第74話
耳障りな音を立てて扉が開いた。と思ったら、どたどたとバランスの悪い足音が近づいてきた。焦る気持ちに脚の動きが追い付いていない。
「バッカもんが!」
足音の主が姿を現すや否や、ドガンと雷が落ちた。痩せて枯れて脂肪も筋肉もない貧相な体のどこからこんな大声を出しているのか、ダスワルトはいつも疑問に思う。
「書物を尻の下に敷くとは、どういう了見だ!さっさと降りろ!本に謝れ!土下座だ!」
「先生の部屋、他に足の踏み場も無いじゃん。本持ち出すと怒るしさ。」
そう言って、ダスワルトは部屋をぐるりと眺める。四畳半程度の広さの小部屋に書物の詰まった書棚が屹立し、それだけでは収まりきらなかった書物が机の上にも椅子の上にも詰まれ、それに加えて何かを書き散らした紙が一面に散らかっている。文字通り、足の踏み場は無い。踏む前に手や足でずるずると物をどけて、立つスペースをまず確保する必要がある。
それは事実であるので、先生と呼ばれた中年の男性はぐぅと言葉に詰まった。
「…何が読みたいんだ。」
「これ。」
「ああ、それなら、こっちで読め。いいか、飲み食いしながら読むなよ。お前はそれをやらかすから、持ち出し禁止にしたんだからな。」
「へーいへい。」
ダスワルトは一冊の本を手にしたまま、小部屋を出て、台所と併設の居間にやってきた。来た途端、もう一発お目玉を喰らう。
「返事は短く一回で良い。」
「はい。」
ダスワルトはぼろい椅子に腰かけ、本を開いて机に置く。小言を言われたばかりなのに、喉が渇いて、カップに水を入れている。それを見て、先生は呆れたようなため息を吐く。
「お前なあ、本に関してはお父上に厳しく躾けられてたんじゃないのか。何でそんなに雑なんだ?」
「父さんが厳しいのは本だけじゃないけどな。何を何度言っても雑だから、怒られてばっかだったんだよ。父さんでも直せなかったんだから、先生は諦めてくれよ。」
「諦められるか、馬鹿もんが。お前のお父上に顔向けできんわ。」
先生もかしいだ椅子に座りこんだ。
この子どもがある夜に突然この廃屋にも等しい古家に転がり込んできて、1年が経とうとしている。魔王だとか、魔物だとか、勇者だとか、訳の分からん事ばかり言っていて、こいつ自身が魔物なんじゃなかろうかと疑ったが、話を聞いているうちに事実だろうとの確信を得た。魔王城とやらで、随分とむごい目に遭ったらしい。それは気の毒だが、正直なところ、勇者なんぞになった方が悪いと先生は思っている。
勇者なんてものは、剣や槍を振り回し、魔法なんて珍奇なものを使って、そこいらじゅうで暴れまわる無頼の徒である。近付きたくない。勇者がいなくても、おそらく魔物は大した害をもたらさない。というのが先生の持論であるが、この先生は魔物と接点のない都市部でぬくぬくと生まれ育ち、実物も実害も間近で見たことが無いので、その言はまことに無責任ではある。
そんなヤクザな勇者を両親に持つ割には、この子どもは妙に育ちが良かった。この歳で十分に読み書きや算術ができるし、歳の割には難しい言葉も歴史も科学もよく知っている。生来の性質は極めて粗雑なようだが、気を付けさえすれば上品な所作で振る舞える。不思議に思って合間合間に話を漏れ聞けば、父親がなかなかに教養のある硬骨な人物だったようだ。
重い、と先生は思った。そんな立派な御仁の後を継いで、この子の養父の役割を果たすのは荷が重すぎる。どうやらご立派な親族もいるようだし、さっさと出て行って欲しい。そもそも、この歳で、この場所で、子育てなんぞしたくない。
しかし、追い出すのは難しい。何しろ、先生が暮らしているここは、本土から離れた内海の離島である。付近にはいくつも似たような離島が点在し、本土から眺める分には風光明媚極まりないのだが、狭い島内では追い出されても行く先が無い。ブーメランのように戻ってくるしかない。だというのに、この小島での生活は子育てにはまるで向いていない。それどころか、艱難辛苦を極める。
まず、小島であるので水場が少ない。夏場に雨が降らないとすぐに枯れる。そして、海岸線は海面から急峻に断崖がそそり立ち、舟を付けられる場所は非常に少ない。更に、平らな土地も乏しく、耕作に適さない。いや、土地はまだしも、耕作する人間がいない。この島には、先生しかいないのだから。
付近の離島には浜辺が広がり、集落がある。しかし、先生の住む小さな島は、打ち捨てられた廃墟しかない。先生の生命線は、付近の離島から定期的に小舟でやってくる食料等の荷と、その辺りの土に適当に生やしている野菜もどきの植物である。それらで腹を満たしながら、先生は書物に囲まれ、誰も読むことのない研究報告書を作成するのに余念が無い。というか、それしかすることが無い。
先生は、官吏である。それも、血縁でがっちり固められた片田舎の木っ端役人ではない。超難関の登用試験を潜り抜け、都市の中央部に所属する、上級官吏である。それが、面白くないことに、こんなところに閉じ込められている。
自由に島からは出られない。この島にやって来るのは、必要最低限の物資を積んだ離島からの小舟だけであり、先生を乗せたら転覆する。というほどではないが、上級官吏のくせにこんな何も無い小島に引きこもる先生は不気味極まりなく、先生に関わると罰せられるという噂さえ立ち、小舟は荷を放り出すと可及的速やかに先生の小島から離脱してしまう。のたのたと部外者が乗り込む暇は無い。
だから、追い出したくてしょうがないし、子育てもしたくないけれど、イェメナの地から魔法で飛ばされてきたというこの子どもを本土に追いやってしまうのは極めて困難なのである。
裏を返せば、こんな土地に忽然と姿を現したことそのものが、この子どもの身に降りかかった信じがたい出来事が事実であることを物語っているとも言える。
先生は頭を抱えた。自分がここを脱出するのでさえ絶望的なのに、こいつをどうしろというのか。その答えが出ないまま、ずるずると時が過ぎる。
ダスワルトは丈夫で、良く動く。文句も言わずに水汲みに行くし、そのついでに魚や貝を獲ってくることもある。教えたら、食べられる植物もたんまり摘んでくるようになった。家の補修も素人ながらに何とかつぎはぎしてくれる。畑らしきものも耕す。先生が風邪を引いたら、看病もしてくれる。本音を言えば、先生が一人で暮らしていた時よりも楽ちんで、快適だ。多少本の扱いが乱暴であっても、それを補ってなお余りある利点がある。それが、ダスワルト追放のために先生が今一つ真剣になれない理由の一つである。その後ろめたさがあるので、先生は先生なりに、お父上の遺志を継ぎ、ダスワルトをしっかりとした大人に導いてやらねばと思ってはいる。
でも、重い。重すぎる。
先生にできるのは、せいぜい、勉強を教えることくらいだ。だから、勉強ばかり詰め込んでやっていたら、先生と呼ばれるようになった。でも、もうそろそろ、この学校は卒業して頂きたい。でも、どうしたら良いのか、分からない。




