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異世界転石の先  作者: 七田 遊穂
第6章 先を生きる人
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第75話

 先生がそうして悩みながらも、打つべき手段も思いつけずに、いつも通りに書斎で本に囲まれていたら、軽い足取りでダスワルトが帰ってきた。手に見慣れない器を持っている。


「何だ、それは?どこで拾ったんだ。」

「レモンのはちみつ漬け。向こうの島でもらった。」

「はあん?」


 先生は口を半分開けたまま、ダスワルトをぽかんと眺めた。ダスワルトは器の蓋を開け、指でひょいとレモンを摘まんで口に放り込んだ。ちょっぴり海の水が混じってしまったが、スッパ甘くて、美味い。先生の食料には嗜好品が殆どないから、甘いものは久しぶりだ。唾液があふれ出て、あごの脇のところが痛いくらいである。


「先生も食うか?」

「要らん。それより、向こうの島って、どうやって行ったんだ。」

「泳いで行った。今日は波も低いし、行けそうだったからさ。意外と近かったよ。」


 先生の暮らす小島と、最寄りの離島はさほど離れていない。泳ぎの達者な者なら遠泳できる距離である。ダスワルトの生家は海沿いの都市にあり、幼い頃から海で泳ぐのはお手の物だ。しかし。


「バッカもんが!」


先生は巨大な雷を落とした。


「何度も言っとるだろう。この辺りは穏やかなように見えて、潮流の複雑な場所が多いんだ。溺れるぞ!」

「溺れなかったじゃん。潮流くらい、見てから行ったし。」

「海を舐めるな。折角助かった命を無駄にするんじゃない。お前が海の藻屑になっても私の心は痛まんがな、自分が多くの人に生かされたことを忘れるな。」


 へいへい、とダスワルトは生返事をする。どうにも先生は口やかましい。その上、ダスワルトにとって痛いところを突いてくる。そうされると、ダスワルトはまともに受け止めるのが嫌で、いい加減な返事をして流してしまう。


「私が死んだら、先生も心痛めてくれよ。」

「馬鹿を言うな。歳の順を守れ。」


 へん、と先生はそっぽを向く。その先生に、ダスワルトはレモンのはちみつ漬けをぐいっと押し付けた。


「ほら、先生も食いなよ。甘いもの、滅多に食えないだろ。」

「そんな物、食えるか。毒が入っておるかもしれん。」

「んなわけないじゃん。ばあちゃんの手作りだって言ってたよ。」

「他人を信用してはならん。」


 先生はダスワルトを真正面から睨みつけて、厳かに宣言した。


「魔王より、魔物より恐ろしいものは、人間だ。それは、魔物に会ったことが無い私でも分かるぞ。」

「会ったこと無いなら、比べられないだろ。」

「他人を罠に陥れ、底なし沼に突き落し、もがきつつ沈みゆく様を上から見下ろして哄笑するのが人間というものの本質だ。お前が見た魔物は、そんなことをするのか?しないだろう。人間の方が、遥かに奸佞であり、残酷であり、悪辣だ。人間は信ずるに足りん生物だ。お前のように気安く他者を信用すると、いつか必ず手酷いしっぺ返しを食らうぞ。人間は信用するな。」


 先生は偏屈ではあるが、言うことは概ねまともで、確かな知識に裏付けられたものが多い。それに、先生が見も知らぬ父親のことを尊重した上でダスワルトに接してくれているのを感じるので、先生の教えはダスワルトも素直に聞き入れている。が、こと人間不信という点においては、先生は異常である。こんなことは父親も母親も絶対に言わないだろうな、とダスワルトは毎回思う。こればかりは、鵜呑みにしていたら人間性が歪む気がする。


 そもそも、なぜ先生がこんな辺鄙な離島で一人住まいをしているのか、ダスワルトは詳しいことを知らない。都会で官吏をしていたという話はちらっと聞いた。何かの都合で地方派遣されるにしたって、こんな人のいない、役所もないところに官吏が要るはずがない。虫も嫌いだし、汚れるのも嫌いだし、泳げないし、潮風で本が傷むのも心配しているし、好んでここに隠居しそうな人にも見えない。ここに暮らすことになった原因が、先生の人間不信の根底にあるのではないかと思っているが、今のところそれを聞く機会は無い。


 先生に感謝はしているが、こんなところに長居していられない、とはダスワルト自身も思っている。まずは故郷に帰って、父親の手紙を伯父に押し付けてこなければならない。それからのことは、その後で考える。


 先生の島に居続けたところで、状況は何も改善しない。荷運びの小舟を利用するのが一番手っ取り早そうだが、人間不信の先生は、絶対に近付かせてくれない。この島にいるはずのない存在であるダスワルトが顔を出せば、魔物だと勘違いされて先生もろとも殺されると信じ切っているのである。遠目に見た限りでは、荷を運んでくるのは武装もしていないただの漁夫でしかないので、殺されはしない気がするのだが、そこで先生の逆鱗に触れても困る。ひとまずは、荷運びの小舟のことは度外視することにしている。


 ということで、ダスワルトは先生には黙って隣の島に通い続けた。とはいっても、ほんの数度だけである。季節が変わると潮目も変わる。海水温も下がる。子どもの体力で泳いでたどり着ける季節は限られている。その数度の通いの間に得られた知識と言えば、お隣の離島から本土までは直接の船便が無いこと、そして、住民がかなりの魔物アレルギーであるということくらいである。島内に魔物がいるのかというと、そうではなさそうなのに、魔物と聞くだけで恐ろしい顔をされる。その名を口にすると魔物が召喚されて出てくるとでも思っているかのような勢いだ。おかげで、正直な身の上話をすることもできず、島の誰かの子どもですという顔をしてほっつき歩くしかない。


 本土に行くには、離島群の中で最大の島まで行かなければならないが、どんなに季節が良くても泳いで渡るのは不可能である。このお隣の島から、小舟でまず大きな島まで渡らないといけないのだが、それをどうするか。何食わぬ顔をして舟に潜り込んでしまいたいところだが、島間の連絡舟は非常に小さいから、こっそり忍び込むのは無理そうだ。堂々と乗り込んだら、お前は誰だという話になるし。


 ダスワルトは窓の外を眺めて、うーむとうなった。冬の気配が足音を忍ばせてやってきている。去年の冬は、隙間風が自由自在に吹き荒れて寒かった。舟の問題も大事だが、この家の修繕も喫緊の課題だ。どんどん朽ちていく一方である。空き家から適当な資材をはぎ取っては、屋根や壁に継ぎを当てているけれど、根本解決にはならない。どんどん傾いてきている気がする。柱もみしみし鳴るし。本土に渡れる目算が立つ前に、この家が崩れて先生もろとも野辺で朽ち果てることになりかねない。


 魔物は、こうなることを知っていてここに自分を送り込んだのだろうか。殺しはしないが、二度と魔王城に近付けないような軟禁状態。そう勘繰りたくもなるけれど、あの魔王城の魔物たちが、先生のこの暮らしをつぶさに知っていて利用しようと考えたというのは、ありえないような気もする。先生はどこをどう見ても魔物とは関係なさそうだし。

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