第69話
祈りは天に届かず、地にも至らず、その後も魔王は昏々と眠り続けた。何の変化も無い。力の限り治療を施していてもその状態を保つのが精一杯なのであり、前進させるだけの推進力は無い。その代わりに少しでも力を抜けば、速やかに後退していく。そして、その分を取り返すのは至難の業である。
いつか魔王が目覚める日は本当に来るのだろうか、と治療に当たる魔物たちの心には常に影が付きまとう。しくじればしくじった分だけ確実に悪化する手応えは感じられるのに、どれほど努力を重ねても改善はしない。無力感が雪のように降り積もっていく。既に根雪はできあがっている。時間が過ぎれば過ぎただけ、追い詰められていく気がする。
そこへさらに追い打ちをかけるのが勇者の襲来である。現在は療治のための人的資源の大部分が魔王に注がれている。その一方で、当然ながら、一般の魔物たちの日常的な疾患にも対応する必要がある。それに加えての勇者戦による突発的な負傷者の発生は、大きな負担となる。負担となっても対応できればまだしも、十分手当てしきれないと療養が長引き、参戦できない待機組の魔物が積み重なっていく。そうして戦力が低下すれば、負傷者が増え、療治の負担がますます増え、待機組が増え…という負のスパイラルが発生する。実際、発生しつつある。ここでもまた、治療担当の魔物たちに、徒労感と疲労と永遠に続くかのような重荷がずっしりとのしかかる。
シフトを組んで最低限の休息は取っているが、治療チームの魔物たちはじわじわと追い込まれつつある。治療チームの統括者は、チーム員のメンタルヘルスの状況を鑑みて危機感を抱いていた。ダメもとでも動く姿勢をチーム員に見せる必要がある。
そんなこんなで、どうにもならないとは分かっているが、との前置きで、治療チーム統括者は負傷者を減らすように請願を出した。出す先は、邪悪な勇者と戦い殲滅することを任務とする魔物界随一の精鋭部隊、勇者対策班である。さりとて、請願を受けたところで勇者対策班の魔物たちは頭を抱えるしかない。こちらはこちらで精いっぱい努めているが、負傷者が絶えず、癒え切らぬままでの連戦も多い。本音を正直に言えば、手厚い治療を受けたいところであるが、無理なのは重々承知しているので歯を食いしばって体力と根性と簡易的な治療でしのいでいる。勇者さえ来なければ問題は全て解決なのだが、奴らは途切れることが無い。不定期に現れる少人数勇者パーティならまだしも、何故か定期的に、手強い手練れの大所帯がやって来る。これが非常に厄介なのである。
「もう、常に逃げ道を用意しておいて、逃げる者は拒まずにしたらどうだ。」
勇者対策班の魔物たちは、会議室に集まってぼそぼそと力なく話し合う。現状では、過去の魔王不在期と同様に、入り口を塞ぎ、勇者を一人残らず始末している。この方針は、戦後の傷跡が残る時代の苦い経験を反省して得たものである。
当時は、十分な戦力が整えられない日も多く、とりあえず目の前から勇者がいなくなればいいやとばかりに遠方へ強制的に空間転移させていた。すると何ということか、そうして飛ばした勇者たちが後日に徒党を組んで再度現れた。しかも、空間操作魔法への対策をしっかり施して。不幸中の幸いで、その際には十分な戦力を確保できたので辛くも叩き潰せたが、それでも魔物側も手酷いダメージを受けた。
勇者を生き残らせておくと、後回しにした負債が利子をしょって膨れ上がって帰って来る。その痛い教訓が、今なお活きている。だから、できる限り勇者は逃がしたくないというのが本音である。
「魔王様も、それをお望みだったじゃないか。なるべく生きて帰せって。」
「でも、魔王様のお姿を見せることなく帰して、意味があるの?」
元はと言えば、魔王ではない別の魔物が魔王だと勘違いされて殺されるのを防ごうとして、魔王実物の姿を勇者に晒して、その情報を拡散させるために逃げ帰らせていたのである。魔王像の情報を提供できないまま勇者を帰しても、意味が無い。
「絵でも貼っておくか。」
「おめんを作ったらどうだ。」
「黒いカツラならあるよ。」
などとアホな意見が出るくらい、こちらも困り果てている。
「お姿はともかくとして、魔王様がおられないと、今ここには魔王がいないと勘違いされるおそれがあるよなあ。その噂が広まると、人間どもはろくなことをしないぞ。」
「確かに。弱みに付け込んで攻め込むとか、城と関係無い場所で無駄な魔王狩りをするとか、絶対やらかすよねえ、あいつらは。」
「じゃあ、誰かが魔王様のふりをするか。」
「あ、それなら私やりまーす。首から名札ぶら下げとけばいいですよね。魔王代理って。」
邪竜がイヌの姿で提案した。邪竜は本来、その姿を目にした人間に遍く恐怖を与える凶悪な外観であるが、短時間なら大型の長毛犬の姿に身を変えらえる。オリジナルサイズでは会議室に入れないので、今はイヌなのである。いつものことなので、誰も疑問に思わず、突っ込むこともしない。
しかし、その提案内容には一部疑義が残る。
「代理で良いのか…。」
うーん、と一同が唸る。邪竜を含む高位の龍族は魔王に次いで人間から大人気で、集中的に狙われやすく、何かと負傷者入りしがちであるという欠点はあるが、基本的には非常にタフで見た目も派手である。それっぽさを醸し出して一時しのぎするにはこれ以上の無い逸材ではある。しかし、本物の魔王はここにいません、とわざわざアピールするような真似はどうなのか。
そう言われて、邪竜はわふわふと反論する。
「だって、ウトが前に言ってたじゃないですか。魔王様はご自分が負われるべき責任を人に負わせるのが嫌なんだって。だから、魔王って名札はまずいかなあって思うんですけど。」
「そもそも、名札という時点で胡散臭いだろう。」
ウトがそう言うと、邪竜はうーんと考え込むように首を捻った。今は見た目がイヌなので、とても可愛らしい。が、このままでもブレスくらいは吐ける凶悪なイヌである。
「じゃあ、魔王様みたいに、最初に自己紹介します。私が魔王代理ですって。お前たちみたいな雑魚は代理で十分だ!みたいなこと言ってあおれば、いけそうじゃないですか。」
そう言われて、勇者対策班の面々は具体的に想像してみる。勇者がぞろぞろ現れる。正面に、馬鹿でかい邪竜がいる。間違いなく、勇者の注目を集められる。そこで邪竜が一言、貴様らごときは魔王代理で十分だ、直後にいきなり邪竜ブレスをがぱー。勇者の何人かは消し炭になって、生き残りは一目散に退場。一部の退場してくれない奴らは、タコ殴りで処分。
うん、良いんじゃない?と場の空気がまとまるまでに要した時間は数秒だった。出入り口側の配員は無しとして、フリー逃亡を許可。邪竜が非番だったり、負傷した際には別の高位の龍族を代理に立たせる。高位の龍族は絶対数が少ないが、他の分担を調整すれば何とかやりくりできる。これで行こう。勇者はある程度減らせるし、こちらの負傷も少なくなりそうだし、これくらいが妥協点だろう。




