第86話
「こら、やめんか!」
先生の声が聞こえた。血気盛んな若者たちの無駄な乱闘を止めようと、割って入ろうとしている。危ないよ先生、と思う間もなく、先生もボコスコ思うさま殴られている。先生だけでもこの輪から出さないと、と思ったダスワルトの腕に、熱いような痛みが走った。斬られた。刃物を持った少年がギラギラとした眼差しでこちらを睨みつけていた。まずいな、とダスワルトは思う。冷静さを失っていやがる。多分、当初はあっちもただの脅しのつもりだっただろうに。
そこに、リーチの長い誰かの足が伸びてきて、ダスワルトはたたらを踏んだ。しくじった。やられる、と覚悟を決めた途端に、誰かに突き飛ばされた。ぐるりと回転してすぐに身を起こし、振り向くと、先生が目の辺りを抑えてうずくまっていた。
「まったく、愚か者どもめ…」
指の間から血を滴らせながら、先生は呪詛を吐き出す。
先生は傲然と顔を上げて、ナイフの少年を睨みつけた。その血の赤さと、先生の気迫に押されたように、少年は動きを止めている。
「そのちゃちな刃物で万能の力でも得たつもりか。だからお前らは愚かなのだ。そんな物を振り回したところで、せいぜい私やこのガキを殺せるだけではないか。それがお前に何をもたらす。一時の爽快感か?それを得るのがお前の望む力なのか?馬鹿め。」
先生はゆらりと立ち上がった。
「そんなものを握る暇があったら、ペンを握れ、ペンを!」
何を言っているんだ、とダスワルトは思ったが、先生ににじり寄られている少年はその不気味な迫力に負けて後ずさっている。
「今なら不問に処してやる。その刃物を捨てて、去れ。」
先生がそういうや否や、少年は本当にナイフを投げ出して逃げだした。何か恐ろしいものに追い立てられているかのように、時々後ろを振り返りながら、足をもつれさせて駆けていく。他の少年たちも、それに釣られて慌てふためいて散って行った。捨て台詞の一つすら残していかなかった。
ダスワルトは腰を縛っている布をほどきながら先生に駆け寄った。
「先生、大丈夫か?」
「大丈夫なわけが無かろう、バカタレ。」
先生はダスワルトの差し出した布を受け取り、顔の傷に当てた。血まみれでよく見えなかったが、右目の辺りを切られていたようだ。
「先生、目が…」
「ああ、駄目かもしれんな。とりあえず、診療所へ行く。お前も怪我をしただろう、ついて来い。」
ついて来いと言われなくても、怪我が無くても、先生を放ってはおけない。片目のせいか、痛みのせいか、足取りのおぼつかない先生を肩で支えつつ、ダスワルトは先生の指示する方向に進んでいく。
切られた自分の腕もじんじんと痛いが、それよりも先生が心配だ。死ぬような怪我ではないだろうが、しかし、先生は痩せて枯れていかにも怪我とか病気に弱そうだ。もしかしたら、傷口から雑菌が入ってあっけなく逝ってしまうかもしれない。そうでなくたって、目がやられていた。元通りに見えるようになるか、分からない。
先生に何かあったらどうしよう。
故郷に帰れなくなるとか、当面の生活に困るとか、そんな具体的な問題は頭に浮かんでこない。ただひたすら、先生までもがいなくなってしまうのが怖くて仕方がない。先生がいなくなったその後の自分が想像できない。真っ暗闇の中に放り込まれて、足元が崩れて落ちて、消えていきそうな気持になる。
表通りまで出ると、先生の様子に気付いた通行人が驚いた様子で近寄ってきて、手を貸してくれた。人間不信の権化の先生も、さすがにこの時ばかりは他人の温情を断ったりはしなかった。
診療所に着いて、自分の腕を消毒されたり包帯を巻かれたりしていても、ダスワルトは先生のことが気がかりですっかり上の空である。軽い切り傷のダスワルトはあっという間に診療が終わり、待合室の片隅で石像のように固まって先生の処置を待つ。嫌な考えばかりが浮かんできて、寒気がする。通りかかる医療スタッフを捕まえては先生の様子を尋ねるが、知らないと言われるか、まだ終わらないと言われるかのどちらかしかない。
どうしよう。このまま先生が出てこなくて、冷たく硬くなった骸を背負って帰らなきゃならなくなったら、どうしよう。先生の雷すら聞けなくなったら、どうしよう。どんどん不安になってきて、硬い木の椅子の上で膝を丸めて小さくなる。
自分のせいだ、と思う。あんなところで喧嘩なんかしていたから、先生を巻き込んでしまった。あんな布切れにこだわらなきゃ良かったんだろうか。でも、あれだけはどうしても失くしたくはない。じゃあ、掏摸に遭わなければ良かったんだ。ぼーっと露店なんか眺めて、隙だらけで突っ立っていたから、こうなったんだ。人間はみんな強盗か詐欺師で、常に他人を陥れようとして影からこちらの様子を窺っているんだから、あんな雑踏の中で油断してはいけなかったんだ。先生の教えてくれた通りだ。
「どうした、寝とるのか。」
不機嫌そうな声が頭の上から降ってきて、ダスワルトは顔を上げた。顔にグルグル包帯を巻かれた先生が、残った片目を陰険そうにすがめてこちらを見ていた。
「帰るぞ。」
「先生、もう平気なのか。」
「平気ではない。阿呆ガキどものせいでとんだ目に遭ったわ。」
口元を歪めて先生は吐き捨てる。いつもの先生だ。それを見ていたら、急に全身の力が抜けてしまった。椅子の上でぐったりしたら、急にぼろっと涙が出てきた。
「何だ、傷が痛むか。」
「別に痛かない。先生も死んじゃうのかと思っただけだ。」
「この程度では死なんわ。勝手に殺すな。」
きれいに折りたたまれた手巾が無造作に膝の上に落とされた。顔を拭けという事らしい。ダスワルトは手巾をぐしゃぐしゃに握って、力任せに顔を拭った。鼻水もかんでやった。でも、拭いても拭いてもまた新しいのが出てきて、終わらない。そうしていたら、頭をごしごしと撫でられた。
「お前を置いて逝くわけにはいかんだろう。馬鹿もんが。」
ダスワルトが先生を見上げると、先生はばつの悪そうな顔でダスワルトの頭から手を離し、そっぽを向いた。へん、と鼻を鳴らして、不機嫌そうな様子を取り繕う。わざわざ努力してそんな顔しなくても良いのにな、と思ったら笑えてきた。




