第67話
ダスワルトの姿が消えた魔王城では、戦場となった広間に慌ただしく魔物が出入りし始めた。別室に控えていた治療専門の魔物である治癒者たちが召集を受け、慌てふためいて魔王のもとに駆け寄っていく。
その一方で、戦闘要員の魔物が最後に残った勇者を取り囲む。幾人もの魔物を沈めた恐るべき剣の使い手だが、既に息は上がり、動きは鈍い。それに加えて多勢に無勢ではなす術もない。その状況でなお笑みを浮かべ、小声で歌っているのが不気味だが、呪歌ではなさそうだ。魔物は一斉に襲い掛かり、勇者は全て動かぬ骸と化した。
「止血は?」
「難しい。傷が深い。それよりも、失血が多すぎる。」
治癒者が幾人も魔王を取り囲み、懸命に処置をするが、はかばかしい様子ではない。
トウリは微かに頭を振った。
「司書長を呼んでくる。」
傍らで色を失ってうろたえるばかりのウトに一声掛けて、トウリはすっと影の中に消えた。
古い紙と埃の香りが沈殿する資料室に、不意に血の匂いが混じった。司書長は書物から顔を上げ、眉を顰める。良い予感をもたらす匂いではない。司書長は手にしていた本を棚に戻した。その間に、静かな足音が階段を駆け上って近付いてくる。
「トウリ、その傷はどうしたのですか。」
ほんの少しだけ、血で本を汚されたくないな、と思いながら司書長はトウリに声を掛けた。血の匂いが立つほどの傷があるせいだろうか、トウリの顔色は悪い。胸騒ぎがする。
「魔王様が重傷を負われた。知恵を貸してくれ、司書長。」
そう言って、トウリは司書長の答えを待つことなく城へと強制的に連行した。
重傷、という言葉に司書長が息を飲んだ時には既に城内に在った。治癒者が幾人も屈みこんで輪になっている。辺りには人間の死体も、傷ついた魔物たちも多い。血と肉と臓物の生臭さが濃密に立ち込めている。気持ちの良いものではないが、司書長はそれを振り払うようにして真直ぐに治癒者たちに近付いた。輪をかき分けると、床の上に魔王が横たえられているのが見えた。両手も、腹部も鮮血に彩られているのに、肌に一切の血の気は無い。両目は固く閉じられ、既に命の灯が尽きたようにさえ見える。
司書長はただでさえ大きな目をもっと見開き、よろめくように魔王の傍らに膝を着いた。
「…リュゼ様…。」
低く呻いて、血に濡れた手を握る。柔らかく細い手はひどく冷たい。
あってはならないことが起きている。しかし、動揺している暇は無い。司書長は顔を上げ、大きな目を治癒者に向けた。
「我々はまだ魔王を失うわけにはいきません。魔王様がお生まれになったときの子房柄と揺籃は保管してありますね?」
「はい。」
「あれを使いなさい。樹液でよく煎じ、もしお飲みになれるようなら飲ませますが、このご様子では無理でしょう。少量ずつ輸液として使ってください。投与量や方法は、あなた方がお詳しいでしょうから、お任せします。」
「はい。揺籃はどの程度の量を使えば良いでしょう。」
「分かりません。過去の症例ではそこまで詳細な実績は出ていません。様子を見ながら、記録を取ってください。傷口にも使ってください。よく擦り合わせて、軟膏状にして塗布すると良いでしょう。いずれも決定打にはなり得ませんが、多少は救命率が向上するはずです。」
司書長の指示を受けて、また治癒者が何人か慌ただしく駆けていく。
「それから、止血はまだ?」
「何とか止まったところです。」
「良いでしょう。動かせるようになったら、できるだけ樹のそばへ移動させます。今は空ですから、保育所を使いましょうか。治療に必要なものがあれば先に準備させておきなさい。」
「はい。他に注意点は?」
「あとは…そうですね、あなた方だけではなく、治癒魔法の使える者はすべて動員してください。魔王様ご自身に回復する力は無いと思ってください。それを、無理やりこちら側に引き寄せるのです。力業しかありません。」
そこまで指示して、司書長は魔王の手をそっと床に置いた。治療の妨げにならないよう、身を引いて治癒者たちに場所を譲る。
治癒者たちが忙しなく動くのを眺めながら、司書長は長い長いため息をついた。いつか、こうなるような気はしていた。いや、これまでの魔王も、常にこうなっていたのだ。表に出ることなくひっそりと囲われていた魔王も、積極的に人間と関わろうとした魔王も。魔王の気質も行動も外見も何も関係無い。そう運命づけられているかのように、いつかどこかで魔王の存在に気付いた人間が、必ずその命を奪いにやって来る。何度でも、繰り返し。
「司書長、あれで何とかなるのか?」
トウリが横にやってきて、尋ねた。
「無いよりはましという程度のものです。深い外傷は治癒実績そのものが少なすぎて、信に足るほどの資料がありません。魔王は外傷に弱い。あれほどの深手を負って生きながらえた魔王は僅かです。それも、直に衰弱して亡くなりました。」
淡々と歴史的事実を述べられても、気が滅入るばかりである。こういうときにすら、この司書長は楽観的な憶測に基づいて人を励ましたり元気づけたりということをしない。どう考えても暗い未来しか見えない。
「我々は、魔王を亡くすには早すぎます。このままお亡くなりになったら、史上最短です。」
「魔王はもちろんだが、私は、リュゼ様を失いたくはない。」
「…それは同感です。」
司書長は周りで立ち働く魔物たちに目を向けた。これほどの精鋭が付いていながら、何という体たらくだろうか。何故守ってやれなかったのだ、と責めたくもなるが、それは口に出さない。動いている魔物でも無傷の者は殆ど見られないし、深い傷を負って倒れたままの魔物も多い。余程の相手だったに違いない。
ふらり、とトウリが司書長から離れた。
「手伝ってくる。搬送も必要だろう。…ああ、先に司書長を帰そうか?」
司書長はじろりとトウリを見据えた。そもそも滅多に参戦しない上に、参戦しても後方支援に当たるトウリが外傷を得ることはあまり無い。それなのに、今は鋭利な刃物で切り付けられた跡がいくつも見える。一歩間違えば、この旧い友人も人間に奪われていたのだろう。司書長は誰にも気付かれないほど微かに身震いしてから、すげなく応えた。
「私は自分で戻ります。トウリ、あなたも休みなさい。」
「そんな場合じゃない。人手がいくらあっても足りない。」
「外傷に弱いのは、魔王だけではありませんよ。後回しにはなるでしょうが、あなたもしっかり治療を受けて下さい。この先上手くいっても、おそらく長丁場になります。あなたも治癒魔法を使えるでしょう。貴重な戦力です。」
それに、と司書長は付け加える。
「魔王様がお目覚めになって、あなたがもしいなかったら、きっと大泣きですよ。他に宥められる人もいないのですから、そんなことになったら私が困ります。」
「…お目覚めに、なるんだよな?」
「そう、願っています。」
司書長は魔王を取り囲む魔物たちの円陣をじっと見つめ、それからすいっと出口に向かって歩き始めた。
「他にできることがないか、調べておきます。見つかり次第、お知らせいたしますよ。」
いつものように泰然とした足取りで、司書長は戦場を出て行った。その背を見ていたら、ほんの少しだけ安心できるような気がしてくる。また、昨日までのいつもが戻ってくるような気持になる。トウリは軽く深呼吸をして、治癒者の輪に近付いた。今はできることをするしかない。




