第79話
みし、と椅子のきしむ音が聞こえてそちらを向くと、先生が戻ってきていた。
「島から出たいなら、出ると良い。お前の言った通り、お前の存在はもう公になっている。島民に怪しまれることもあるまい。私の遣いだと言って、本土に出ることもできるだろう。…出るだけならな。」
先生の言い方に引っかかって、ダスワルトはじっと先生の言葉の続きを待った。先生はしばらく膝の上に置いた自分の手のひらに目を落としていた。
「出た後のことは、知らん。お前は、追われることになるかもしれん。親戚のうちにたどり着く前に、豚箱入りかもしれん。それでも良ければ、今すぐ出ていくと良い。」
「豚箱入りって、何だ?」
「そういう言葉は知らんのか。…まったく、本当に立派なお父上を持ったもんだな。」
先生は半ば呆れたような顔でため息を吐いた。やっぱり、この子どもの影にちらちらと垣間見える父親が、重い。こんな子の養父役は、自分ごときではもう無理だ。先生は心の中で白旗を上げる。降参した先生は、もう正体を取り繕うのをやめることにした。
「犯罪者として捕まる、ということだ。」
「え、何で?この島から出るのが罪なの?この辺の島の人はみんな犯罪者で、本土に出たら捕まるのか?」
「馬鹿もん。そんなわけがなかろう。犯罪者は、私だけだ。」
「先生が?」
ダスワルトは目を丸くして先生を凝視した。常に陰険な目つきで、人を信用せず、つっけんどんな物言いしかしない偏屈おじさんであるが、悪事を働くようには見えない。見えないけれど実は極悪人なんだろうか。だからこそ、たやすく他人を信じるなと事あるごとに言っていたのだろうか。
先生はふう、と天井を見上げた。
「私は何もしておらん。自分ではそのつもりだ。ただ、陥れられ、犯罪者の汚名を着せられ、今ここにいる。」
「…」
「お前、疑っておるな。」
「いや、先生が何かしたとは思えないんだけどさ。ただ、先生って、いつも他人を見たら詐欺師と思えみたいなことばっかり言うじゃん。何というか、偏見とか誤解があるんじゃないかと…。」
先生はものすごく不快そうにダスワルトを睨みつけた。
「私に原因があると言いたいのか?」
「何か、誤解を招くような言動があったんじゃないのか。先生って、口悪いしさ。」
目つきも悪いけれど、そこは指摘しないでおく。
「誤解か、恣意的な曲解かは、確かに断定はできんがな。私に対する悪意があったのは確かだ。絶対だ。間違いない。何故なら、私をここに追いやることで利を得る連中がやったことだからだ。」
「先生がここにいると、何か良いことがあるのか?」
「ちょっと違う。私が中央にいないことが、奴らにとっては良いことなんだ。ここだろうと、魔王城だろうと、どこだって構わんのさ。私が勇者だったら、魔王城に行かされていたかもしれんぞ。」
先生が勇者、とダスワルトは具体的に想像しようとして、大失敗した。このカリカリに痩せた非力な先生は、鍬を振るうのでさえ腰が引けている。ダスワルトが一人で剣術の訓練をしていると、信じられないものを見るような白い目で一瞥して、明らか過ぎる程に距離を置く。天地がひっくり返っても、勇者にはなれそうにない。笑いそうになって、ダスワルトは頬の内側の肉を噛んで堪えた。
「まあ、お前に、中央政府の中のどろどろを事細かに話すつもりはないがな。要は、魔物より性根の歪んだ化け物の巣窟だ。上に這い上がるには、他者を引きずり落とすしか無い。常に他人を監視し、隙あらば付け入り、蹴落とし、少しでも優位な座を得ようとする。そういう連中がひしめいているんだ。」
「先生もそうだったのか?」
「…そうでなかった、とは言い切れんな。私も同じ穴の狢だったんだろうな。今にして思えば、だが。」
先生はそう言って、少し疲れた表情を浮かべた。
「それで、先生は競争に負けて、引きずり落とされる側になって、ここにいるのか。でも、いくら何でも犯罪者って、おかしくないか?先生はまだ官吏なんだろ。」
「身分の上ではな。私はここで調査事務を行うよう任命を受けている。一種の懲罰人事だな。飼い殺しだよ。勝手に島を出れば、任官拒否で懲罰を受ける。良くて懲戒免職、悪けりゃ懲役…クビか牢屋かということだ。」
「何だか、魔王討伐令と、似てるな。逃げ場が無いんだ。」
「そっちの法規には詳しくないから分からんが、確かに逃げ場は無い。」
死ぬことは無いけれど、と先生は心の中だけで付け加える。職を失おうと、懲役刑に処されようと、誰かにむごたらしく殺されてその生涯を終えることは無い。勇者よりは文官の方がよっぽどマシである。ただ、肉体は生かされていても、精神は殺される、と先生は感じている。
「そんな私の関係者だと名乗って外に出たら、何が起こるか、私にも分からん。念入りに潰されるのか、もう何をしても無視されるだけなのか。外の世界での私の扱いがどうなっているのか、最早知る手立ても無いからな。」
「途中まで先生の従僕のふりして、本土に出たら正直に話したらどうだろう。」
「やめておけ。お前の話など、信じる者はいない。また魔物扱いされて、今度こそ殺されるぞ。」
ぴらぴらと片手を振って先生は却下する。ダスワルトはぶうとむくれた。
「私が人間不信だからそう言うんじゃないぞ。お前の話が、突拍子もなさすぎるんだ。お前が思っている以上に、勇者や魔物は一般人からは遠い存在だ。何だかよく分からないものってのは、人に不安と恐怖を与える。ちょっとしたことで容易に刃を向けられる。」
そんなこと無いけどなあ、とダスワルトは思う。家族を含め、自分の身の回りの勇者たちが人々から忌避されていたとは思えない。先生の色眼鏡は色が濃すぎる気がする。
「でも、先生は私の話を信じてくれただろ。魔王城も知らなかったのにさ。」
「信じるしかないだろが。ガキンチョがぎゃんぎゃん大泣きして喚くんだ。他の説明を思いつく余裕も無かったわ。」
先生は思い切り顔をしかめた。あの夜、こいつがここに現れていなかったら、今でも随分気楽だっただろうに。よりによってこんなところにダスワルトを飛ばしたという魔物が、実に恨めしい。先生に対して深い遺恨でもあったのか、と疑りたくなるが、魔物を見たことのない先生にその心当たりはない。偶然にしては、運が悪すぎる。その他の点でも散々に運の悪い人生ではあるが、ここまでくると祟られ過ぎだ。




