第66話
と思ったら、急に扉が開いて、それと同時に何かが突き出された。刃物だ。大した動きではない。ダスワルトは難なく避けて、持っていた農具の柄で思い切り叩き落した。
「いって!」
刃物を持っていた誰かが悲鳴を上げた。見ると、中年の痩せた男性である。人間かな、とダスワルトは判断する。魔物だったとしても、恐るるに足る相手ではなさそうだ。この程度の雑魚なら素手でも勝てる。
いや、この慢心がいけないんだ、魔法を使ってきたらどうする。と戒めようとするも、どうもこのおじさんは、ただのおじさんにしか見えない。さっきから手を痛がってひいひい言うばかりだ。
「あの…すみません、通りすがりの者なんですが、何か飲むものと食べるものを分けていただけませんか。」
ダスワルトは丁重に切り出してみた。
「今ので、手が折れたわ!何が飲むものと食べるものだ!礼儀をわきまえろ!」
怒鳴り返されて、ダスワルトもムッと来る。
「刃物で襲い掛かってきたのはそっちだろうが。礼儀知らずはどっちだ。っていうか、折れてないだろ、その手。」
まくしたてると、おじさんは手をさすりながらダスワルトを頭の先から足の先まで何度もじろじろと眺めまわした。負けじと、ダスワルトもおじさんをじっくり観察する。40歳か、50歳くらいだろうか。背は高くない。脂肪も筋肉もない貧相な体格だ。頭は半分白髪交じりで、こんな廃集落で暮らしている割には、きっちりと整えられている。服装も簡素ではあるが、だらしなくはない。目つきは著しく陰険で、人類は全て敵だという様相を帯びている。意地の悪い田舎の官吏みたいだ。
「何でこんなところに子どもがいるんだ。どこから来た。」
「魔王城です。」
ひとまず信用を得るべく、ダスワルトは口調を改めて素直に答えた。他に答えようがない。が、にわかには信じがたいというのは想像に難くない。実際、目の前のおじさんも疑惑の色を濃くしている。
「私の家族はみんな勇者で、魔王討伐令を受けて、ついさっきまで魔王城で戦っていました。ですが、その…色々あって、私だけここに魔物の魔法で飛ばされてしまったようです。」
「…はあ。」
「あの、ここはどこなんですか?魔王城はどっちですか?」
「魔王城って、何だね。」
へ、とダスワルトは言葉に詰まった。まさか、この世に魔王城を知らない人間がいるとは思ってもみなかった。自分の周りは勇者やその関係者ばかりで、魔物も魔王城も頻繁に使う日常用語である。まさか、勇者と縁遠い一般市民は、魔物とか魔王城とか、知らないのだろうか。そういうお上品な方々とお付き合いしたことが無いダスワルトは何となく自信が無くなってきて、つっかえつっかえ説明を足した。
「ええと、魔王城は、強い魔物がいっぱいいるところです。あー、イェメナの地に在ります。」
「イェメナ?」
さすがに、伝説の聖地は知っていたらしい。おじさんが少しだけ態度を和らげた。
「どっちのイェメナだ。」
「どっちって…そんなにいくつもあるんですか。」
「諸説あるがな。」
初耳だよ、とダスワルトは思う。父親なら知っていたのだろうか。知っていたら、イェメナを説明した時に教えてくれていそうなものだが。あそこは最近テスト勉強したからよく覚えているが、そんな話は無かったはずだ。
「私がいたイェメナは、ここよりだいぶ涼しくて、腐った卵の匂いがして、川が青くて酸っぱかったです。」
ダスワルトが答えると、急におじさんの目に光が宿った。
「…他には?」
「ええと、地面から蒸気かな、噴き出してて、黄色いのがいっぱい地面についてました。あ、でも、そういう場所はかなり奥地で、殆どの場所には普通に植物もありました。」
「どんな植物だ?」
「えーと、すみません、私の故郷のと大分違っていて、何ていう名前か分からなかったです。父なら知っていたはずですが…。」
「お父上はどうなさった。」
答えようとして、言葉が出なくて、ダスワルトはうつむいた。頭の中では理解しているのに、口に出すことができない。言わなければあれは夢のままで、口に出した途端に本当のことになってしまうような気がした。夢のはずがないのに。答えなければ、と思っても何も言えず、ダスワルトはそのまま黙ってしまった。
はあ、とおじさんのため息が聞こえた。
「…入りなさい。大したものは無いが、食わせてやろう。」
おじさんが足元の包丁を拾い上げて、ダスワルトを手招きした。包丁を振り回す気はもう無さそうだ。
「ありがとうございます。」
ダスワルトは顔を上げて、おじさんの後に続いて家に入った。
おじさんの家は、中から見てもかなりぼろかった。天井に雨漏りの跡はあるし、窓と壁の間に隙間はあるし、そもそも窓ガラスにひびが入っているし。それなのに、どこからか懐かしい匂いがした。きょろきょろと辺りを見渡すと、奥の小部屋に書物がびっしり並んでいるのが見えた。何かを書きかけらしき紙も沢山散らばっている。こんな廃屋で何をしているのやら、おじさんの正体が知れない。
「そこに水甕がある。食事より何より先に、その汚い手を洗え。水を汲んでくるのは大変だからな、節約しろよ。」
ダスワルトは返事をして水瓶に近付いた。洗う前に手をじっと見る。ここにたどり着いたばかりの頃はまだ生々しい血が付いていたが、草をかき分けたりツタを千切ったりしている間にこすれて取れてしまっている。泥と植物の汁に混じって、もう何の汚れだか分からない。
甕の水を汲もうと思ったら、おじさんがびっくりしたような声を上げた。
「おい、背中にも血が付いてるぞ。お前、怪我しとるんじゃないのか?」
「背中?何ともないけど…。」
おじさんに言われて、ダスワルトは上衣を脱いだ。確かに、背中の隅の方に血の染みがある。でも、自分の背には傷一つ無いはずだ。
はっと思い出した。母親が目の前に降ってくるその直前に、魔王に後ろから抱きすくめられた。あの時、魔王はもうかなり出血していたはずだ。あれが付いたんだ。
ダスワルトは服を手にしたまま、じっと血を見る。魔王は、あのまま死んだのだろうか。魔物たちが助けようとする物音も聞こえていたけれど。あれで死んでしまったのなら、もう、仇を打つ必要も無いのか。それなら、自分は何のために生き延びたんだろう。
カサリと乾いた音が足元から聞こえた。くしゃくしゃの紙切れが転がっていた。これにも血が染みたのか、赤黒い汚れが付いている。
「確かにお前には傷が無いな…。ん、それは何だ?」
「触るな!」
拾おうとして手を伸ばしたおじさんの手を、ダスワルトは咄嗟に乱暴に払った。
「これは…これは、父さんの手紙だ。」
父親の書いた文字を見たくて開きかけたが、直ぐ手を止めた。人の書簡を盗み見るものではないよ、と父親の声が耳に蘇る。約束は破れない。これは、伯父に届けなければ。父母を死に追いやったあの伯父に。
何でこうなったんだろう。誰のせいなんだろう。本当に、悪いのは魔王なんだろうか。人間の方が性悪なんだろうか。導き教えてくれる父親も、温かく支えてくれる母親も、共に並んで考えてくれる兄姉も、もう誰もいない。
急に目玉が熱くなってきて、視界がぼやけた。堰を切ったように涙がこぼれてきた。堪えきれなくて、嗚咽が漏れる。何も考えられなくて、考えたくなくて、ダスワルトはただ声を上げて泣き続けた。




