第55話
それから数日後、一行は魔王城に向けて出立した。最寄りの町とは言え、歩いてすぐそこに魔王城があるわけではない。送迎の交通手段があるわけでもない。何日かかけて、自力でたどり着くしかない。
道中は、これと言った危険には見舞われなかった。魔物の姿を見かけることもないし、どこからともなく瘴気が流れてくるわけでもない。ダスワルトの暮らしていた町に比べると寒冷で、標高も上がっており、見慣れない木や草は多いが、これもまたただの木や草であって、魔物の魔力を帯びたなにがしかの危険な罠であったりはしない。それどころか、勇者が度々通るせいか、踏み固められた道ができていて、かなり快適に歩ける。これならば、ダスワルトと双子が故郷からの最速記録を無理やり打ち立てた道中の方が遥かに厳しい道のりだった。楽ちんだな、とダスワルトが呟けば、兄と姉は心の底からの同意を示して首を縦に振る。
しまいには、おあつらえ向きに川に橋までかかっているのに出くわし、一行は足を止めた。いくら何でも、罠じゃない?と誰でも思う。しかし、その先には既に遠景に魔王城が見えている。魔王城がただの娯楽施設であれば、誰でも喜んでこの橋を渡るだろう。
「どう見ても、よくできた橋だ。」
こんこん、と欄干や底板を叩きながら、父親が首をかしげる。川の上流下流に目を転じると、他に渡れそうな場所は無い。川幅はさほどでもないが、流れが速く、底も知れない。この橋を渡るのと、水の中を渡るのと、どちらが危険か分かったものではない。
「魔王は、勇者に来て欲しいんですかねえ。」
件の勇者も不思議そうな面持ちだ。
「どうせ来るのなら、通る道を制限したいのかもしれない。監視がしやすいでしょう。」
「それかもしれませんね。じゃあ、どうしましょうか、敢えて他の場所から渡りますか?」
父親は少し黙って考えてから、首を横に振った。
「おそらく、我々がここにいる時点で、既に捕捉されています。このまま進みましょう。」
ここに勇者がぞろぞろやって来ていると知りながら、何故魔物は襲ってこないのだろうか。首をひねりながら、ダスワルトは川を眺める。不自然なほどに鮮やかな青色の川だ。魚の影もほとんどない。毒でも流れているのだろうか。あまり、水の中に入りたくはない。そう思っていたら、不意に跳ねた水が口元に掛かった。毒などと考えていたくせに、何の気なしにぺろっと舐めてしまう。
「あれ、酸っぱい。」
ダスワルトの独り言を聞いた父親が、怪訝そうな顔をする。
「川の水が、ちょっと酸っぱいんです。毒ですか?舐めちゃった。吐いた方が良いでしょうか。」
「いや、舐める程度なら問題は無いだろう。」
「何で酸っぱいんですか?」
「イェメナの地には、熱水が噴き出すと教えただろう。その酸度が強いのかもしれない。ただ、自然にこの川に流れ込んでいるのか、それとも魔物が意図的に誘導しているのか、それは分からないな…。」
父親は思慮深そうな眼差しで川の周囲を見渡した。が、すぐにはっと我に返ったように橋の向こうに目を向ける。
「そんなことを探求している場合ではないな。行こう。」
無理やり好奇心を押さえつけて、父親は足を進めた。
予想通り、橋は丈夫で信頼のおける構造物であった。念のために身の軽い者が警戒しつつ先行したが、橋が崩れることも、渡河中に魔物が襲い掛かってくることもなく、罠とは程遠い、誰でも使える便利な橋であった。
その後も道中は極めて安全快適で、踏み固められたと思しき道は延々と続き、一行は導かれるように自然に奥へと進んでいく。勇者は歓迎されているのではないかとさえ勘違いしそうになる。しかし、遠目に見えていた魔王城が近付いてくるにつれ、辺りの景色は徐々に生気を失っていった。植物は姿を消し、動くものの姿も無い。一帯には強い異臭が漂い、色彩の乏しい地表からは高温の噴気が立ち上っている。噴気の足元の黄色い堆積物だけが、荒涼とした地面の上で不気味なほどに鮮やかである。
その死せる大地に、黒々とした威容が屹立している。魔王城だ。看板があるわけでも何でもないが、人間を含むあらゆる生命を拒む過酷な環境に聳え立つ禍々しい城塞が、魔王城以外の物であるはずはない。
踏み固められた道は、真直ぐに魔王城に続いている。来る者の命をその場で断ち切らんばかりの禍々しい扉がそこにある。
一行は立ち止まって、その異様な光景に見入った。入ったら、もう、魔王を倒さねば出てくることはできない。
「ダスワルト。」
名を呼ばれて、ダスワルトは父親に近付いた。父親は懐から紙きれを取り出した。どうしまっておいたのか、几帳面に畳まれて、しわ一つない。
「もし一人で兄上の元に戻ることがあれば、兄上にこの手紙を渡しなさい。」
「伯父さんにはお手紙を出されたのではないのですか?」
「一言だけ、添えたくてな。」
魔王城に出立する前に、父親が整った字で延々と長文をしたためていたのをダスワルトは目撃している。そこにはダスワルトの不始末を詫びる部分も大いに含まれていたはずである。そう思うとばつが悪くて、その時は直ぐに立ち去った。書き洩らしたことがあったのだろうか。ちょっと、気になる。
「読んでも良いですか?」
「馬鹿者。それは兄上に宛てたものだ。人の書簡を盗み見るものではないよ。」
優しく雷が落ちた。父親の顔は笑っている。ダスワルトは少し落ち着かない気分で、手紙を懐の奥の方に突っ込んだ。無くさないようにとの配慮だが、折角のピンと張っていた手紙は直ちにしわくちゃになった。
「まったく、お前というやつは…。」
息子の雑な手つきを目の当たりにして、父親は苦笑いしながらダスワルトの頬を撫でた。母親のそれより大きいけれど、重い武器ではなく、本とペンを取り続けてきた柔らかい手だ。
父親はダスワルトから手を離すと、ゆっくりと魔王城を振り返った。
「さあ、行こうか。」
父親の静かな掛け声に、一行は黙って頷いて応えた。




