第90話
先生の家にたどり着くと、さすがに前後を入れ替わって、ダスワルトは先に家に入った。ただいま、と言いながら中を覗くと、先生は体調が良いのか、起きてお茶を飲みながら片目で本を読んでいるところだった。くん、と鷲鼻をひくつかせて、先生は頭を上げた。臭い、と顔に書いてある。その片目に、懐かしのぼろきれを身に着けたダスワルトと、どこかで見たことのある無頼の少年が映る。先生が限られた情報からなにがしかを推理し、発火するまでの時間は微々たるものだった。
「バッカもん!!」
史上最大の雷が発生した。窓ガラスが震えて割れるのではないかと、ダスワルトは一瞬不安になって窓に目を向けたが、そこまででは無い。
「お前は一体、何をやっておるのか!私の忠告を聞いていなかったのか?お前の耳は、何のために付いておるんだ、このたわけが!」
怒られるだろうなとは思っていたので、ダスワルトは嵐が過ぎるのを黙って待つ。しかし、雷雲はもくもくといくらでも涌いて出てくるようで、一向に過ぎ去らない。ヘスブレックに謝罪させるためにここまで連れてきたはずなのに、先生にひたすら首を垂れ続けるのはダスワルトただ一人である。何かおかしいな、と思う。今は模範的な謝罪を見せる場面なのだろうか。それならそれでしょうがないと、ダスワルトは腹を括った。
「私が軽率でした。大変申し訳ありませんでした、先生。」
ダスワルトは殊勝に謝ってみせる。ちら、とヘスブレックを見遣ると、あっけにとられたように先生を眺めている。落雷に免疫が無ければ、そうなるかもしれない。
ダスワルトがしおらしくしているので、先生も少し落ち着いたのか、嵐はひとまず落ち着いた。先生はじろりとヘスブレックを見据えた。
「それで、お前は何をしに来たんだ。」
不機嫌極まりない声音だが、嵐ではない。先生にしては紳士的な物言いである。話しかけられたことに気付いたヘスブレックは、もごもごと口の中で曖昧な音を発した。
「何を言っておるか分からん。はっきり言え。」
だーから模範謝罪を見せたのに、とダスワルトは残念に思う。小声でごまかすように不承不承ごめんなさいと言うくらいでは先生は許してくれない。
「こいつに、詫び入れろって言われたから来たんだ。」
ヘスブレックは言い訳がましく言った。それを聞いて、先生はしっしとイヌを追い払うように手を振る。
「それなら、今すぐ出て行け。」
「はあ?」
「他人に言われたから謝ると言うような輩の謝罪など、聞くに値せん。お前の本心ではないのだろう。互いに時間の無駄だ。帰れ。」
ヘスブレックが拳を握り締めた。ダスワルトはそれに気付いて、少し立ち位置を変えた。ヘスブレックが先生に襲い掛かるようであれば、直ぐに止めに入れる体勢をとる。だが、ヘスブレックはそれ以上の行動には出ず、ぎりっと奥歯を噛みしめた。
「そうかよ。それなら、帰るよ。それで文句はねえんだろ。」
いや、文句言いたいよ、とダスワルトは思うが、先生が追い払ってしまうのだから逆らえやしない。
くるりと踵を返したヘスブレックに、先生が声を掛けた。
「お前、あの刃物は捨てたのか。」
ヘスブレックは肩越しに振り向いて応える。
「捨てた。あんな験の悪ぃもの、使えるかよ。」
「そうか。それなら、代わりにこれを使え。」
先生は机の上に置いてあった細い木の棒を手に取って差し出した。ヘスブレックは怪訝そうな顔をしながらも、おずおずとそれを受け取る。手の平の長さ程度の長さの木の棒には、黒い物が挟まっている。鉛筆だ。
「暇ならここへ来い。読み書きを教えてやる。どうせ、字は読めんのだろう。」
「何でんなことしなけりゃなんねえんだよ。」
「馬鹿もんめ。読み書き算術ができるに越したことは無い。それくらいはお前にも分かるだろうが。どぶに捨てる時間があるなら、その間にペンを持て、ペンを。」
それだけ言うと、先生はまたしっしっと手を振って、本に視線を落としてしまった。もう会話終了らしい。
ヘスブレックは口を一文字に結んでそんな先生を睨んでいたが、ガンを飛ばしても先生にはいっかな効果が無い。けっと呟いて、わざと足音を立てて家から出て行った。
後に残されたダスワルトは、途方に暮れて先生を眺めた。謝らせに連れてきたのにそれはなされず、鉛筆一本渡して追い返して、先生は一体何がしたいのか。全然分からない。分からな過ぎて、しばらくぼんやり先生を眺めていたら、先生は本から顔を上げずにぼそりと呟いた。
「私のおらん時にあいつが来たら、お前が字を教えてやれ。」
「嫌だよ。あいつは先生に怪我させたんじゃないか。何でそんなことしてやらなきゃなんないんだ。」
「お前にゃ、まだ分からんかもな。」
先生はそう言って、顔を上げた。傷の無い側で頬杖をついて、ため息を吐く。
「教育を受けられないのは、本人の責任ではない。だが、教育を受けられない者は、あらゆる場面で不利益を被る。それで歪んだからと言って、本人だけを咎めるのは酷というものだろう。」
「…よく分からん。」
「お前は恵まれていたってことだ。与えられてきた恩恵を、少し分けてやれ。」
やっぱり、先生の言った意味は分からない。自分は恵まれていたんだろうか、とダスワルトは考える。早すぎるくらい早くに父母も兄姉も喪ったのに、それでも恵まれた人生なんだろうか。父親からも、母親からも、もっとたくさんのことを学びたかったのに。
父親が先生と同じ目に遭ったら、どうしていたんだろうか。本を読むだけならともかく、魔物との戦いで片眼は不利だ。ヘスブレックを叱り飛ばして、懲罰を与えただろうか。訴え出て、罪に問うただろうか。
分からない。どんどん、分からないことが増えていく。
分からないのに、そんなダスワルトにはお構いなしに、翌日からヘスブレックは先生の家に姿を現すようになった。すごく不機嫌そうな先生と、それに負けず劣らず不機嫌そうなヘスブレックが角突き合わせて、初歩的な文字の書き取りを行っているのを見ると、ダスワルトは頭がくらくらしてくる。世の中には理解できないことが多すぎる。




