第27話
火の手が各所から上がっているにしては、邸内には火の広がりが遅い。通用口の炎が嘘のようだ。そのくせ、勝手口や外に出られる大型窓付近は、とても通れないほどに燃え盛っている。こんな不均衡な燃え方があるものだろうか。いや、おかしい。魔物の仕業に違いない。となると、魔物は火を使うタイプだ。勇者として魔物討伐の経験がある警備員たちは、そんなことを囁き交わしながら足を進める。火属性の魔物が待ち伏せしているのであれば、水属性と氷属性をまずぶちこむ。その予定で、前衛に盾となって接近戦を行う者を、中衛に水と氷の魔法を使える者を配置する。魔物討伐はゴリ押しだけでは失敗するのだ。それくらいは、痛みと共に経験済みである。
正面玄関の広間の手前で、警備員は一旦足を止めた。廊下の陰から、様子を窺う。今のところ、玄関付近にさしたる火の気はなく、魔物の姿もない。それが却って怪しい。まるで、ここに集合せよと誘導されているかのようではないか。
「早く先に行って。何で止まるの。」
恐怖で動転している客人たちが警備員をせっつく。このままでは警備員を置いて飛び出していきかねない。そんな乱戦状態になったら、護衛なんぞできやしない。それより何より、煙がじわじわと流れてきている。どの道、ここで罠を警戒していつまでも立ち止まることはできない。
警備員たちは視線を交わして頷き合って、そろりそろりと広間に出た。多量の人手を活用して前後左右を全て警戒し、武器を構えつつ、ゆっくり進む。
灯されていたはずの明かりは、何故か殆どが消えている。煙もあって視界が利かない。光魔法で照明を、と思った矢先、先頭を歩いていた警備員の視界の正面にふわりと人影が現れた。
いや、人影だけではない。その背後に、暗闇に溶け込むようにして数多くの気配がある。
「誰だ。」
誰何の声を上げる。他の警備員にも注意を促すためだ。
「デュークリーはどこだ?」
人影が言葉を発した。デュークリーは金商の名だ。人影は金商の居所を尋ねている。間違いない。魔物は金商に報復するためにここにいる。
そんな奴らに、わざわざ標的をご紹介するような間抜けはいない。暗闇はお互い様、不意打ちを仕掛けるか。警備員は武器を握りしめた。
「そこの、緑色の服を着た髭面の男か?」
はっ、と警備員は息を飲む。この暗闇の中で、見えているのか。それでは、圧倒的にこちらが不利。さっさと照明をつけた方が良い。照明魔法を使える者に小声で合図を出す。
「それとも、その隣の青い服の男か?」
「ち、違う、私はデュークリーさんじゃない!」
「では、その後ろの水色の服の女か?」
「違う、違う!やめて、私は関係無い!」
「…面倒だな。デュークリー、そこに、いるのだろう?」
低くも高くもない声は不気味なほどに落ち着き払っている。暗闇の中から、暗闇よりもなお暗い瞳に射すくめられたような気がして、金商は我知らず身を震わせた。
「な、何をしている、魔物だぞ、さっさとやれ!」
金商は警備員の陰に身を隠しながら声を上げた。
「…なるほど、お前がデュークリーか。はじめまして、私は魔王だ。」
警備員たちが一斉にびくりと身をすくませた。勇者であったことがある者ならば、誰でもその討伐を夢見る標的。魔王城の奥深くに鎮座し、数多の勇者を帰らぬ人と化してきた諸悪の根源。それが今、ここにいる。
照明魔法が打ち上がった。暗がりに慣れた目が眩まないよう、光量は抑え気味にしてある。だが、魔王の姿を網膜に焼き付けるには十分だ。
しかし、記憶に遺す時間は残されていなかった。
警備員たちが、金商が、あるいは使用人たちが最後に見たものは、黒髪を揺らし、一筋の光も無い黒い双眸で無表情に人間たちを見渡す魔王の姿だった。あ、と思う間もなく、その場の人間の上体がまるで胸像になったかのように胴体からずれて、ごとりごとりと鈍い音を立てて落ちる。それと前後して、残りの胴体も血を吹き上げながら床に倒れた。
「後ろにまだ沢山いるな。」
広間に入りきらなかった後続が、余りにも急な展開を理解できずに怯えた表情で固まっている。魔王は小首をかしげてそれを眺める。
「出てきてくれないとやりづらいな。ヨルン、そろそろ本格的に焼いてくれ。炙り出そう。」
「…はい。」
ヨルンはちらりと魔王の横顔を眺める。返り血をかなり浴びているが、気付いていないかのように何の表情も無い。ぼうぼうと屋敷中を燃やしている張本人であるにも関わらず、うすら寒くなってヨルンは魔王から目を背けた。
「火に弱い者は外に出て、外の人間と脱走者の殲滅を。その他は残りの片づけを手伝ってくれ。地下もあるはずだ。まだ残党は多いぞ。」
魔王はゆっくりと足を前に進めた。後ろには火、前には魔物、身動きが取れず思考も停止している人間に近付いていく。
「魔王様。」
トウリが魔王の細腕を強く掴んだ。
「魔王様、これ以上はいけません。」
トウリは魔王の双眸を凝視した。昏い穴ぼこのような瞳だ。ここで止めるしかない。もう引き返せなくなる。本当に、あれが司書長との最後の別れだったのかもしれないな、とトウリは密かに苦笑する。
「トウリ、邪魔をするな。人間が逃げてしまう。」
「いけません。」
「離せ。」
「離しません。どうしてもとおっしゃるなら…」
そこで少し、言い淀む。




