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異世界転石の先  作者: 七田 遊穂
第4章
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第64話

 魔王は母親に視線を転じた。魔物の血に濡れた剣を構えて、ひたむきに、ひたすらに魔王の命だけを求めて、夫も仲間も何もかもかなぐり捨ててやってくる。


 傷口が痛くて熱いのに、身体がどんどん冷えていく。命そのものが抜けて行っているようだ。こんなに憎まれるのならば、ここでこのまま殺されて、この子どもと母親を救った方が良いのではないか、と魔王は考える。父親は救えなかった。だが、あの父親の子どもならば、生きていればいつか、魔物に歩み寄れる存在になってくれるかもしれない。そのために、ここで自分が死んでも良いのかもしれない。自分が死んでも、いずれ魔王はまた生まれる。長い時を要するかもしれないが、樹も、魔物も、耐えてくれるだろう。


 魔王は徐々に暗くなってきた視界で前を見つめた。母親を止めようとして、幾人もの魔物が襲い掛かろうとしている。件の勇者の猛攻に阻まれ、傷を負っても、立ち向かっていく。魔物たちが懸命に自分を守ろうとしてくれている。どの魔物も、大切な家族のようなものだ。一人一人に、思い出がある。


 自分が殺されたら、この魔物たちの想いを無駄にすることになる。そして、魔物たちはこの子どもと母親を決して生きては帰さないだろう。自分が命を差し出しても、結局は誰も救われない。


「…死ぬわけには、いかないな。」


 魔王は呟いた。傷口から手を離して、すぅ、と動かす。何かに気付いた母親が即座に足を止めて、一歩横に避けた。それとほぼ同時に、母親が立っていた付近の床の石材が音を立てて弾ける。


「もう、細かい調整ができないな…。」


 魔王は上を見上げた。空まで吹き抜けとも思える天井は果てしなく高く、我関せずといった表情で冷然と下界の争乱を見下ろしている。


 魔王は正面に視線を戻した。母親が剣を握り直し、振りかざし、襲い掛かってくる。


 その時、ダスワルトの視界の端で赤い蝶がふわりとい動いたように見えた。蝶なんか、いるはずがない。魔王の手だ、と思う間もなく、すぐそこに在った母親の姿が影の中にとろりと吸い込まれて消えた。


「母さん!」


 ダスワルトは咄嗟に母親の姿があった場所に駆け寄ろうとした。


「危ない。」


 魔王の声が微かに聞こえて、ダスワルトの身体はふっと魔王に抱き止められた。大した力は込められていないのに、動けない。ダスワルトが立ちすくんでいる目の前に、何かが上からすさまじい勢いで降ってきた。どん、と激しい衝撃音を立てて床に打ち付けられたのは、母親の身体だった。手足はあらぬ方向に曲がり、顔も頭も砕けている。ほんの数秒前まで生きてそこを駆けていたはずの母親は、物言わぬ肉塊に変容していた。握りしめられたままの剣だけが、母親の意志を宿しているかのように魔物の血を滴らせている。


「すまない。」


 とダスワルトの耳元で囁くような声がした。


「あなたの母親を殺したのは、私だ。私は、あなたの言うとおり、悪いやつだ。けれど…」


 その続きが語られる前に、ダスワルトを包んでいたぬくもりが滑るようにして外れた。どさりと鈍い音がしたと思ったら、魔王が足元に崩れ落ちていた。見つめられる度に不安になるような真っ黒な双眸は閉じられ、血の気の無い唇の隙間から弱弱しい息が漏れている。少しずつ、床に真っ赤な血が広がっていく。


 もう死にそうだ。でも、まだ息がある。あと一押しすれば確実に仕留められる。父親が、母親が、兄と姉が、皆が目指していたことを、成し遂げることができる。


 迷うな。ダスワルトは血に濡れたナイフを構えた。その直後、凄まじい力で床に叩きつけられ、目から火が出て意識が一瞬飛んだ。


「待て、殺すな。」


 魔王の声が聞こえて、ダスワルトは何とか気を取り戻す。誰かが硬くて重いものでダスワルトを強く床に押し付けていて、身動きが取れない。


「その子は、どこか、人里に…。」

「…かしこまりました。ご安心ください、必ずご用命に沿うようにいたします。」

「…うん…トウリ、ごめん…」


 それきり、魔王の声は途絶えた。


 床しか見えないダスワルトの視界に、誰かの靴音が近付いてきた。


「おい、トウリ、本当に殺さないつもりか?」


 ダスワルトを床に押し付けている誰かが、野太い声で非難するように言った。きっと、その気になったらこのまま押し潰せるに違いない。


「心底殺したいが、それでは魔王様に顔向けできない。どけ。」


 靴の方が答えた。さっき、魔王に丁寧な口調で答えていた魔物だ。魔王にも似た中性的な声音に聞き覚えがあるが、どんな姿の魔物だったかははっきり思い出せない。ぞっと鳥肌が立つような冷たい憎悪が自分に向けられているのを感じる。


 どけと言われて、野太い方が離れたのだろうか、少しの間を置いてダスワルトを押し付ける力が緩んだ。この隙に何とかしなければ、と思った瞬間、視界がとろりととろけた。何もかもが幻だったかのように消え去り、ダスワルトの目の前には見たこともない海辺の野原が広がっていた。

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