第73話
トウリは魔王の耳元にそっと口を寄せた。
「魔王様、お目覚めになったら、ヨルンがご褒美にタルトタタンを作るそうですよ。」
間近に魔王の顔を見つめるが、何の変化もない。お菓子の名を囁いたくらいで目を覚ますなら、誰も苦労はしない。
「たるった…って、何?」
魔物が首をかしげるので、トウリは肩をすくめてみせる。
「リンゴの菓子らしい。私も詳細は知らない。魔王様がヨルンにおねだりをしたんだそうだ。」
「へー。うち、夫の実家がリンゴ作ってるから、持ってこようか。もうじき食べごろだよ。」
「この部屋に置いても良いんじゃないか。魔王様は果物もお好きだからな。」
桃を求めてこっそり一人で城を抜け出して、人間の町に出かけてしまうくらいに。
本当に、手のかかる魔王だ。トウリは苦笑して、魔王の髪をそっと撫でた。昔から変わらない、柔らかな黒髪を指に絡める。
「替わるよ。帰って、休んでくれ。」
準備をしながら魔物に言うと、魔物は治癒魔法の手を止めないまま眉根を寄せた。
「良いの?トウリは始めると長いし、ちょっと休憩してきたら。」
「そんなにひどく見えるか?」
「まあ、いつも疲れてるみたいだけど、今日はとりわけ。」
うーん、とトウリは首をひねる。特段の自覚症状は無い。いつもどおり、全身が重くて、目の奥と頭の芯が痛くて、だるいだけだ。大したことはない。魔王が倒れて以来、ずっとこんなものだ。
「まずそうだったら、途中でも呼んでね。今日明日なら代われるから。」
魔物は心配そうに振り返りながら、治療室を後にした。
治療室の中には静寂が戻った。多少の会話ならともかく、呑気にだらだらお喋りをしながら治癒魔法をかけ続けることはできない。誰もが押し黙り、瞑想し、祈るように施術を持続する。時折、交替時間を迎えた要員が入れ替わる他には、動きも音も無い。
この光景が、ここではもう7年も続いている。短い夏の日も、全てが凍り付く冬の日も、朝の陽ざしの中でも、黄昏時の薄暮の中でも。何も変わらない。どれほど変わることを望まれていても、この場所の主は眠り続け、周りはただひたすらに消耗していくだけだ。静かに、ゆっくりと、侵食されていく。
物音と人の声が聞こえて、トウリは顔を上げた。朝の交替要員が順に訪れている。トウリの替わりもやがて来るはずだ。
今日もまた、何の変化も無かった。トウリは治癒魔法の手を止めないまま魔王を見つめた。全身の重苦しい感覚が疲労の故なのか、無力感によるものなのかが分からない。
鳥のさえずりが聞こえる。余計な考えを追い出すために、鳥の名前を思い出そうとしてみるが、思い出せる気配が無い。
この先、何度繰り返せば終わるのだろう。どの形の終焉を迎えるのだろう。
そう思った時、視界の中で何かが動いた。トウリは立ち上がって、寝台の傍らで膝を折った。魔王の白い顔を凝視する。変化は無い。気のせいだろうか。待ち望み過ぎて、疲れすぎて、とうとう幻覚が見えただけだろうか。
ふっと、瞼が微かに動いた。開ききらずに、今にも眠りに落ちそうなところで止まりかける。
「リュゼ様…。」
思わずトウリが呼びかけると、もうほんの少しだけ、瞼が持ち上がった。瞼が重くて重くて仕方が無いとでも言うかのように、ゆっくりと。その奥の黒い双眸は、どこを見るという様子でもなく、ぼんやりと曇っている。焦点の合わないその瞳に何かが映っているのか、ただ開いているだけなのかは定かでない。
それでも、その瞳の奥を確かめたくて、トウリは魔王を覗き込んだ。底の無い穴がぽっかり開いたような、真っ暗な瞳が虚ろに中空に向けられている。目を閉ざしていた時以上に、作り物じみた乾いた印象を与える。目を開けたまま、そこで力尽きたのかもしれない。そんな気がして、恐ろしくなって、呼吸を確かめようと思うが、どうしても、がらんどうな黒い瞳から目を逸らせない。
微かに、魔王の双眸が動いた。曖昧な視線がトウリに向けられる。
「トウリ」
と名前を呼ばれたような気がして、息を飲んだ時には、瞼はまた静かに下ろされてしまっていた。
後に残るのは、これまでと何も変わらない、湖の底で眠りについたような魔王の姿だけである。
全ては、疲労が見せた幻覚だったのかもしれない。俄かには信じられなくて、トウリは顔を上げた。同じように、穴が開くほどに魔王を凝視している他の魔物の姿が目に入った。
「…今、目を開けられた、よな?」
トウリが尋ねると、カクカクと首を縦に振る。
「何かお話しになられたか?」
今度は、ブルブルと横に振る。
名を呼ばれたと思ったのは、案の定、気のせいか。
それでも、構うまい。トウリはすっと立ち上がった。交替の魔物は既に到着している。一声かけて、トウリは治癒者の控室に向かって歩き始めた。
妙に身体が重い。息が切れる。狭い保育所の中の移動が、やけにしんどい。眠い。変だな、と思いながらやっとの思いで控室に着くと、トウリに気付いた治癒者が血相を変えて駆け寄ってきた。
「トウリ、どうしたんですか。ひどい顔色だ。」
「…魔王様が、目を覚まされた。」
喋るのも億劫でしょうがない。
「ほんの一時だけ目を開いて、今はもう、お休みになっておられる。」
「すぐ、見に行きます。それより、トウリ、あなたも…」
「ああ、何だか眠い。仮眠室を借りて良いか?」
返事を聞く前に、トウリは仮眠室に向かって壁伝いに歩き始めた。すぐ隣のはずなのに、何故か全然近付いて来ない。
そうか、自分はこんなにも疲れていたんだな、とトウリは改めて思う。色々なことに蓋をして、見て見ぬふりをして、感じないように過ごしてきたけれど、あの一瞬で安心して、無理に自分を支えていた物が取り払われてしまったのかもしれない。あの様子では、回復の予兆と呼べるかどうかさえ怪しいのに。
それでも、とトウリは思う。きっと、あの魔王なら、また目を開く。そして、いつか、その唇から言葉を紡ぎ、その手でトウリに触れるだろう。あの、とろけるような笑みを浮かべて。
トウリは這うようにしてたどり着いた寝台に身を投じた。もう、指一本動かしたくない。何年かぶりに、ぐっすり眠れる予感がする。目を閉じたかどうか分からないうちに、トウリは深い眠りに落ちて行った。




