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異世界転石の先  作者: 七田 遊穂
第3章 箍
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第32話

 ミグレンから帰還した直後、魔王をはじめとする魔物たちは、囚われていた魔物の治療やその後の手当て、回収した亡骸の処置などに忙殺された。それが一息ついた頃、魔王は魔物たちに帰宅・休養の指示を出し、自らも自室に退いた。そしてそのまま、出てこなくなった。部屋は相変わらず無施錠で、誰でも入りたい放題だが、入ったところで魔王は毛布をかぶって縮こまっているばかりで、話しかけても何も答えない。毛布の中身が実は俵か何かに入れ替わっているのではないか、と疑ったウトが毛布をめくったら、中身は確かに魔王だったが、腕の中に顔を埋めたままピクリとも動かない。たまに、うん、とか、いや、とか一言だけ返事をするので、生きているのは分かる。不安になったウトがしつこく入り浸ってうるさく声をかけていたら、一人にしてくれとだけ喋った。ここ数日でそれが最大の長台詞である。おかげで、ウトは部屋の前でうろうろ彷徨うしかなくなっている。


 トウリは恭しい手つきで戸をノックした。返事は無い。想定どおりなので、トウリは静かに戸を開けて部屋の中に入った。魔王は壁際の寝台の片隅で、毛布をかぶって膝を抱えている。噂に違わぬ引きこもりっぷりである。


「魔王様、ヨルンがシュークリームなるお菓子を作りましたよ。」


 トウリが声をかけても、毛布の塊に動きはない。菓子から微かな甘い香りも漂っているが、届いているかどうか。


 トウリは脇机に盆を静置し、寝台に腰かけた。そっと手を伸ばして毛布の端を持ち上げると、魔王は腕の中に伏せていた顔を微かに上げた。泣き腫らしたような赤い目をしている。トウリの姿を捉えると、魔王はぽろぽろと涙をこぼして、またうつむいてしまった。


「魔王様、どうなさったのですか。」

「…どうやったら、魔王を辞められるかな。」


 ぼそぼそと小さい声が漏れてきた。


「…分かっている。死ぬより他に、辞める方法は無い。でも、死ぬわけにはいかない。魔王は、魔物に必要だから。」

「…」

「だけど、私じゃない方が、良いと思うんだ。」

「何故、そう思われるのですか?」


 トウリが尋ねても、魔王はうつむいたまま答えない。トウリは持ち上げていた毛布をそっと魔王の背に掛けた。


 やれ弱いだとか、戦うなだとか、頼りないだとか散々に言われている魔王であるが、美点を一つ上げるとすれば、愚痴をこぼさないという特徴がある。あっけらかんとへなちょこを自称し、戦えない魔王であると素直過ぎるほどに自認しているが、それで卑屈になることはない。不満や悩みを溜めこんでも、せいぜい川辺で一人背を丸めて石ころとの雑談に耽るくらいである。その魔王が、こうも素直に弱音を吐くというのは珍しい。だからこそ、トウリは黙ったまま、辛抱強く待った。


 茶器から湯気が全く立ち昇らなくなった頃、魔王は漸く重い口を開いた。


「あんなことをするべきではなかった。」

「ミグレンの件ですか?」


 魔王はほんの少しだけ顔を上げて、頷く。


「だが、ああするより他に無かった。それなら、私がそれを受け容れられるようにならなければいけないんだ。だから、頑張った。…いや、頑張ったのかな。」


 魔王は口を噤んだ。何かを考えるように、微かに首をかしげる。


「ちょっと違うな。石から話を聞いて、ミグレンを実際に見て、そうしたらすごく腹が立ったんだ。ただ、計画を考えているうちに段々怖くなってきた。こんなことをしてはいけない、と思ってしまった。だから、そう思わないようにしようと、頑張って怒ったんだ。怒って、怒って、無理やり怒り続けたけれど、やはり、私は変われなかった。最善の手を尽くしたはずなのに、他にどうしたら良かったのか分からないのに、ものすごく後悔している。だから、もし、また同じことが起こったら、私は仲間を助けに行ける自信が無い。」


 ぽたぽたと魔王は抱えた膝の上に涙をこぼした。


「もっとしっかりした魔王だったら、良かったのに。樹に元気が無かったから、私は失敗作なのかもしれない。皆に申し訳ない。」


 魔王はまた腕の中に顔を埋めた。


 暫くトウリは黙って魔王を見つめていたが、やおら手を伸ばして魔王の黒髪に触れた。


「…私が初めてお仕えした魔王は、アルクィン様でした。」


 魔王は顔を伏せたままで軽く頷く。


「アルクィン様は、果断な判断をなさる御方でした。今回の件は、アルクィン様であっても同じように処理されたことでしょう。決して後悔なさることなく。」


 トウリは魔王の黒髪を軽く指に絡めた。瞳も、髪も、本当によく似ている。だが、あの魔王の涙など一滴も見たことが無い。同胞であるはずの魔物に刃を向けられ、死を迎えようとしている時でさえ、あの黒い双眸には何の表情も無かった。


「私は、リュゼ様が後悔できる魔王であることを、嬉しく思います。あなた様が魔王で、本当に良かった。」


 魔王は顔を上げた。腫れぼったい瞼の下から、トウリに目を向ける。


「リュゼ様は、リュゼ様のままでよろしいのですよ。」

「トウリは、前にもそう言ったな。」

「何度でも申し上げますよ。リュゼ様が変わってしまわれては、困ります。私は、あなた様だからこそ、お仕えしたいと思うのです。」


 トウリは手巾を取り出して、魔王の顔を丁寧に拭った。魔王は大人しくされるがままになっている。


「もちろん、いかなる魔王様であっても、お仕えは致します。ですが、我々にも心がございます。心に染まぬ命に従い続ければ、おそばにいることが苦しくなることもあるのです。」

「そんな魔王がいたのか。」

「歴代の魔王様も、個性豊かでございましたので。」

「…私は、トウリにも皆にも、そんなふうに辛い思いはさせたくないな。そんな我慢をさせるくらいなら、私が皆に叱られている方が良い。」


 淡々と魔王が呟くのを聞いて、トウリは微かに笑った。魔王という種族は魔物を愛おしむ。それはどの魔王でも不変の特性だ。だが、その表現の仕方は一様ではない。かつての魔王アルクィンは、魔物の意思を尊重するために、魔王への従属を拒む魔物の命を奪った。生きている限りは気に入らない魔王に従わねばならないのだから、死を与えることでその辛い隷属から解放しようという意図である。そこにあったのは、その魔王なりの魔物への愛情だったはずだ。だが、当然、そんな愛情は要らない。


「リュゼ様が今のままでおられれば、何の心配も要りませんよ。」

「そうかな。」

「足りない部分があれば、皆でお支え致します。お説教も、いくらでも致しましょう。」

「それは…ええと…あんまり、要らないかも。」


 魔王は、プイと顔を背けた。しかしすぐに、でも、と呟く。


「もし、また同じようなことが起きて、私が全然動けなかったら、叱ってくれるかな。」

「もちろんです。お尻を叩いてでも引っ張り起こしましょう。」

「…じゃあ、逆に、今回みたいにやり過ぎてしまいそうだったら、止めてくれるか?」

「必ず、お止め致します。この命に代えましても。」


 魔王は縮こまっていた背筋を少し伸ばして、トウリの瞳を真直ぐに見つめた。トウリも視線を逸らさない。


 しばらくそうして黙っていたが、やがて魔王は毛布の籠から抜け出て、トウリの傍らににじり寄った。トウリの手に自らの手を重ねて、柔らかく握ると、ふっくらとした唇の合間から言葉が漏れた。


「そうか、トウリはずっと、私を止めようとしてくれていたんだな。」


 トウリが何か答える前に、魔王はふっと表情を緩めて、トウリに抱き着いた。ぎゅうとしがみついて、胸に顔を埋める。


「気付けなくて、ごめんなさい。」

「いいえ、私が力不足でした。」

「そんなことはない。私が鈍いんだ。だから、もし次があったら、3時間でも4時間でも、丸一日でも、みっちり説教してくれ。」

「それは、お説教するこちらも大変ですね。しかし、努力致しましょう。」


 トウリは笑って、幼い頃のように魔王の頭を撫でた。きっと、どれだけ叱りつけても、この魔王に命を取られることはない。


「トウリ、いつもありがとう。」


 魔王はトウリにくっついたまま、トウリを見上げて言った。


「大好きだよ。」


 魔王はにこりと心をとろけさせる笑みを浮かべた。潤んだ真っ黒な双眸が上目遣いにトウリに注がれる。


 んん、とトウリは咳払いをした。これは、ウトにはとても見せられたものではない。嫉妬で八つ裂きにされかねない。この天然っぷりは、ある意味、かつてのアルクィンよりも危険かもしれない。


 司書長は、魔王の箍を外すなと言った。この魔王は、アルクィンに通じるものがある、と。それは確かにそうかもしれない。根底にあるものは似ている。もしそれが自由自在に溢れ出るようになれば、過去の繰り返しになるだろう。だが、その根底をさらけ出すために外すべき箍は、想像以上に頑健で、硬く締め付けられていて、どうあがいても取れそうにはない。

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