第89話
そもそも元の扉が頑丈ではない。端材を打ち付けたその土台が傷んでいる。少年たちが総出で押し続ければ、じきに破壊されるだろう。ダスワルトは角材の端切れを拾い上げて、握りしめた。
「おい、ここを開けろ!ふっざけんなよ、てめえ!」
誰かが大声で喚いている。その背後では、ムカデにでも襲われているのか悲鳴が上がっているし、か細い鳴き声も混じっている。声ではまだどれが誰だか判断できないが、リーダー格が萎えているとは思えないので、大声で威嚇しようとしているのがヘスブレックであろう。
「開けてほしければ、先生に謝れよ。」
ダスワルトは負けじと大声を出した。
「誰だって?」
「あんたがこないだ切りつけた人だ。もう忘れたのか?あんたのせいで、右目が見えなくなるかもしれないんだぞ。」
「てめえ、やっぱりこないだのガキか。クソ下らねえこと言ってねえで、ここを開けろ!」
「先生はあんな傷を負っても、あんたを訴え出たりしていない。転んでできた傷だって言い張ってる。先生は筋を通してるぞ。あんたは、どうなんだよ。謝るくらい、したらどうなんだよ。」
ダスワルトがそう言うと、ヘスブレックは一旦沈黙した。おかげで、か細い鳴き声が複数であることが分かる。戦意を喪失した者が3人。扉が開いた時に、飛び出してきて脅威となるのは4人。ヘスブレックは件のナイフをまだ所持しているだろうか。
「…分かったよ、謝るよ。ごめんな。」
ヘスブレックは急に優しげな声になった。扉を破壊しようとする音は止んでいる。
「私に謝る必要は無い。先生に謝れ。先生のところに連れて行ってやる。」
「分かった、そうする。だから、ここを開けてくれよ。頼むよ。臭えし、暗いし、ムカデに食われるし、もう降参だって。」
「絶対だからな。」
「おう、約束するよ。」
ダスワルトは金槌の底に付いているくぎ抜きで、派手に音を立てて釘を抜き始めた。全部は抜かない。一部めり込ませたままにしておく。扉の隙間からこちらの様子を窺っている視線を感じる。
「釘抜いたよ。」
そう言って、ダスワルトはその視線に分かりやすく背を向けた。
その瞬間、扉に強く体当たりを食らわせる音が響いた。少々残しておいた釘のおかげで、いきなりは開かない。どん、どん、と数回当たったところで、扉は締め付けを失って勢いよく開かれた。その途端に、いきり立った少年が飛び出してくる。その首根っこに、ダスワルトは素早く角材を叩きこんだ。その度に、少年が一人ずつ白目をむいて気を失って倒れる。一人、二人、三人。残すところは、腐った生ごみまみれですすり泣く3人と、ヘスブレックだ。ムカデに噛まれたのか、顔や腕がところどころ赤く腫れている。相当痛いだろうに、ヘスブレックは果敢に拳骨でダスワルトに襲い掛かった。相変わらず大振りで、読みやすい動きだ。こいつはすぐに気絶させてやるつもりはない。ダスワルトは身軽に避けると、ムカデの噛み跡を狙って角材を叩きつけた。すぐに、ヘスブレックは悶絶してその場にしゃがみ込む。
「あんたが先生に謝るまで、ねちっこく狙い続けてやるからな。」
警戒を解かないまま、ダスワルトは宣言した。
ヘスブレックは痛む腕を押さえてうっすらと涙の浮かんだ目でダスワルトを見上げた。眼の光は消えていない。大したもんだ、とダスワルトは感心してしまうが、油断はしない。先ほど拳で襲い掛かってきたくらいだから、例のナイフは無いのだろう。素手の格闘技でも負ける気はしないが、相手の方が体格が上だ。隙を見せてはいけない。
「お前、あの役人の何なんだ?子どもじゃないだろ。」
どことなく投げやりな口調でヘスブレックが口を開いた。
「ただの極めて不幸な偶然で出会っただけだよ。」
ダスワルトはかつて先生が口にした言葉を繰り返した。こんなやつ相手に、正直な事情を事細かに説明する気はない。当然、ヘスブレックは理解できないという顔付をする。
「分かんねえな。赤の他人ってことか。」
「そうなるかな。」
今からたったの1年ちょっと前のダスワルトは、あんな偏屈おじさんと一緒に暮らすことになるとは想像もしていなかったし、あんな陰険な目つきの人とお近付きになったこともない。暮らしていた国すら違う。先祖を何代かたどったって行き着かないだろう。
ヘスブレックは口を歪めて、ぺっと唾を吐き出した。汚いなあ、とダスワルトは呆れる。何だかんだで品行方正を目指して育てられてきたので、そういった習慣は自身にも身近にも無い。自分がこいつの親父だったら、雷を落とすところなんだが。いや、その前に、あんなところで毎日時間を持て余してくだ巻いて、ろくでもない小悪党として生活していることそのものに雷を落とすか。先生ならどうするかな、とダスワルトはちょっと考える。
ヘスブレックは傷む部位をさすりながら、立ち上がった。
「そいつのところに、行ってやるよ。案内しな。」
「行くだけじゃなくてさー。」
「詫びりゃいいんだろ、詫びりゃ。分かってるよ、うるせえな。」
ふてくされたように口をとがらせるが、反抗する気はもう無いようだ。ヘスブレックは周りでさめざめと泣いている少年たちに目を向けた。
「べそべそしてんなら、さっさと水で洗ってこい。今日はもう解散だ。」
苛立ったように言って、大股ですたすたと歩き始める。どこに行くつもりだろうか、とダスワルトが見守っていたら、ぎっと勢いよくダスワルトを振り向いた。
「案内しろっつってんだろ。何ボケッとつっ立ってんだ。」
いちいち突っかかってきやがるのが気に食わないが、とりあえずは勝利したらしい。ダスワルトは少し迷ってから、角材をその場に打ち捨てた。何となれば格闘でも勝てる相手だし、武器になりそうなものをぶら下げて帰ったら何より先に先生からお叱りを受けるのは自分である。手ぶらの方が良い。逃げられたら、また狙いに行けばいいだけだ。
前に立って背中を見せて歩くほど、警戒を緩めることはしない。ダスワルトは半歩後ろから行く先を指示しながら先生の家に向かった。明るい表通りに出ると、小汚い服装の二人連れはいささか悪目立ちし、あからさまに眉を顰められる。ヘスブレックは本当に観念したようで、肩を怒らせながらも、そんな衆目の中を黙って歩いていく。




