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異世界転石の先  作者: 七田 遊穂
第6章 先を生きる人
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第83話

 そうして、ダスワルトは1年余りを過ごした島を後にした。魔物がなぜダスワルトをここに送り込んだのかは永遠の謎だが、もしかしたら、直接故郷に送られていたよりも良かったかもしれない、とダスワルトは海を見ながらちょっぴり思う。ダスワルトが自らの経験と距離を置いて冷静に客観視できるようになるには、先生と過ごす日々は必要な時間だった。先生は話を聞いて信じた上で、無暗に同情したり腫物のように見たりすることなく、ダスワルトをただの一小僧として扱った。自分はそれに助けられていたんだ、と今では少し理解できる。先生とのその時間が無かったら、いきなり故郷に帰っていたら、自分は何をしでかしたか分からない。


 ただ、ちょっと長すぎたな、とも思う。先生の偏屈さがうつってしまったかもしれない。


 父母と兄姉は、勇者として魔王討伐の申請を役場に出した。あれから1年以上経ったのだから、4人の死亡確認はとっくに伯父の家に到着しているだろう。しかし、ダスワルトにはその連絡手段は無い。父親が直前にしたためていた手紙で伯父にも事情は説明したことだろうが、現時点ではただの音信不通のはずである。とはいえ、とダスワルトは思う。あの伯父なら、ダスワルトも死んだと断定するだろう。いや、あの伯父でなくても、普通はそう考えるはずだ。まさか、勇者が徒党を組んで魔王に挑み、全員討ち死にした中で、ただの子どもが一人生還するとは誰も思わない。


 先生からは、本土に着き次第、伯父に無事を知らせる書簡を送れとせっつかれている。紙も渡された。でも、全然その気になれない。父親の手紙を渡す以外に伯父に用は無いし、関わりたくもないのだ。そして、父親の手紙は、確実に手で渡さなければならない。自分であの家まで届けるしかない。


 自分がひょっこり生きて帰ったら、あの伯父はどんな顔をするのだろうか。驚くのか、怒るのか、信じようとしないのか、はてまた、喜んで迎えるのか。最後のは無さそうだな、とダスワルトは鼻息を吐く。それに、そんなことをされても、こちらの心の氷は解けない。


 そんなことを考えながら海を見て、故郷を思い出していたダスワルトであるが、故郷に向かうどころか本土に着いてからが長かった。


 いや、着く前も長かった。


 先生が、本を全部持って行こうとするからだ。先生の書斎の本は、赴任するときに持参したものと、それから荷受けをするたびに所望してぼつぼつ増やした分の合計である。つまり、来た時よりもかなり増えている。それに加えて、先生が書き散らかした紙切れもかなりの量になっている。それら全てを抱えて出ようとする先生が腰を抜かしかけ、手伝おうとしたダスワルトも立ち上がれず、その隙に家が益々傾いで、二人揃って家と本に潰されるところであった。


 泣く泣く先生が厳選した本も、厳選されたとは思えない分量で、隣の島に行く小さな荷舟一便ではとても乗り切らず。何度か往復してもらって運びきったは良いが、今度は大島へ行く舟に積むのにまた難儀し、その難儀は本土へ行く船に載せる際にも下ろす際にも当然発生する。更に、先生が島流しになる前に暮らしていた町は船が着くような港町ではなく、もう少し内陸の都市である。そこまで運ぶのがまた一苦労だ。本土に着いたからはいさようなら、とするわけにもいかないので、これもご縁と最後まで先生をせっせと手伝って、さすがにくたびれたダスワルトがばたんと先生の家で倒れ伏したのは、島を出てからかれこれひと月以上経った頃のことであった。もう、いい加減、故郷に向かいたいダスワルトである。


 それなのに、


「無理だぞ。」


という先生の無情な回答が聞こえた。


「お前みたいな子どもが一人で国境を越えることはできん。関所を無視した山越えでもできれば別だが、山に慣れた大人でも容易に乗り越えられる道じゃない。」


 先生の暮らす都市は、ダスワルトの故郷とは異なる国家に帰属している。その間の行き来は自由自在とはいかない。


「うちからイェメナには行けたのに…。」

「それは、兄さん姉さんの勇者免許があったからだな。あれはかなり強力な通行証になると聞いたことがある。魔物に国境は無いからな。」

「じゃあ、先生、付いてきてよ。イェメナに行く途中に寄ってくれたって良いじゃん。」

「バッカ言え。まだこっちが片付いておらん。」


 先生は、長年勤めた中央官庁を辞めることに決めた。だからこそ、こうして派遣先から勝手に遁走して自宅に帰ってきている。そうでなければ、任官拒否の扱いになり、ロクな目に遭わない。さりとて、辞めますと口頭でお伝えしてその瞬間にさっぱり綺麗に縁が切れるというものではない。ああでもない、こうでもないと、役所の手続きは何であっても煩雑なものである。先生は帰ってきてからというもの、毎日のようにかっちりとした官服に身を包んで庁舎へ出かけていく。その姿を見て漸く、先生が本当に中央の立派な官吏だったんだなとダスワルトは実感するが、それよりも、早く故郷に向かいたいのである。


 島で暮らしていた時と違って、草や魚を獲る必要も、ぼろ屋の修繕をする必要も、空き家から拾ってきた古着をつなぎ合わせて着られる物を作る必要もない。暇でしょうがない。とりあえず、ずっと使っていなかった先生の家を掃除しても、まだ暇だ。そもそも、都心の住まいであるので狭い上に、本以外には大して物が無い。掃除をする場所も少ない。家族はいなかったのかな、とダスワルトは疑問に思うが、それを匂わせるようなものも見当たらない。寝台も一つしかないから、ダスワルトは適当に毛布や反古紙を敷いて床に寝ている。熟睡はできるが、寝ぼけた先生が便所に行こうとして蹴っ飛ばすのが難点である。


 剣術の稽古をしたいところだが、先生の家は狭い。筋トレくらいならできるが、棒切れの一つでも振り回そうものならそこいらの物や壁を破壊しそうになる。やむなく、ダスワルトはどこかいい場所ないかな、とほっつき歩くことになる。

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