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異世界転石の先  作者: 七田 遊穂
第5章 主無き城
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第72話

 療養所、と今は呼ばれることが多いが、本来は保育所である。城からも、城下町のどこからでも見える巨大な樹のすぐ傍らにある、こじんまりとした建物だ。樹から魔物の子どもが生まれると、そのままでは養育する親がいないので、この保育所で日々を過ごすことになる。同族の魔物や、保育職の魔物が養育の任を負う。


 人間との大きな戦争で、魔物を生み出す樹は焼かれた。その後、ひこばえが芽吹き、驚異的な復活を遂げたものの、以前ほどの風格はまだ備わっていない。それでも細く頼りない枝から魔物を生み続けていたが、樹が現魔王を生み出そうと動き始めて以来今に至るまで数十年余り、魔物の産生は途絶えている。焼ける前の樹であっても、魔王の産生前後は活動が著しく低下していた。魔王という種の魔物を作り出すのは、樹にとって格別大きな負担になるらしい、というのが魔物の間での共通理解となっている。


 そんな現状であるので、保育所は現魔王が何年か養育された期間を除けば、ここ数十年間ただの物置になっていた。それを大急ぎで片付け、機材資材を運び入れ、魔王専用の療養所として使用している。勇者を誘い込む城よりも城下町の方が安全であるし、魔物史のほぼ全てを知る司書長の指示でもある。司書長によると、樹生の魔物の療治には、樹との物理的な距離を縮めることが不可欠らしい。もっとも、そうでなくても、硫化ガス立ち込める荒涼とした地に建つ城よりは、町の方が清浄で過ごしやすかろうとは、誰でもそう思う。


 なお、保育所兼療養所近くのこの大樹は、樹生の魔物に名を与えることから真名の樹と呼ばれることもある。が、魔物同士の会話では大抵は樹で通じてしまうので、木やら樹やら気やらで文脈がごっちゃにならない限りは長い名前が使われることが無い。


 トウリはそんな樹を眺めつつ療養所の中に入り、控室に顔を出した。ここには療治を専門とする種族である治癒者の誰かが常時詰めている。主だった治療行為は、専業である治癒者が行う。治癒者以外でトウリのように治癒魔法を使える魔物は補助要員である。治癒者の指示に従って介助し、治癒魔法をこれでもかというほど浴びせ続ける。荒療治どころか、正面突破のゴリ押し力比べである。人海戦術に近いのでとかく人手が要る。治癒魔法要員は方々からかき集められ、本業の傍ら、交代でこちらの業務にも従事している。


「あ、ご苦労様でーす。」


 トウリに気付いた治癒者が挨拶を返す。こちらも、かなりくたびれた顔をしている。


 トウリは、ウトから聞いた勇者対策班の対応を伝えた。治癒者は少しほっとしたような表情で、頷く。効果があるか無いかはまだ分からないが、動いてくれたこと自体は嬉しい。


「少しは負傷者が減ると良いですねえ。そうしたら、今療養中の人たちにも、もう少しまともな手当てをしてあげられるんですけど。」


 最低限の療治に加えて、気合と根性をお勧めしておく余裕しか無い現状は、治癒者にとっても不本意である。精神論で傷が癒えるなら、治癒者は要らない。


「疲れているみたいだな。大丈夫か?」


 自分のことを棚に上げてトウリが問うと、治癒者は表情を曇らせた。


「一般の患者が増え続けてて、本院の方も忙しくて。どうも一昨年あたりから、季節性の感冒が多い気がしますね。」

「感冒って、一時下火になっていたよな。」

「魔王様がお元気だった間は、割とそうですね。年によって多少の波はあったから、今のも、ただの波だと良いんですけど。」


 そうではないかもしれない、との言葉は呑み込んで、治癒者は視線を落とした。表には出されなかった言葉を感じ取って、トウリも黙った。


「トウリも疲れているでしょう。休めてますか?療治が要りそうな顔してますよ。」

「今日はやたらと皆に休めと言われるな。」


 どことなく心外そうに呟いて、トウリは軽く手を振った。


「大丈夫、今晩くらいはもつさ。」


 今晩を限りに倒れられたら困るんだが、と治癒者は思ったが、それを言う前にトウリは治療室に向かって行ってしまった。


 夜の治療室は殆ど明かりが無い。夜目の利く魔物にはそれで十分なのである。治療室には仄かに樹の香りが漂っている。香りの高い樹の葉で練られた香が焚かれているのだ。療治の上ではただの気休めでしかないが、治療に当たる魔物たちのリラックス効果は得られている。今ではそちらが主眼になっている向きもある。


 トウリは当番の交替員の肩を軽く叩いた。半分眠ったような目で、ひたすら無我の境地で治癒魔法を使い続けていた魔物がはっと我に返って顔を上げる。


「もう、そんな時間か…。」


 うーん、と思い切り伸びをする。治療室では、他にも数人の魔物が途切れることなく治癒魔法を施している。ざるに向かって水を流し続けて、水を溜めようとしているような状態である。ざるの穴から漏れる以上に注ぎ込めば溜まるが、少しでも勢いを弱めれば水は抜け落ちる。治っている手ごたえは無くても、手を止めることはできない。常に一定の治癒魔法を注ぎ込めるように、各人の持続力に応じてシフトが組まれている。定時だから誰もがきっかり8時間で、とはいかない。


 魔法を中断しようとしていた魔物はトウリの顔を見て動きを止めた。


「…トウリ、疲れてる?もうちょっと、延長しようか?」

「いつもと変わらないんだが。」


 こいつにまで言われた、とトウリは不思議でならない。


 交替の際に、引継ぎは特に無い。基本的には治癒者の指示に従って治癒魔法を施すだけだ。そして、魔王の状態は見れば分かる。何も変わらない。


 トウリは寝台に横たわる魔王を覗き込んだ。精巧な蝋人形のようだ。血の気の失われた白い顔で、固く目を閉ざしたまま、全く動かない。頬に触れても、手を握っても、ひどく冷たい。いつ見ても、本当に生きているのかと不安になる。弱く微かな呼吸だけが、その生存を訴えている。

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