第54話
翌朝、あまり眠れなくて寝ぼけた目をこすりながら起き出すと、父母は別の勇者パーティと打ち合わせをしているところだった。父母は長旅の直後である上に、おそらく寝ていないはずだが、疲れた様子も見せていない。
結論はどうなったんだろう、とドキドキしながら父親の横顔を見ていたら、ダスワルトに気付いた父親が難しそうな表情を見せた。
「顔を洗ってきなさい。よだれの跡が付いているぞ。」
そう言う父親には、いつもどおり、髭の剃り残し一本たりとも存在しない。完璧な身繕いである。
あ、そっちのお叱りですか、とダスワルトはくすくす笑いを背に受けながら一旦退場する。ばしゃばしゃと冷たい水で顔を洗い、口をゆすぐ。ついでに、いつもは気にしない寝ぐせにもちょいちょいと水を付けて直したふりをして、次に服装を確かめる。ボタンの掛け違えを直して、シャツの裾をしまう。これでよし。だらしない格好をしていると、大事な話の前にまた余計なことで叱られる。
ダスワルトが戻ると、いつの間にか双子も顔を揃えていた。こちらは父親譲りの几帳面さで、よだれの跡を人に晒らすような真似はしない。寝ぐせもないし服装も整っている。ほぼ一緒に起きたはずなのに、一体どういうことなのかと、ダスワルトには不思議でならない。
勇者パーティが立ち上がって、子どもたちに父母の正面の椅子を譲った。少し不安なような心持になって、すれ違いざまにダスワルトが昨日の勇者を見上げると、彼はまたぽんと軽くダスワルトの背を叩いて、軽く微笑んで見せた。
「結論から言おう。」
3人が揃って座り、背筋を伸ばしたところで父が口を開いた。
「お前たちの同行を許可する。」
どう反応したら良いのか、とっさに言葉も表情も出せなくて、ダスワルトはただ生唾を飲み込んだ。兄と姉も、黙っている。
「魔王城に行くということが何を意味するのかは、お前たちも理解しているはずだ。今日を含めて3日間休息し、その翌日に立つ。出発まで、後悔の無いように過ごしなさい。」
ダスワルトは父親の横に座る母親の顔を窺った。眼の縁が赤い。瞼もぽってりしている。泣いていたのかもしれない。今は、穏やかな笑顔を浮かべている。
「さしあたっての諸注意がある。」
「はい。」
「私とベリアのいずれかが死んだ場合、速やかに逃亡しなさい。それ以上抗戦してはいけない。お前たち自身が逃げ切ることに、全力を尽くすんだ。他の生存者のことは考慮するな。」
「…はい。」
「逃亡した場合は、兄上の元に身を寄せなさい。思うところはあるだろうが、お前たちにとって最善の庇護者であることに変わりはない。」
「はい。」
「それから、参戦する以上、お前たちは戦力とみなす。私たちも、他の方々も、お前たちを擁護しない。自分の身は自分で守りなさい。」
「はい。」
「以上だ。決心が揺らぐようであれば、言いなさい。出立までに申告すれば、兄上の元へ帰還させる。質問はあるか?」
期待していたこととはいえ、急にあれもこれも言われると、頭の中の処理が追い付かない。ダスワルトは言われたことを心の中で復唱するので精いっぱいで、質問を思いつくゆとりが無い。黙っていたら、兄が落ち着いた声を発した。
「父さんと母さんが逃亡することはあるんですか。」
「無い。魔王討伐令を受け、討伐申請を出した勇者に逃走は許されない。」
討伐令を受け、免許を返納して軍属となるでもなく、だらだらと魔王城近辺まで来て、討伐行ってきますの申請まで出して、どろんと雲隠れするのは禁じられている。ただし、永久免許取消以外に罰則はない。というか、罰を加えようもない。討伐申請を出したまま放置すれば死亡扱いになってしまうし、無事魔王を倒して帰還したという手続きを取ると魔王討伐の証拠品の提出を求められ、何も提出できず虚偽申告がバレるとそこには別の罰則が既定されている。逃げ道は、ルール上は無い。死亡扱いされるのを承知で城に行かずに逃亡し、どこか遠い異国で完全に別の人生を歩むことは可能だが、この父親に限ってその手段は存在しない。免許取得時にルールを学習済みの兄にとっては、ただの最終確認である。
「分かりました。勝てばいいんですね。」
「そうだな。勝って、家族みんなで帰ろう。」
父親はそう言って、穏やかに微笑んだ。
それから数日は、休息期間とはいえ、役場への事務手続きやら、伯父への書簡やら、細々とした雑用をこなしているうちに時が過ぎた。他の勇者パーティとの調整で、双子はあれやこれやと使える魔法の情報を共有していたが、ダスワルトはほぼノーマークである。まともな戦力としてはみなされていないのがバレバレで、真に面白くない。やけくそになって、母親と一緒に剣技の稽古に励む。こんなことを考えたくはないが、これが母親から教わる最後になるかもしれないと思うと、もっと沢山のことを学んでおけば良かったという気持ちで押し潰されそうになる。それを忘れるために、一人になってもせっせと稽古に精を出す。
「頑張ってるねえ。」
件の勇者が声をかけてきた。
「あんまり根詰めすぎると、本番で筋を違えちゃうよ。」
「これくらい、いつもやっていたから大丈夫です。」
「へー、やっぱり君は早熟だな。ちょっと、相手してあげようか。」
そう言うと、勇者は自分の剣を鞘ごと手にした。その余裕ぶった態度がいささか癪に触って、ダスワルトはムッとしながらも本気で打ち込んだ。
「おー、やるね、さすがベリアさんの秘蔵っ子だ。」
勇者は笑顔のまま、難なくダスワルトの攻撃を防ぐ。結局、一太刀も浴びせられないまま、ダスワルトの息が上がってしまった。肩で息をしているダスワルトを、勇者はまたぽんと軽く叩く。
「どうだい、僕も強いだろ。」
「…はい。」
「君では、まだ役に立たないんじゃないかな?自己評価は、どんな具合?」
ムカつくやつだな、とダスワルトは仏頂面になる。
「私が子どもであると侮って、見くびってかかってくる相手であれば勝機はあります。」
「なるほど、卓見だね。じゃあ、絶対に魔王城に付いてくるんだ。」
来るなと言いたいのか、とダスワルトは目つきで問いかけた。勇者はハハハと笑い声をあげる。
「君たち家族の問題だ、僕は口出ししないよ。君を守ってもあげられないけどね。」
「口出ししないとしても、あなたはどう思うんですか。子連れで魔王城に行く勇者なんて、前代未聞でしょう。」
どうせ快く思っていないんだろうな、と少々卑屈な気分で尋ねる。
「それは確かにそうだ。そもそも小さい子持ちの勇者は選抜されないんだし。」
「あ、そうか。」
「でも、君のお父さんを含め、君たちが自分で悩んで、考えて、決めたことだろ。僕は好きだよ、そういうの。」
「そうですか。」
「だから、一緒に頑張ろうね。僕だって故郷に帰るつもりなんだから。」
勇者は剣を腰に戻すと、ダスワルトに背を向けた。そう言えば、この勇者のことを自分は何も知らないな、とダスワルトは思う。故郷がどこなのかも、何故魔王討伐指令を拒否しないのかも。そんなことを考えていたら、勇者がくるッと振り返った。
「そうだ。逃げる時は、絶対にためらうんじゃないよ。好機があったら、死に物狂いで掴むんだ。少しでも迷ったら逃げられないからね。」
「それは、あなたの経験則ですか?」
「はは、そうだよ。僕だって、最初から強かったわけじゃない。かなり逃げたさ。それこそ、なりふり構わずね。」
「はあ。」
「君は人生初の逃げが魔王になるかもしれないんだ。他にいないぞ、そんなすごい勇者は。胸張って、堂々と逃げろよ。」
そんな逃げ方、あるもんか。とダスワルトは口を尖らせたが、勇者はにかりと笑って去って行った。




