第65話
「どういうことだ…。」
夕暮れの光が海面に当たって輝いている。魔王城の床に押し付けられていたままの姿勢だったダスワルトは、恐る恐る身を起こしてみた。打ち付けられた時の痛みはあるが、身体は普通に動く。右手を持ち上げて手を広げてみた。ナイフは落としてしまったが、手には魔王の血が残っている。刺したときの感触も。夢でも幻でもなかったはずだ。
夢であれば良かったのに、と思った。父親も母親も、兄も姉も、目の前で皆死んでしまった。件の勇者は、まだ生きていただろうか。魔王を倒せと母親に呼びかける声が聞こえたが、その後は魔物に取り囲まれているところまでしか姿を確かめられていない。彼もまた、手傷を負っていた。生きていたとしても、今この瞬間にも生きているとしても、彼に明日は無いだろう。
でも、自分には明日が来る。ここがどこなのかは分からないが、魔物はいない。
ダスワルトはゆっくりと立ち上がった。潮の香りがする風は生ぬるく、魔王城を吹き抜けていた冷たく乾いた風とは別物だ。魔王城は姿も形も見えないが、ここはそもそも全く異なる場所だろう。痛みや匂いを感じるから、ここが夢の世界という話でもない。
これが空間転移魔法なんだ、とダスワルトは理解した。兄と姉が最後にやり遂げようとしていた魔法。魔王は、双子の魔法は失敗すると言っていた。本当はどうだったのか、魔法に疎いダスワルトには分からない。だが、兄と姉があれほど苦労していた魔法を、魔物はこんなにもいともたやすく使えるのなら、魔王の言葉は真実だったのだろう。少なくとも、あの時の魔王は嘘をついていたようには見えなかった。
「何なんだよ、こんなのってありかよ…。」
命を懸けてダスワルトを逃がそうとした兄と姉は、何もできないままに落命した。でも、二人が為そうとしていたその手段で、自分は結局は逃がされている。魔物の手によって。
こんなことなら、魔王の誘いに乗っておくべきだったのかもしれない。そうしたら、今ここに、3人が揃っていたのかもしれない。逃げるべき時に逃げず、失わなくて済むはずだったものを失った。自分は大馬鹿者だ。あれほど誰もから言われていたのに。
ダスワルトはもう一度右手を開いて、鼻先に持ってきた。血の匂いだ。人間と変わらないような気がする。ダスワルトは舌でそれを舐めてみた。仄かな塩気と、金臭さ。微かに甘い木の匂いがする気もする。さっき手を着いた地面の草のせいか。自分で自分の傷口を舐めた時と殆ど変わらない。
あいつが人間なのか魔物なのか、未だによく分からない。でも、あいつは魔王だ。名前だけではない。魔物にとっても、自分にとっても、魔王という存在であることに間違いはない。そして、魔王は自分の敵だ。魔物全体が人間の宿痾たる邪悪な存在かどうかはどうでも良い。魔王だけは、この手で殺さなくてはならない。父と母と兄と姉の、仇を討たなければならない。皆で為そうとしていたことを、最後までやり遂げねばならない。それが、自分の逃がされた意味だ。
生きなければ。明日も、明後日も、そのまた明日も、無事に迎えなくては。
そのためには、こんなところでぼんやりしている暇はない。ダスワルトは周囲を見回した。近くに人家は見当たらない。人家はともかく、水場が無いとすぐに干からびてしまう。
ダスワルトは海に背を向けて歩き出した。内陸には木の鬱蒼と茂る小山が続いている。見覚えのあるツタがあったので、手で引きちぎって、蔓の断面から滴るしずくを飲む。少し口の中が潤うと、途端に渇きを感じた。ずっと緊張していて気付かなかっただけで、喉が渇いていたのだろう。もう何本か蔓をちぎって僅かな水分を摂り、ダスワルトは再び歩く。
大した標高は無さそうな丘のような山だが、それでも夕暮れ以降は急速に暗くなっていく。
「腹減ったなあ。」
ぐうと腹の虫が鳴って、ダスワルトは呟いた。あんな凄惨な戦場から出てきたばかりなのに、身体が素直過ぎる。この胃袋は、もう少し喪に服すとかしないんだろうか。飼っていた小鳥が野良猫に襲われて死んだとき、兄はしばらく泣いてばかりいて、ご飯もろくに喉を通らなかったのに。
「しょうがないや。食わなきゃ、戦えないしな。」
ダスワルトはそう言うと、下手糞な鼻歌を歌い出した。件の勇者と母親が歌っていた歌だ。歌詞は全部は思い出せないけれど、どこか切ないような美しい旋律は耳に残っている。このままずっと忘れたくない、と思う。
フンフンと息継ぎをした鼻腔に、何かが燃えるような匂いが入り込んできた。人家に違いない。ダスワルトは鼻をうごめかして、匂いのする方向を追った。夕闇が夜に姿を変えつつある仄暗い空に、微かに煙が見える。それを目印に草をかき分け進んでいくと、やがて集落のようなものが見えてきた。殆どの家には明かりが無く、家全体から荒んだ雰囲気が漂ってくる。空家だろう。居住者が今いるのは、唯一明かりをともし煙をたなびかせている、比較的大きな家だけのようだ。大きいけれど、古びている。かしいでいる。そこかしこに補修が必要にも見えるが、手当てされていない。
魔物でも出てくるんじゃなかろうか、とダスワルトは少し警戒する。滅びた集落の中の、たった一軒の死にかけの生き残り。こんな辺鄙なところで暮らせるのなら、魔物か、魔物みたいな人間に違いない。
またぐうと腹が鳴った。喉も渇いた。辺りを見ると、井戸は無い。どこかから汲んでくるのだろう。この暗い中で水を探しに行くくらいなら、家の戸を叩く方が良い。
ダスワルトは外から中を覗いた。人影が見えるけれど、どんな生き物だか正体は知れない。人間みたいな外見の魔物は痛いほど相手にしてきたばかりだ。一応警戒した方が良いだろう。ダスワルトは空家の裏手から、壊れた農具の柄を持ち出した。軽く振って、手ごたえを確認する。腐ってはいない。すぐに粉砕されることはなさそうだ。
それを利き手に握りしめて、とんとんと扉を叩く。少し待っても、返事が無い。中で物音もしない。聞こえなかったか。ダスワルトはもう一度、今度は強めにはっきりとノックした。
「こんばんはー。」
無害な感じの声も掛けておく。向こうがただの一般人なら、警戒を解いてやる必要がある。
扉の奥で、誰かが動く気配がある。だが、なかなか出てこない。おそらく、扉のすぐ向こうでこちらの様子を窺っている。




