第58話
トッ、と軽い足音が響いて、ダスワルトは部屋の奥に目を向けた。魔物の群れの正面に、人影が見えた。魔物ではない。若い人間だ。小柄ではないが、華奢な体格で、一切の光を通さないような深い黒色の瞳と髪が目を惹く。ダスワルトは、町で帽子屋から聞いた話を思い出した。魔王は黒髪の人間だ、と。
「魔王だ…。」
無意識のうちに、口から言葉が漏れていた。周りの勇者たちが一瞬ダスワルトを見る。勇者たちだけではない。黒髪の人間も、ダスワルトに顔を向けた。心なしか驚いたように、軽く目を見開いている。その真っ黒な双眸を見ているうちに、吸い込まれるような眩暈を覚えて、ダスワルトはパチパチと目をしばたいた。すると、黒髪の人間はにこりと微笑んだ。ダスワルトは警戒心がとろりととろけて流れ出るような錯覚を覚え、ぐっと唇を噛んだ。何かの魔法かもしれない。
「はじめまして。私が魔王だ。」
一行をゆっくりと眺め渡して、魔王は言った。外見と同じく、男とも女ともつかない、柔らかく中性的な声音だ。
「早速にでも私の命を奪いたいところだろうが、その前に、少し話を聞いてもらえないだろうか。」
穏やかなその口調に、父親と件の勇者はそっと目を見交わした。父親が軽く頷き、魔王を見据えて一歩前に出る。
「お初にお目にかかる。私の名はフォーディル。君の話を聞くのはやぶさかではないが、まず一つ確認させて欲しい。」
「何なりと。」
「君は本当に魔王か?」
そう問われて、魔王は苦笑しながらこくりと頷いた。
「人間にはなかなか信じてもらえないが、本当だ。周りの魔物に聞いてもらっても構わないよ。」
「そうか、それは失礼した。私たちの伝承にある魔王の姿と、今の君の姿はあまりにもかけ離れているものだからね。」
「人間の中で、魔王はどんな姿なんだ?」
「少なくとも、先の大戦においては、恐怖を体現したような姿だったと伝わっている。」
父親の答えに、魔王は首を傾げ、背後の魔物を振り返って尋ねた。
「そうなのか?」
自分のことじゃないのか、とダスワルトは突っ込みたかったが、黙っておく。背後の魔物はこくこくと頷き返したが、魔王はまだ首を捻っている。どうにもすっとぼけた様子に、ダスワルトは軽く苛々を覚える。しかし、父親は何が面白かったのか、くっくっと笑い声をこらえている。
「では、魔王よ。あなたの話を伺っても良いかな。」
父親が尋ねると、魔王は父親に真直ぐ向き直った。
「このままお引き取りいただけないだろうか。」
「ん?」
突拍子もない提案に、父親もすぐには言葉が出なかったらしい。
「あなた方が大人しく引き返すなら、こちらも手出しは一切しない。」
「君は、我々に何もせずに帰れと言うのか?それは無理な相談ではないかな。我々も志を持ってここまで来ている。」
「争えば、たとえあなた方が目的を果したとしても、無事ではいられない。あなた方には幼い子どももいる。その子どもは…」
と言い差して、魔王はダスワルトに目を向け、それから順に一行を確かめる。
「あなたの子か?」
母親で視線を止め、魔王は尋ねた。ダスワルトはよく母親似だと言われる。どうやら、その感覚は魔物でも共通らしい。母親は緊張した面持ちのまま、黙ってゆっくりと頷き返す。
「その子なら、私と、その女性の子どもだ。」
父親が補足した。
「そうか。ならば、こんなところでつまらない諍いなどしていないで、親子揃って穏やかな団欒を楽しむべきではないのか。親としてのあなた方にも、子としてのその子にも、まだ互いが必要な時期のはずだ。あなたは、優先させるべきものを見誤っているのではないか。」
「魔王にそんなことを説かれるとは思いもよらなかったな。」
切々と訴えかける魔王に、父親が素直に嘆息した。
「あなた方の家族の幸せを犠牲にするほどの価値は、私の命には無い。見ての通り、魔王だと容易には信じてもらえないような魔王だ。こんなへなちょこに拘泥していないで、守るべきものを守ったらどうなんだ。」
へなちょこ、とダスワルトは心の中で繰り返した。何だか、思っていたのと違い過ぎて、世界が歪んでいるような気分だ。こいつは自分では魔王だと言っているが、本当に魔王なんだろうか。あの帽子屋が言っていた通り、魔王という名前の人間なのではなかろうか。これは、魔物たちが人間たちの油断を誘おうと思って仕組んだ罠で、あの自称魔王はその罠のための俳優として飼われているのではなかろうか。
ダスワルトがぐるぐると考え込んでいるそばで、父親はまた愉快そうな声で笑った。
「随分と熱心だな。君にも子どもがいるのか?魔王が子を成すかどうか、寡聞にして知らないが。」
「私には子を成せないが、子のいる魔物は多い。私たちにとって、子は宝だ。人間は違うのか?幼い者を蔑ろにして平気なのか?」
「蔑ろにしているつもりはないが、君の切込みは鋭いな。さっきから、魔物ではなく人間に責められているような気分だ。」
心底楽しそうに笑いながら、父親は感心して見せる。
「意外だ。魔王とはもっと魔物然としているのだと思っていた。やはり、実際に会って初めて分かることも多いものだな。」
「人間は、魔物や魔王を何だと思っているんだ?」
「魔物とは人間に仇成す邪悪な存在、そしてその頂点に立つ王が魔王。それが我々の一般的な認識だ。」
「それは違う。正していただきたい。私たちは人間に特段の害意を持ってはいない。それに、私は王ではないし、魔物の頂点にいるわけでもない。私はただの魔王だ。」
「どういう意味だ?」
「言葉どおりの意味だが。」
父親と魔王はお互いにきょとんとした表情で見つめ合った。何で通じないの?と双方の顔に書いてある。
父親はしばし黙って魔王の言葉を反芻し、頭の中で疑問点と了解できた部分を仕分けたようだった。難しい本を読んでいる時のように、思案気に腕を組み、幾度か微かに頷いている。
「…君の話が真実であれば、我々は根本から誤解をしていることになる。興味深いな。もっと深く知りたい。」
好奇心の疼きを隠し切れない声で父親はぽそりと漏らした。




