第70話
「…ということになった。」
とウトは勇者対策班の会議結果を報告した。ウトの目の前には、書類や本が整然と山積みになった机に向かっているトウリがいる。目の下の隈は何年も固定化され、もう誰もが、トウリはもともとそういう顔だったかもしれないと思うようになってしまっている。が、もともとではない。
トウリは書類から顔を上げないまま応えた。
「分かった。調整ありがとう。」
何かを流麗な文字で書き記して、紙の束をまとめると、ひゅっとどこかへ移送する。そのまま次の書類に目を落とす。
「私が出る必要があるときにはまた声をかけてくれ。私の治療担当日はそこの予定表に書いてあるから、考慮してくれると助かる。今、城下町に感冒が流行っていて、あっちの人員も余裕が無い。」
そう言う間にも余白や行間に次々とメモを書き込み、次から次へを紙を繰る。まとめて、またひゅっと送る。
ウトは黙って、壁に貼ってあるトウリの予定表に目を向けた。几帳面な細かい字でびっしり埋め尽くされている。読みたくない。目が眩む。
「…あれ、トウリ、今日担当じゃないのか?」
目がちかちかするような予定表を眉間にしわ寄せて読んでいたウトは首をかしげた。
「ああ、夜勤の当番だ。まだ時間がある。」
丁寧な手つきで本を開いて何かを確認しながら、トウリは言う。さっきから、ウトの方を一顧だにしない。
「夜勤って…トウリ、寝てるか?お前、昨日の夜もどこか水辺の管理に行っていたじゃないか。」
「どうせ、眠れない。」
くくく、と表情を全く変えないままトウリは笑い声を漏らした。ぞくっ、とウトの肌に鳥肌が立つ。幾度か耳にしているが、何度聞いてもこの笑っていない笑い声は怖すぎる。慣れ得ない。
このままでは、トウリが壊れる。そうヨルンに言われて、勇者対策班の意見はウトがまとめるようにして、トウリを何でも相談室代わりにするのを止めているのだが、まだまだ足りないということか。
そりゃ、そうだよな、とウトは机の上を見て思う。仕事があり過ぎる。
トウリは魔物の中でも指折りの古参なので、歴史をよく知り、知識と経験が豊富である。なおかつ、そっけないように見えて、実は断れないタイプの世話焼きでもある。何でも知っているけれどサービス精神の乏しい司書長と違い、困ったことが起きた時に相談すると、最高品質のサポートをしてもらえる。ニコニコ人生相談室だった魔王が倒れ、はけ口を失った魔物たちがとりあえずトウリに愚痴をこぼしているうちに、これはただのお悩み相談だけではなく実務的な補佐も乞うべき相手ではないかと気付くのに時間はかからなかった。その結果が、この机の上と、消えることのない目の下の隈とその代わりに失われた表情である。
これはまずいぞ、と鈍いウトでも感じる。感じるけれども手の施しようもなくだらだらと年月が過ぎている。その間に、トウリは淡々と過酷な労働環境に立ち向かい、すっかり順応してしまったように見える。聞く者を震撼させる不気味な笑い声を時折上げる以外は、平常通りの立ち居振る舞いである。だからこそ、誰もが気軽にトウリに頼り続ける。
音もたてずにトウリが立ち上がった。ふらついている気がする。心配になって、ウトは慌てて後を追う。トウリは思いのほか達者な足取りで部屋を出ると、魔王の私室に向かった。誰もいないはずの部屋に向かって、トウリは恭しい手つきでノックをしてから、中に入った。
「トウリ、ここで何を?」
「魔王様の書棚に必要な資料があってな。借りに来た。」
トウリが書棚に視線を走らせている間、ウトは主のいない部屋を眺めた。ここに入ると、魔王の在りし日の姿を思い出して、胸が切なくなる。何故、あの時、一番近くにいたのに魔王を守り切れなかったのかと、自責の念で息ができなくなる。あの時こう動いていれば、と仮定と後悔ばかりが嵐のように押し寄せてくる。目の前で魔王が倒れるのを見ていることしかできなかった自分を、くびり殺したくなる。そうしてここで大声を上げて泣いてばかりいて、数多の魔物から幾度も叱られたので、入るのをやめた。だから、この部屋の空気を吸うのは何年ぶりだろうか。清掃はしているので埃っぽくはない。でも、深々と吸い込んでも、もう、魔王の匂いがしない。
「もう、7年になるんだな。」
ウトはぽつりと漏らした。涙は枯れてしまったのか、出てこない。心もカサカサに乾いてひび割れている。
「いつまで、この状態なんだろうな。」
ウトが振り向くのと、トウリがふらりと倒れるのはほぼ同時だった。ぬおおお、とウトは叫び声を上げながら慌ててトウリを抱き留める。
「ああ、すまん。大丈夫だ、放してくれ。」
「もう休め。誰がどう見たって、おかしいぞ。」
「放せって。むさ苦しいんだよ、お前は。」
「いやしかし、フラフラしてるじゃないか。」
二人でやいのやいのと騒いでいると、廊下から慌ただしい駆け足の音が近づいてきた。ノックもへったくれもなく、ばあんと扉が開かれる。
「…おい、ウト、それは魔王様じゃない。いくら寂しいからって、頭大丈夫か。」
どことなく遠慮がちに声をかけてきたのはヨルンであった。城中に響き渡りそうなウトの雄たけびを聞きつけ、様子を見に来たのである。魔王の私室でウトが咆哮していたら、ろくなことが起きていそうにない。魔王がいてもいなくても、その不安は大抵的中する。魔王を守れなかった悔悟の情に苛まれ、渾身の力で頭を床に叩きつけて流血しながら泣きわめいていたことも数知れずである。さっさと回収せねばならない。
ウトはトウリを支える腕を離さないまま、ぼそぼそと言い訳をする。
「そんなことは分かっている。そりゃ、トウリは魔王様と似て樹の良い匂いがするし、抱き心地もちょっと近いし、髪の手触りも似ているが、全然カワイクない。いくら私でも勘違いはせんよ。トウリの具合が悪そうだったから、手を貸しただけではないか。」
「…お前、私をそんな目で見ていたのか。気色悪い。触るな。」
トウリは胡乱な目つきでウトから無理やり離れた。一息に信用を失ったことに気付いて、ウトはしょんぼりうなだれる。気色悪いだなんて、ひどい。魔王であれば、熱く抱擁したってこんな氷より冷たい視線を浴びせてくることはないのに。やっぱり、トウリは全然カワイクない。魔王をぎゅうと抱き締めたい。寂しい。干からびていたはずの鬼の目から、ぽたりといろんな悲しみの混じった涙がこぼれる。




