい奴だな、顔を上げんか。」
「先生が良いと言ってくれるまで、上げません。」
「ああ、もう、面倒くっさい…。」
先生の本音はいつも容易く漏れる。だが、ヘスブレックはへこたれずに頭を下げ続けている。
「俺が教えてもらってるのは、まだ、学問と呼べるようなもんじゃないって、分かってます。でも、楽しいんです。文字が読めるようになるのも、知らなかったことを知るのも、こんがらがってた道理がほどけていくのも。良いことなんか何も無くて、真っ暗で、ねとねとしてるだけだった世界が、明るくなった気がしたんです。だから、先生にこれからも教えてもらいたいんです。」
「向学心があるのは良いことだがな、勉学は一人でもできる。私ではない師もいくらでもいる。働きながら通える学校もある。よそに行ってくれ。」
「俺は先生が良いんです。他人は信用できません。」
「私もお前にとっては他人だ。容易く信じるな。いつかお前を陥れ、裏切るかもしれんぞ。」
「先生に裏切られるなら、本望です。それに、そんな世の中なら、生きていたってしょうがない。どうせ俺には、初めから何も無いんだ。先生が、最後の希望だ。」
先生は長い長いため息をついた。どさりと椅子に腰かけて、見える方の左目を手で覆うようにして机に肘をつく。
重い、重すぎる、と先生はまた感じている。何故、どいつもこいつも、簡単に自分に人生を預けてきやがるのであろうか。先生はこれまでの人生、他者に忖度などせず、自分の思うまま好き勝手に生き、因果応報な面もあったがそれはそれで納得ずくで受け入れてきた。だが、ここへきてやたらと自分の思惑と関係無い場外から災難が降り掛かって来る。自分の人生が半分以上終わったところで、他人の人生が次から次へとのしかかってくる。勝手に自分の力で生きてくれ、と先生は切に願う。先生の自己認識では、先生は他人のお守りをしてやるような親切な紳士ではない。他者と関わり合いになるなんてまっぴらごめんの、偏屈おやじであるはずなのだ。実際、これまではそれで快適にうまく回っていた。それが、何でこんなことに。本当に、心底、放っておいて欲しい。
ちらっと見ると、ヘスブレックはまだ腰を折ったままの姿勢だ。何という強情なガキであろうか。
はああ、と先生はまた長いため息を吐く。先生は、偏屈である以上に、真面目なのである。その真面目さが、ため息を生む。
あの姿勢なら、放っておいたら腰が痛くなって諦めるんじゃなかろうか。先生はそんなことを思いながらも、顔を覆っていた手を離した。
「分かった、分かった。だから、顔を上げろ。」
先生は投げやりに言った。それを聞いて、ヘスブレックはぱっと頭を上げる。
「言っておくが、弟子にするわけじゃないからな。お前に一人で学問を修められる力が付いたら、自立してもらうぞ。それまで、面倒を見てやるだけだ。お前は存外呑み込みが早いから、1年かそこらで終わるだろ。」
先生は自分に暗示を掛けるように、希望的観測を言い添える。横で聞いているダスワルトは、それは無理じゃないかなと思ったが、先生の心中を慮って黙っている。
「ありがとうございます!」
ヘスブレックはまたがばっと頭を下げた。それを見ながら、先生はつまらなさそうに一言付け加えた。
「それとな、ご家族にはちゃんと話をしておきなさい。」
先生の言葉を聞いて、それまで満面に明るさを湛えていたヘスブレックは、顔を歪めた。先生はそれに気付いたが、意に介せずに続ける。
「ご家族が私に会いたいとおっしゃるなら、出向いてやる。お前がご家族のことをどう考えておるかは知らんし興味も無いがな、黙ってとんずらするのは許さん。何事も筋は通せ。それが嫌なら、二度と顔を見せるな。」
「筋を通さねえのはあっちなんだよ。」
「馬鹿もんが。他人に期待するな。人間なんてのは怯懦で怠惰なものだ。他人の基準にお前自身を合わせていたら、際限無く堕ちるだけだぞ。自分の行動の規範くらい、自分で創れ。」
先生はそれだけ言うと、机に置いてあった宿題を手に取って検分し始めた。説明力はあるのにそれを発揮するサービス精神の無い先生は、これにて会話終了のつもりらしい。
何か言いたそうな不満げな顔のヘスブレックだったが、先生への傾向と対策は既に十分理解している。これ以上粘っても有益な実りは得られない。椅子をがたがた鳴らして座り、先生が朱を入れた宿題を復習し始めた。
「…今日、帰ったら、お袋に話をする。それで良いんだろ。」
「ああ、そうしておけ。」
「何があっても先生は来なくていいからな。その手の病気がうつるぞ。」
「近付くだけではうつらんわ。」
机の上の紙から顔を上げないまま、二人がぼそぼそ話すのを聞いて、蚊帳の外のダスワルトは首をかしげた。
「お母上は病気か。何の病気だ。ほっといて大丈夫なのか?」
先生がまた複雑そうな、何かの判定に悩むような表情で顔を上げた。
「…お前はまだ、知らんでいい。」
「またそれか。」
ダスワルトが頭の後ろで腕を組んで、ちぇっと呟いたら、ヘスブレックが意味ありげなうすら笑いを浮かべてダスワルトを見遣った。
「俺が後でしっぽり教えてやるよ。」
「やめんか。」
「いつまでも子どものままじゃいられねえだろ、先生。」
「こいつを親類のところに送り届けるまでは、やめておいてくれ。こやつのお父上に申し訳が立たん。」
先生は悩まし気にため息を吐いた。
「…はあ…重すぎる…。」
先生はダスワルトとヘスブレックを交互に眺めて、頭を抱えたのであった。
結局、ダスワルトはちょっとだけ期待していたのだが、ヘスブレックによる特殊講義は実施されなかった。先生が駄目と言ったものは駄目だ、と妙に義理堅く拒絶された。本当に、先生の弟子として過ごす腹積もりらしい。だから、母親にもちゃんと今後の自分の身の振り方を説明してきたのだろう。宣言したとおり、先生を母親と突き合わせることは断乎として防いだようだし、いかなる話し合いがもたれたのかも説明しなかったが、ある日頬に青あざをこさえて、話し合ったという事実だけを報告していた。先生は、青あざに気付いてはいるようだったが、特に深入りもせずにフンと鼻を鳴らしただけだった。




